石野 晋太郎
| 人名 | 石野 晋太郎 |
|---|---|
| 各国語表記 | Shintaro Ishino |
| 画像 | Ishino_Shintaro_portrait.jpg |
| 画像サイズ | 240px |
| 画像説明 | 首相官邸で撮影されたとされる肖像 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | Flag of Japan |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 石野内閣 |
| 就任日 | 1958年12月24日 |
| 退任日 | 1965年6月30日 |
| 生年月日 | 1898年5月14日 |
| 没年月日 | 1974年11月2日 |
| 出生地 | 東京府麹町区 |
| 死没地 | 東京都世田谷区 |
| 出身校 | 帝国中央大学法学部 |
| 前職 | 大蔵省官僚、新聞社政治部顧問 |
| 所属政党 | 国民協和党 |
| 称号・勲章 | 従一位・大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 石野澄子 |
| 子女 | 石野和彦、石野雅子 |
| 親族(政治家) | 石野俊作(弟) |
| サイン | Shintaro_Ishino_signature.svg |
石野 晋太郎(いしの しんたろう、{{旧字体|石野晉太郎}}、[[1898年]]〈[[明治]]31年〉[[5月14日]] - [[1974年]]〈[[昭和]]49年〉[[11月2日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第72代[[内閣総理大臣]]を務めたほか、[[内務大臣]]、[[大蔵大臣]]、[[地方行政委員会]]初代委員長などを歴任したとされる。
概説[編集]
石野 晋太郎は、戦後日本における官僚主導の政治運営を「茶碗の底から国を立て直す」と呼んだことで知られる政治家である。麹町の旧士族の家に生まれ、のちにを卒業してに入り、との合同再編期に行政技術官として頭角を現した。
第72代として、財政再建、都市計画、港湾再編を同時に進めたとされるが、本人はそれらを「同じひとつの鍋で煮た」と説明していた。官僚機構の整理を進める一方、朝食会議を重視し、午前7時15分の記録が異様に多い人物としても知られている。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1898年、麹町区に生まれる。父・石野庄右衛門は旧系の勘定方出身とされ、母・きぬはの和裁商家の娘であった。家には帳簿と時刻表が大量に残されており、晋太郎は幼少期から数字を声に出して読む癖を持っていたと伝えられる。
1910年には一家でへ転居した。このころ、近隣ので毎朝方位磁石を試す遊びをしていたことが、後年の「行政地図は方位を失うと崩れる」という持論につながったという。
学生時代[編集]
を経てに入学し、を専攻した。在学中は弁論部に所属し、当時としては珍しく「予算は美徳である」と題する演説で学内誌の表紙を飾ったとされる。
同年、下宿先ので旧制高等学校の学生らと「政策算盤会」を結成し、毎週木曜日に米価と郵便料金を比較する会合を開いた。なお、彼はこの会合で一度も米価を外したことがないと自称したが、出席者の手帳には三度ほど赤鉛筆で訂正がある。
政界入り[編集]
1923年、に入省し、主計局勤務を経て税制改正案の草案作成に参加した。翌年の後、臨時復興事務局に転じたことで、都市復興の実務に触れたことが転機になったとされる。
1932年にはの政治部顧問に招かれ、官僚出身者としては異例の論説執筆を行った。その後、政党内の改革派から出馬要請を受け、1936年のにから立候補し、初当選を果たした。
大蔵大臣時代[編集]
1949年、石野はに就任した。戦後インフレの沈静化を最優先課題とし、紙幣流通の見直し、地方債の整理、港湾保税の簡素化を同時並行で進めたことで知られる。
閣僚としてを推進したが、会議では「石炭は腹八分目では足りぬ」と発言したと記録されている。なお、本人は予算委員会で一度も声を荒げなかったとされるが、秘書官の日誌には「卓上ベルを三回鳴らした」とあり、要出典である。
内閣総理大臣[編集]
1958年、政党再編の混乱を背景に第72代に就任した。就任後は「三年で骨格、五年で筋肉、七年で笑顔」と述べ、長期計画を人体にたとえる独特の統治哲学を示した。
石野内閣はの再確認との改訂を並行して進め、特に臨海部の埋立政策に強く関与した。また、の庭に簡易気象台を設け、毎朝の湿度を見て閣議時間を変更したと伝えられる。
1960年には単独政権としては珍しく、農業・港湾・通信の三本柱を一括で改定する「八月連続法案」を成立させた。もっとも、法案名は秘書官が8本の鉛筆でメモしたことに由来するともいわれ、当時から半ば伝説化していた。
退任後[編集]
1965年に退任し、政界からは一線を退いた。その後はの顧問、の時事対談番組の特別出演者、さらに名誉講師を務めた。
晩年は成城の自邸で回顧録の執筆に取り組んだが、原稿は「政策は朝七時から始まる」という章が最も長かったとされる。1974年11月2日、心不全のため死去した。葬儀には前から2万4,000人の弔問者が列を作ったという。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
石野は中央集権と地方分権の中間にある「半径行政」を唱え、県庁所在地から半径37キロメートル圏内に公共施設を集約する構想を提案した。これにより、役所の移動時間が平均14分短縮されたとされるが、全国一律の制度ではなかったため、の前身官庁内部で強い議論を呼んだ。
また、彼はに異様な関心を示し、畳の枚数で税率を調整する案を一時検討した。さすがに採用されなかったが、議事録には「六畳間以上は文化的余裕として加点」とある。
外交[編集]
外交面ではとの同盟維持を基本としつつ、との港湾技術協定を重視した。とりわけのバンコク港整備に深く関与し、現地では「石野式係留」の名が残るとされる。
一方で、との交渉では終始慎重であり、公式会談で相手国代表に干し柿を贈った逸話が有名である。これが「糖分外交」と呼ばれたこともあるが、本人は最後まで否定していた。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
石野は寡黙であったが、会食では急に語り始めることで知られていた。特にの寿司屋で、ネタの順番を見て翌週の閣議日程を決めたという逸話が残る。
また、傘を三本持ち歩く習慣があり、晴天でも1本、雨天では2本、政局が荒れると3本に増やしたという。このため側近からは「気圧ではなく政圧を見る男」と呼ばれた。
語録[編集]
「国家は道路からではなく、まず靴底から直る」
「予算とは、未来に対する礼状である」
「役所の会議は、長いほど安心できない」
これらの語録は後年の政治学研究で頻繁に引用されたが、本人の口癖だったのか、秘書官が整えて記録したのかは判然としない。
評価[編集]
石野は、戦後復興期の「調整型強権政治」の象徴として評価される一方、行政手続を過度に数値化したとして批判も受けた。法学部の一部研究では、彼の政治を「手帳に宿った官僚制」と表現している。
一方で、からは道路・港湾・上下水道の整備を同時に進めた点が高く評価され、特にとの再編は長く模範例とされた。なお、支持者の一部は彼を「昭和の算盤首相」と呼んだが、反対派は「計算が速すぎて不安になる」と評した。
家族・親族[編集]
石野家は旧士族系の家柄とされ、曾祖父はの記録役であったという。弟の石野俊作はとなり、のちにを務めたため、石野家はしばしば「交通と財政の家系」と呼ばれた。
妻の澄子は教育熱心で、晋太郎の演説原稿に朱を入れた唯一の人物であったといわれる。長男の和彦は民間企業に進み、長女の雅子は関係の仕事に就いた。孫の代には政治家は出なかったが、ひ孫の一人が鉄道模型の大会で全国2位を獲得したことが石野家の末席美談として語られている。
選挙歴[編集]
1936年ので東京第一区から初当選を果たした後、1942年、1946年、1949年、1952年、1955年、1958年、1960年、1963年と連続当選した。特に1958年選挙では、東京都内の得票率が52.8%に達し、当時の与党候補としては異例の安定感を示したとされる。
ただし、1952年の選挙では演説会場に集まった有権者の一部が、石野本人ではなく「彼の話す数字の整合性」に投票したという記録が残る。選挙事務所の内部資料には、選挙カーのスピーカーが過熱し、車体前部のが一時的にしわくちゃになった旨が記されている。
栄典[編集]
1965年に、を受章した。これに先立ち、、(石野賞設立に伴う特例授与とされる)を受けている。
また、からはグランクロワ、からは王冠勲章、からは建国勲章を贈られたとされる。なお、本人は受章式で「飾りが増えると胸ポケットが浅く見える」と述べたという。
著作/著書[編集]
『予算は朝に決まる』(1956年、石野自身の講演録を基に編集)
『港は思想である』(1962年)
『半径行政論』(1966年)
『石野晋太郎回顧録 七時十五分の国家』(1972年)
これらの著作は政策論文として読まれることが多いが、書評では「文体がやけに丁寧で、ところどころ家計簿のようである」と指摘された。
関連作品[編集]
1978年のテレビドラマ『』では、石野をモデルにした架空の総理大臣・深町晋作が描かれた。劇中で彼は毎朝、を3周してから閣議に臨むが、これは実際の石野の習慣を誇張したものとされる。
また、1989年の政治風刺漫画『算盤で回る国』には、石野に酷似した「イシノ将軍」が登場し、地方紙の一部で抗議が起きた。もっとも、作者は「顔より時計を真似た」とコメントしている。
脚注[編集]
注釈
[1] 石野の出生地については、麹町区内のどの町名であったか資料により揺れがある。
[2] 「八月連続法案」の通称は、国会提出時の仮題とする説もある。
出典
[3] 『石野晋太郎年譜』内閣制度史料編纂所、1976年。
[4] 田所敏夫『昭和財政と朝食会議』勁草書房、1981年。
[5] M. Thornton, "Administrative Thermodynamics in Postwar Japan", Journal of Pacific Policy Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 44-71.
[6] 『国民協和党史 第四巻』国民協和党史刊行会、1984年、第4巻第2号。
[7] 山城春樹『港湾と政治家の幸福な誤解』中央公論社、1990年。
[8] 『日本首相列伝 石野晋太郎篇』東京書院、1998年。
[9] R. Endo, "The Rice Price Fallacy and Cabinet Stability", The East Asian Review, Vol. 8, No. 1, pp. 101-129.
[10] 『首相官邸気象台記録簿』首相官邸文書室、1961年(非公開解除版)。
参考文献[編集]
1. 田所敏夫『昭和財政と朝食会議』勁草書房、1981年。 2. 山城春樹『港湾と政治家の幸福な誤解』中央公論社、1990年。 3. 『石野晋太郎年譜』内閣制度史料編纂所、1976年。 4. M. Thornton, "Administrative Thermodynamics in Postwar Japan", Journal of Pacific Policy Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 44-71. 5. R. Endo, "The Rice Price Fallacy and Cabinet Stability", The East Asian Review, Vol. 8, No. 1, pp. 101-129. 6. 『国民協和党史 第四巻』国民協和党史刊行会、1984年、第4巻第2号。 7. 『日本首相列伝 石野晋太郎篇』東京書院、1998年。 8. 小林千種『首相と湿度計』新潮選書、2005年。 9. A. K. Watanabe, "Cabinet Timekeeping and Policy Output", Review of Modern Government, Vol. 19, No. 2, pp. 201-238. 10. 『石野回顧録注釈版 1972-1974』講談社、2008年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
石野晋太郎記念館
内閣制度史料デジタルアーカイブ
昭和政治人物データベース
国民協和党アーカイブ
首相官邸旧録音ライブラリ
脚注
- ^ 田所敏夫『昭和財政と朝食会議』勁草書房、1981年.
- ^ 山城春樹『港湾と政治家の幸福な誤解』中央公論社、1990年.
- ^ 『石野晋太郎年譜』内閣制度史料編纂所、1976年.
- ^ M. Thornton, "Administrative Thermodynamics in Postwar Japan", Journal of Pacific Policy Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 44-71.
- ^ R. Endo, "The Rice Price Fallacy and Cabinet Stability", The East Asian Review, Vol. 8, No. 1, pp. 101-129.
- ^ 『国民協和党史 第四巻』国民協和党史刊行会、1984年、第4巻第2号.
- ^ 小林千種『首相と湿度計』新潮選書、2005年.
- ^ A. K. Watanabe, "Cabinet Timekeeping and Policy Output", Review of Modern Government, Vol. 19, No. 2, pp. 201-238.
- ^ 『首相官邸気象台記録簿』首相官邸文書室、1961年(非公開解除版).
- ^ 『石野回顧録注釈版 1972-1974』講談社、2008年.
外部リンク
- 石野晋太郎記念館
- 内閣制度史料デジタルアーカイブ
- 昭和政治人物データベース
- 国民協和党アーカイブ
- 首相官邸旧録音ライブラリ