第二次ミッドウェー海戦
| 別称 | ミッドウェー再戦、第二次環礁交戦 |
|---|---|
| 実施期間 | 6月 - 2月 |
| 場所 | 沖、北西約2,100km |
| 参加組織 | 太平洋艦隊測量局、連合海図再編委員会 |
| 指揮官 | J・W・ハロラン大佐、渡辺精一郎少佐 |
| 目的 | 戦時海図の再検証と対潜航路の統合試験 |
| 結果 | 両軍の識別信号が混線し、演習は象徴的な再戦として記録された |
| 損害 | 艦艇損耗0、無線機故障17基、航海灯焼損4件 |
| 後続影響 | 戦後の海洋測量規格『中部太平洋標準座標』の制定 |
第二次ミッドウェー海戦(だいにじミッドウェーかいせん、英: Second Battle of Midway)は、期にの周辺で実施されたとされる、再航行型艦隊同士の夜間模擬戦闘である。後年の軍事史では、と旧双方の測量班が関与した「誤認誘導作戦」の典型として知られる[1]。
概要[編集]
第二次ミッドウェー海戦は、後半にと日本側の旧海軍技術者が共同で行った再現演習であるとされる。名称に「海戦」とあるが、実際には砲撃戦よりもとの不整合が主眼であり、現地では「海の上で行われた事務処理」と揶揄されたという。
この演習は、戦後に散逸した周辺の測量記録を統合するため、の港湾当局と太平洋艦隊測量局が主導したと説明されることが多い。ただし、初期記録の一部はの旧軍資料館から移管されたとされ、どこまでが正式作戦でどこからが研究会であったかは判然としない[2]。
歴史[編集]
起源[編集]
演習名に「第二次」が冠されたのは、戦時中ののを直接再現するのではなく、「第二の理解」を得るための事後戦闘であったからだと説明される。つまり、艦隊が互いに撃ち合う代わりに、双方の記録係が何度も時刻表を撃ち合ったのである。
当初は3月に開始予定であったが、と補給船『アロハ・マリナー号』の冷却装置故障により3か月延期された。これにより、参加者のあいだで「海戦より先に船の修理戦が始まった」と記した無署名メモが回覧された。
実施[編集]
また、北東域では、潮流観測用の白浮標が13本並べられ、そのうち2本が夜明け前に消失した。調査の結果、浮標は近隣の鳥類群により移動させられていたことが判明したが、当時の報告書では「航空機の低空偵察による位置攪乱の可能性」として処理された。
このような事情から、演習は次第に軍事訓練というより、海鳥・海流・無線混信の三者会談になったと評される。特にの送信所では、深夜帯に「敵艦隊接近」と「氷菓配送依頼」の符号が同時に流れ、暗号士2名が同じ卓上電卓を取り合ったという逸話が残る。
終結と記録化[編集]
終結は2月に宣言された。最終報告書『中部太平洋再戦要録』は全412頁に及び、そのうち戦闘結果の本文はわずか27頁、残りは潮位表、配給票、紛失した双眼鏡の所在一覧で占められていた。
報告書末尾には、勝敗を明示しない代わりに「双方とも相手の海図に依存しすぎた」と総括する一文が置かれた。これが戦後の海軍教育において「敵を知る前に自分の方位盤を疑え」という格言として流布したが、誰が最初に口にしたのかは今も定かではない。
戦術と装備[編集]
第二次ミッドウェー海戦で注目されたのは、艦砲よりも測量器材であった。とくにが試験的に投入した六分儀改良型『Mk.7-H』は、湿度が70%を超えると誤差が自動で1.8倍になる欠点があり、現場では「礼儀正しいが信用できない器具」と呼ばれた。
日本側は旧式の航海計算盤に加え、工廠で余剰となっていた発光信号灯を改造した「三色識別灯」を使用した。ところが青色が海霧に溶けやすかったため、識別よりも気分の高揚に寄与したと記録されている。
さらに、無線暗号の整合を取るために導入された『太平洋共通呼称表』は、艦名の代わりに果物名を用いるという異例の方式であった。これにより巡洋艦が「パイナップル」、補給艦が「メロン」、偵察艇が「ユズ」と呼ばれ、戦闘日誌の読み手を長く混乱させた。
社会的影響[編集]
この演習は、軍事史上の実戦ではなくとも、戦後の海洋測量と通訳教育に大きな影響を与えたとされる。にはで「海上記録の相互翻訳」という講座が開講され、受講者は波浪の観測値を日本語・英語・暗号文の三形式で提出することを求められた。
また、の港湾再建計画では、戦時中に分断された座標系を統一する際、この演習の報告書が参考資料として用いられた。とくに「海図は勝者のものではなく、最後に訂正した者のもの」という文言が行政文書に引用され、後年の港湾区画整理にも影響したという。
一方で、戦後の一部週刊誌は、第二次ミッドウェー海戦を「敗戦後に創作された官僚的英雄譚」であると批判した。これに対し、関係者は「英雄譚にしては配給が少なすぎる」と反論したとされるが、記録はとされている。
批判と論争[編集]
最大の論争は、そもそもこれを「海戦」と呼ぶべきかという点にあった。軍史研究者の中には、実際にはとの連続であり、海戦という名称は後年の新聞見出しにすぎないとする者もいる。
また、参加者数についても資料が一致しない。『中部太平洋再戦要録』では総計94名とされる一方、の名簿では112名、さらに港湾労働組合の記録では「少なくとも一度は全員が同じ船に乗った」としか記されていない。これにより、実数は80名台後半から120名未満のあいだに収まると推定されている。
なお、1960年代の回想録には、夜半の艦上で“敵艦”と呼ばれていたものが実は無人の観測台船であったとする証言が現れる。もっとも、この証言者は同じ章で「月を艦砲と見誤った」とも述べており、証言能力については慎重であるべきだと指摘されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ J. W. Halloran, "Cartographic Reconciliation in the Central Pacific", Naval Survey Review, Vol. 12, No. 3, 1949, pp. 41-68.
- ^ 渡辺精一郎『海戦後測量学序説』日本海図出版社, 1951.
- ^ Margaret A. Thornton, "Signal Drift and the Myth of Midway Two", Pacific Maritime Studies, Vol. 8, No. 1, 1952, pp. 9-27.
- ^ 連合海図再編委員会編『中部太平洋再戦要録』海軍文庫, 1948.
- ^ S. K. Hayashi, "Aloft, Afloat, and Misfiled: Logistics at Second Midway", Journal of Naval Logistics, Vol. 4, No. 2, 1950, pp. 113-140.
- ^ 佐久間重彦『暗号と潮流のあいだ』港湾研究社, 1954.
- ^ F. L. Mercer, "The Honeydew Fleet Order and Other Classification Errors", Proceedings of the Honolulu Institute, Vol. 6, No. 4, 1953, pp. 201-219.
- ^ 日本測量学会編『太平洋標準座標の成立』技報堂, 1961.
- ^ Eleanor P. Whitcomb, "A Second Battle that Was Mostly paperwork", The Western Navigator, Vol. 3, No. 5, 1956, pp. 77-88.
- ^ 高野鈴子『月を艦砲と見まちがえた夜』海鳴書房, 1963.
外部リンク
- 太平洋測量史資料館
- ミッドウェー再戦研究会
- 海上誤認記録アーカイブ
- 連合海図再編委員会デジタル版
- ハワイ戦後航路史センター