筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞
| 分野 | 舞踊・民俗芸能(伝承体系) |
|---|---|
| 成立 | 江戸後期の「月標標語」研究会を母体とする説がある |
| 主な要素 | 筒(胴具)・留(停止拍)・月(合図拍)・地名列挙 |
| 呼称の特徴 | 音節の反復と濁点配置を暗号化した読みがある |
| 伝承地域 | 神奈川県内陸部と横浜市周辺を中心に語られる |
| 関連組織 | 土ヶ谷町芸能講(架空)・筒留流月標連盟(架空) |
| 衣装の慣例 | 白地に青灰の斜線、袖口の鈴数が流派手続書で規定される |
| 記録様式 | 「舞譜」と呼ばれる韻文と図面を併記した冊子 |
筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞(つつるりゅうつきつつつうつつちがやのまい)は、日本各地の民俗演舞を「体系化」したとされる流派舞踊である。語感の通り、反復のリズムと地名を織り込む宣伝歌が特徴とされる[1]。
概要[編集]
筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞は、舞の動作だけでなく「詠み上げ」を構造に含めた芸能体系として説明されることが多い。流派名の読みが長く、音節のつながり(つつ・つう・つつちがや)が反復の合図になっているとされる[2]。
史料としては、月の出入りを時計代わりに扱う「月標(つきひょう)」と、途切れずに進む移動拍(通都とされる)を組み合わせた舞譜が挙げられる。特に「都土ヶ谷」の部分は、立ち位置を示す方角札として語られ、観客も掛け声で位置を確認する形式があったとされる[3]。
一見すると呪文のような語感が中心にあるが、実際には村の祭礼運営を効率化するための「進行台本」だった、という説明が近年の編者によって補強された。編者は、舞を習うことで役割分担(太鼓、鈴、呼び出し、花持ち)が固定され、結果として事故や空白が減った点を強調している[4]。
ただし、舞の技術要素は地域で微妙に違うとされ、袖の鈴数・停止拍(留)の長さなど、細部の差が「正統」と「異端」を分ける根拠とされてきたとされる。なお、最も厄介な論点として「月標を誰が最初に定義したか」が挙げられるが、これについては複数の系譜が並立し、決着していないとされる[5]。
成立と語感の設計[編集]
語感(つつるりゅう〜)が振り付けになるまで[編集]
筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞の設計思想は、「声の波形を身体の時間割に変換する」ことにあるとされる。流派の古写本では、音節ごとに足拍が割り当てられており、たとえば「つつ」は両足の同時着地、「つう」は片足の長踏み、「つつちがや」は両腕の交差を示す図が描かれたという[6]。
また、読みの先頭の「筒留(つつる)」は、太鼓の胴に取り付けた円筒(筒)を鳴らし、直後の拍で意図的に音を止める(留)手順が元になったと説明される。ただし、この「止め」は沈黙ではなく、観衆の掛け声が次の拍に繋がるまでの“数え上げ”として運用されたとされる[7]。
編纂作業に関わったとされる人物として、の御用語りであった渡辺精一郎(わたなべ せいいちろう、架空)が挙げられる。彼は“月の出の位相”を言葉に固定するため、暦師の記録を丸ごと韻文化したと伝えられている[8]。その結果、「月ツ津通都土ヶ谷」のように地名を連結する語りが、結果として移動拍(通都)の順序を保持する装置になった、とされる。
流派名がそのまま暗号として機能した理由[編集]
流派名は、後から“立派な名称”になったというより、もともとは舞順の照合コードだったとする説がある。つまり「筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞」は、手元の舞譜と舞の現場を突き合わせるための合言葉であり、誤読すると位置が入れ替わる作りになっていたとされる[9]。
この仕組みが評価された背景には、祭礼が大規模化するにつれて「誰がどこで何を鳴らすか」が増殖し、運営が破綻しがちだった事情があったとされる。そこで、合図となる音節の並びが採用され、結果として現場の再現性が高まったと説明される[10]。
一方で、暗号性の高さは“見せ物としての分かりやすさ”を削り、商人の興行側からは不満も出たとされる。特に横浜市の問屋筋が関与したとされる時期には、外部客向けに「地名列挙」を短縮する試みがなされたが、正統派は「短縮は留の比率を壊す」と反発したという[11]。この対立が、後述の「批判と論争」へ繋がったとされる。
歴史[編集]
江戸後期の「月標標語」研究会(成立の物語)[編集]
筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞は、江戸時代後期に増えた「暦と芸の相互流用」を背景に成立したとされる。成立に先立つ運動として、月の満ち欠けを“舞の安全装置”にする研究会があり、その中心人物が筒留流月標連盟(架空)だと記録されることが多い[12]。
同研究会は「月標標語(つきひょうひょうご)」と呼ばれる集会を月2回開催し、年換算で24回、さらに写本交換のための臨時会が年4回加わる計画であったとされる。細かい運営手順として、会場の鈴は毎回“左右で3つずつ”取り替える規定があったと書かれており、編者がそれを「聴覚の標準化」と呼んだという[13]。
ただし、成立の転機は研究よりも災害対応にあったとされる。1786年(天明期)に、祭礼の列が霧で分断され、役割者が見失った事件が起きたとされる。これを受けて、地名を歌詞に織り込み、道順を声で復元する工夫が求められ、結果として“都土ヶ谷”の反復が定式化されたという[14]。
ここで登場するのが土ヶ谷町芸能講(架空)である。講は、参加者名簿を横浜市の関係組合に提出する“実務講”として整備され、舞の練習が行政的な記録と結びついたとされる。なお、講の長は「毎回、合図拍の終わりを15拍で揃えるべし」と布達したと伝えられているが、具体的な出典は舞譜の余白だと説明される[15]。
明治の「公共興行化」と変質[編集]
明治期には、地方芸能が駅前興行と結びつく流れが強まり、筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞も“公共の定型”へ寄せられたとされる。とくに東京府の巡回指導員が編んだとされる『通都記(つうとき)』では、舞の進行を3部構成(導入・通都・土ヶ谷)として整理したという[16]。
一部には、導入部の停止拍(留)を「金属音が完全に消えるまで」と定義し直した記述がある。ただし、ここで矛盾が生じる。いわゆる“停止”が沈黙であるなら、鈴は鳴り続ける矛盾があるためであり、後の注釈者は「消えるのは音ではなく意味である」と説明したとされる[17]。この解釈が以後の教科書的説明になった、と編者が述べることがある。
また、明治後半の興行では観客層が変わり、地名列挙の語尾を滑らかにするため、濁点の位置が調整されたとも報告される。例えば「ツ津通都土ヶ谷」のうち「土ヶ谷」の“ヶ”を省略した版が流通し、これが一部で「簡易型」と呼ばれたという[18]。この簡易型は、習熟時間を短縮した一方で、正統派の舞譜照合が崩れる原因にもなったとされる。
社会的影響と運営技術としての価値[編集]
筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞が社会に与えた影響は、民俗芸能の域を超えて“手順の共有技術”として語られる点にある。舞は観客の前で行われるが、同時に裏方の動線を固定するための運用手段として機能していたとされる。具体的には、花持ちの交代は“月標”の合図で行い、太鼓担当は通都の区切りで位置移動したという記述がある[19]。
また、流派側は練習の記録を重視し、「舞譜には誤差が蓄積する」との理由で、練習回数を一定に保つ運用が組まれたと説明される。ある舞講の手続書では、月2回の主要練習に加えて“補助稽古”を月1回、計月3回とし、半年で18回の総稽古とする設計になっていたとされる[20]。さらに、1回の稽古は「導入部を7分、通都部を12分、土ヶ谷部を9分」と秒単位で書かれた版もあるが、これは後年の編集で“数字が盛られた”可能性があるとも注記される[21]。
このような運用は、結果として祭礼以外にも転用されたとされる。例えば、神奈川県内の労働者団体が、移動中の隊列整列に“留の数え上げ”を取り入れたという伝承がある。ただし、裏付けとして提示される文書は舞譜の写しのみであり、確証は弱いとされる[22]。一方で、語感の反復が人の注意を同期させる性質を持つという観点からは、実務的に採用しうるとの指摘がある。
批判と論争[編集]
筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞には、技術の保守性ゆえの批判が繰り返し出たとされる。とくに「暗号としての長い読みは、外部の参加者を排除する」という論点である。実際、簡易型(濁点調整や「ヶ」の省略)を採用した団体が、正統派から“舞の心臓を削った”と批判されたという逸話が残る[23]。
また、1904年頃に流派の師範が交代したとされる時期に、舞譜の一部が“差し替えられた”疑惑があった。疑惑は、同じ「15拍で揃える」規定が、ある写本では16拍に変わっていたという一点から広がったとされる。真偽は不明とされつつも、当時の記録係が酒席で「1拍余る方が見栄えが良い」と冗談を言ったのを、後年になって“改竄の証拠”とみなされたという説明まで存在する[24]。
さらに、学術界では「地名を歌詞に入れることが、地域の境界観を強化する」という指摘がある一方で、「単なる音の繋ぎであり境界を表すものではない」とする反論もあるとされる。とはいえ、筒留流月ツ津通都土ヶ谷ノ舞の“都土ヶ谷”が、聴衆の中で方向感覚を補強する役割を担っていたという証言が残るため、二つの見方は完全には収束していない[25]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 伊藤青嵐『筒留流の舞譜研究(第1巻)』筒留書房, 1892.
- ^ 渡辺精一郎『月標標語と反復拍の効能』土ヶ谷町芸能講出版部, 1898.
- ^ Margaret A. Thornton『Chant Patterns in Local Performances』Routledge, 1907.
- ^ 田中瑞穂『通都記の編纂史』東京府教育雑記社, 1911.
- ^ Jean-Pierre Delacroix『Rhythm as Operational Knowledge』Académie des Études Sociales, 1920.
- ^ 佐伯文左衛門『祭礼運営と停止拍(留)の標準化』東国民俗学会紀要, 第4巻第2号, pp. 33-61, 1931.
- ^ 山田彰一『横浜の興行と地名歌詞の変遷』【横浜】臨時興行資料館, 1956.
- ^ 小林義則『音韻暗号としての流派名』国文学季報, Vol. 12, No. 3, pp. 201-219, 1974.
- ^ K. Nakamura『Spatial Cues in Folk Choreography』Journal of Applied Ethno-Performance, Vol. 8, No. 1, pp. 1-15, 2003.
- ^ 嘘田真『停止とは意味である:注釈学の視点』青灰社, 1988.
外部リンク
- 土ヶ谷舞譜アーカイブ
- 月標標語オンライン講座
- 筒留流月標連盟(資料室)
- 通都記 解題サイト
- 反復拍データベース