築村 梨里
| 氏名 | 築村 梨里 |
|---|---|
| ふりがな | つきむら りり |
| 生年月日 | 1934年4月12日 |
| 出生地 | 相川町 |
| 没年月日 | 2007年9月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗造形家、記録詩人、講師 |
| 活動期間 | 1956年 - 2007年 |
| 主な業績 | 生活工芸口述史の体系化、紙粘土標本箱の制作 |
| 受賞歴 | 民間文化功労表彰、芸術振興賞 |
築村 梨里(つきむら りり、 - )は、の民俗造形家、記録詩人である。戦後日本における「生活工芸口述史」運動の先駆者として広く知られる[1]。
概要[編集]
築村 梨里は、出身の民俗造形家であり、日用品の形状と家族史を結びつけて記録する「生活工芸口述史」を提唱した人物である。本人は工芸家を名乗ることを好まず、あくまで「聞き取りのための手つきの人間」と述べていたとされる[2]。
後半から内の文化施設や、の集落調査に関わり、紙・布・針金・砂糖袋を用いた小型模型で地域の暮らしを再現した。彼女の方法は一部で学術的資料として扱われた一方、作品の一部にやけに精密な炊飯器の内部構造が含まれていたことから、後年まで話題を呼んだ。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
築村は、相川町の鉱山労働者の家に生まれる。幼少期から紙箱、木片、使用済み切符などを集めては机の引き出しに分類していたといい、近隣では「棚を作る子」と呼ばれていたという。
の空襲疎開後、の親族宅で暮らし、家事の合間に祖母から方言、年中行事、炊事の手順を断片的に聞き書きしたことが、後の活動の原型になったとされる。
青年期[編集]
に相当の課程を経て上京し、の聴講生として民俗学概論と図工教育法を学んだ。そこで系の口承資料整理と、周辺の立体構成技法に接し、この二つを無理やり結合したのが築村の出発点である。
、の小展示「家の音の標本」に出品し、茶碗の欠け方と家族構成を一対一で対応させた作品が注目された。なお、このとき会場で来場者が誤って作品に触れ、展示物の味噌樽がすべて同じ方向に倒れた事件があったが、築村はそれを「生活の重力が確認された」と記録している。
活動期[編集]
に入ると、築村はの公民館講座で「記憶の手工芸」を教え、受講者に各自の台所から一つだけ物を持参させて聞き取りを行った。完成した模型は毎回数十点に及び、の時点で累計が整理台帳に記録されたとされる。
にはの前身にあたる調査班の協力員となり、からまでの計自治体を巡回した。築村の手法は、語り手が「この茶碗は誰のものか」を答えられなくても、縁の欠けや底の焦げ跡から家族の動線を復元できるというもので、実地調査ではしばしば民俗学者よりも台所事情に詳しいと評された。
一方で、に発表した『砂糖袋の系譜図』は、戦後菓子包装の変遷をほぼ神話化したとして批判も受けた。本人は「包装紙は庶民の法令である」と述べたと伝えられ、これが有名な築村語録の一つとなっている。
晩年と死去[編集]
以降は、鎌倉市の自宅兼工房「梨棚庵」で制作を続けた。晩年は紙粘土による標本箱制作に傾き、冷蔵庫、石油ストーブ、割り箸などを縮尺で再現した作品群が知られる。
、慢性心不全のためで死去した。死後、工房から未整理のノート、箱入り試作、台所の水切り網を転用した抽象作品が発見され、関係者を驚かせた。なお、そのうち数冊はレシピ帳に見えるが、実際には近所の商店街の営業時間メモであったという。
人物[編集]
築村は寡黙で几帳面な人物とされる一方、展示の際には必ず会場の換気扇の位置を確認し、風向きによって作品配置を変える癖があった。これにより「作品より空気を先に読む人」と評された[3]。
逸話として、の講演会で聴衆から「なぜ台所ばかり作るのか」と問われた際、「台所は家族がもっとも嘘をつきにくい場所だからである」と答えたという。なお、これは後年まで引用されるが、記録者ごとに語尾が微妙に異なり、正確な原文は不明である。
また、築村は甘味に強い執着を示し、和菓子屋の紙袋を素材庫として保存していた。特に銘菓の包装紙を「地方流通の色見本」と呼んでいたことが知られ、講座の受講生に「袋を捨てる前に折り目を見よ」と教えていた。
業績・作品[編集]
築村の代表的業績は、に提唱された「生活工芸口述史」の方法論である。これは、家庭内の器物を単なる生活用品ではなく、世代間の会話を固定化した装置として読み解くもので、の地域記録事業でも一部採用された。
作品としては、『茶碗の裏に住む祖母たち』()、『七面鳥のない炊飯器図鑑』()、『台所のための方言地図』()などがあり、いずれも実物資料・模型・短い詩を同一箱に収める形式で知られる。とくに『台所のための方言地図』は、からまでの炊事用語を語収録したとされるが、なぜか「冷蔵庫の上の謎空間」に関する項目が最も長い。
にはで回顧展「梨里の箱庭」が開催され、来場者数はでを記録した。展示終盤に作品箱の一つから本物の乾燥豆が発見され、学芸員が「混入か演出か」で三日間協議したが、築村は生前「豆は音を吸う」とだけ残している。
後世の評価[編集]
築村の死後、後半からやの分野で再評価が進んだ。特に「物の配置から語りを復元する」という発想は、地域アーカイブや高齢者聞き取りの補助手法として研究されている[4]。
一方で、築村の方法には「詩的すぎて検証不能」とする批判も根強い。また、『砂糖袋の系譜図』をめぐっては、製糖会社のロゴ変遷を日本古代の家紋と接続したため、実務担当者から「おもしろいが帳簿に使えない」と評されたという。
にはで特別展が行われ、関連資料のうち約が「用途不明」として別室展示になった。これがかえって人気を呼び、若年層の来場者が築村作品を「箱入りの民俗詩」と呼ぶようになった。
系譜・家族[編集]
築村の父・築村清治は相川町の採鉱関連業務に従事し、母・築村トクは行商と裁縫を兼ねていたとされる。兄弟は姉が一人、弟が二人いたが、築村は末娘として家の器物整理を任されることが多かった。
に民俗資料整理を担当した編集者・と結婚し、のちに一男一女をもうけた。長男は資料保存技術者、長女は版画家となり、築村の工房の分類ラベルの一部は娘が小学校時代に書いた字がそのまま使われたという。
なお、親族の一部は築村の活動に懐疑的で、葬儀の際に「結局、あの人は箱の人だったのか」と述べたと伝えられる。この発言は半ば愛情、半ば呆れとして引用され、築村評伝の常套句となっている。
脚注[編集]
[1] 架空の人物史料に基づく。 [2] 『梨棚庵ノート』第7巻所収の口述記録による。 [3] ただし、この発言の初出は展覧会案内録であり、逐語一致は確認されていない。 [4] 研究者の間では、築村の方法は「半ば民俗学、半ば収納学」と呼ばれている。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松波幸子『梨棚庵ノート』梨棚出版, 1994.
- ^ 佐久間洋一『戦後民俗造形の成立』民芸書房, 2001.
- ^ K. Morita, "Domestic Memory and Small-Scale Modeling", Journal of Cultural Fabrication, Vol. 12, No. 3, pp. 44-67, 2009.
- ^ 田辺由紀『箱に入った方言たち――築村梨里の仕事』東都書院, 2012.
- ^ M. H. Sutherland, "Oral Craft Histories in Postwar Japan", Asian Folklore Review, Vol. 18, No. 2, pp. 101-129, 2015.
- ^ 新潟県立歴史博物館編『梨里と台所の記憶』新潟県立歴史博物館紀要 第24号, 2017.
- ^ 高橋理沙『包装紙の神話学』生活文化社, 2018.
- ^ E. Tanaka, "Sugar Bags as Genealogical Evidence", Proceedings of the Pacific Material Culture Society, Vol. 7, pp. 8-19, 2020.
- ^ 村上真一『記録詩人築村梨里の方法』北越大学出版会, 2021.
- ^ H. Watanabe, "A Spoonful of Silence: Tsukimura Riri and the Politics of Kitchens", Museum Studies Quarterly, Vol. 9, No. 1, pp. 55-72, 2023.
- ^ 小野寺悠『七面鳥のない炊飯器図鑑研究』梨里研究叢書, 2024.
- ^ A. K. Bell, "The Curious Case of the Boxed Ethnography", International Journal of Improvised Heritage, Vol. 5, No. 4, pp. 201-220, 2025.
外部リンク
- 梨棚庵アーカイブ
- 新潟生活工芸資料館
- 国際口述標本学会
- 箱庭民俗研究センター
- 東京都市文化振興財団 特別展示記録