鳥取県立鳥取西高等学校
| 正式名称 | 鳥取県立鳥取西高等学校 |
|---|---|
| 通称 | 鳥西、西高 |
| 設立 | 1908年 |
| 創設者 | 鳥取県師範補習協議会 |
| 種別 | 県立高等学校 |
| 所在地 | 鳥取県鳥取市 |
| 校風 | 西風教育 |
| 関連組織 | 旧山陰教育改良院 |
| 校地面積 | 約41,600平方メートル |
| 略称標章 | 鳳凰と砂丘を組み合わせた校章 |
鳥取県立鳥取西高等学校(とっとりけんりつとっとりにしこうとうがっこう)は、に置かれたの高等教育機関であり、特に「西風教育」と呼ばれる独自の校風で知られている[1]。末期に外郭の旧軍用地を再転用して創設されたとされ、のちににおける模範校として扱われた[2]。
概要[編集]
鳥取県立鳥取西高等学校は、中心部の西端に置かれた伝統校として語られている。もっとも、校史研究では単なる学校ではなく、側の気象条件に適応した「風で鍛える教育実験」の拠点であったとする説が有力である。
同校の特徴は、冬季に校舎へ吹き込む季節風を逆手に取り、授業開始前に毎朝7分間の「整列耐風訓練」を行った点にあるとされる。また、戦前期にはの視学官が3度視察し、うち1度は強風で帽子を飛ばされたことから評価が一変したという逸話が残る[3]。
成立の経緯[編集]
旧藩校系譜との接続[編集]
創設はとされるが、実際にはの旧藩校「尚風館」の蔵書整理を行っていたが、書庫の空き棚を教室に転用したことに始まるとされる。渡辺は当初、漢学講義を週3回だけ行う小規模な講習所を想定していたが、寄付金の募集文に「県内唯一の西方見聞の府」と大書したため、県議会が半ば勢いで正式校化を承認したという。
この時期の校舎は木造2階建てで、1階は普通教室、2階は「風圧観測室」と呼ばれた。観測室では毎正午に生徒が旗の揺れ方を記録し、記録係はへ提出したとされる。なお、この観測値が後の体育科目の風速基準に影響したという記述があるが、出典は断片的である[4]。
西風教育の確立[編集]
、第3代校長のが「西風教育綱領」を公布し、同校の教育理念が明文化された。綱領では、学力、礼節、耐風性の3要素を均等に鍛えることが求められ、特に冬季の校庭では1列あたり8秒以内に姿勢を整えることが規定された。
島田はまた、教員会議で「知識は黒板から入るが、人格は風で削られる」と述べたと伝えられる。これを受け、旧講堂の窓には可動式の木製羽板が取り付けられ、授業中に意図的に2度だけ風鳴りが起きる設計になったという。この装置は後にで「教育設備としては異例に美しい」と評された。
戦後の再編と校地の拡張[編集]
の学制改革期には、校地の北側にあった旧倉庫群が撤去され、代わりに半地下式の図書室「風洞文庫」が建設された。これは閲覧中のページめくり音が風騒に紛れ、試験前の緊張を緩和する目的で設計されたとされる。
また、には卒業生有志がの砂を3.2トン運び込み、校庭の一角に「砂丘式体力測定路」を造成した。50メートル走を測る際、足元の沈み込みを毎年微調整する仕組みで、記録は一般校より平均0.8秒遅かったが、反射神経の向上率は高いとされた。このため、県内では同校出身者を「遅いが崩れない人材」と呼ぶ慣行が生まれたという。
校風と教育[編集]
同校の教育は、一般的な進学校的運営に見える一方で、細部には独特の儀礼が多い。代表的なのが「朝礼の三拍一礼」で、拍手3回の後に一礼することで、集団の呼吸を日本海の周期波に合わせると説明されていた。
また、進路指導では成績表に加えて「追い風適性票」が配布され、理系・文系の別ではなく、「現実に押される力」「自力で進む力」「横風を受けた際の姿勢維持力」の3項目で評価された。これにより、やへ進学する者のほか、やに就職する者も多かったとされる[5]。
学校行事[編集]
風祭と砂送り[編集]
毎年11月の「風祭」では、1年生が体育館周辺に設置された帆布を持ち、東西南北の風向きを声に出して確認する。最終日には、3年生が校門から砂袋を1個ずつ運び出す「砂送り」が行われ、優れた運搬者には校章の裏面を模した銀色の徽章が授与された。
この行事は1960年代後半に過熱し、運営委員会が砂の量を学年ごとに厳密管理した結果、1972年には「砂袋の個数が学級数より多い」という事態が生じた。以後、砂は実物ではなく紙製の札に置き換えられたが、伝統としての重みは失われなかったとされる。
校歌の異様な長さ[編集]
校歌は全4番、各番が28小節で構成されているが、実際には3番と4番の間に「風向き確認の間奏」が約46秒挿入される。合唱指導では、最後の「西」の音をやや低く発声することが求められ、これを外すと校舎の反響が不均衡になると信じられていた。
なお、1978年の卒業式では、伴奏用オルガンの調律が季節風により半音ずれ、参列者全員が知らない調で校歌を歌うことになった。この録音は後に地元の放送局で「最も静かな混乱」として紹介されたという。
社会的影響[編集]
同校は内の教育機関としてだけでなく、地域の風土理解を制度化した先例としても注目された。特に、通学路に設置された「向かい風注意板」は、冬季の自転車通学者の安全意識を高めたとされ、周辺商店街では防風用の前掛けが一時的に定番商品となった。
また、卒業生が官公庁や報道機関に散らばったことで、「鳥西卒は要点を先に言うが、必ず結論の前に風向きを確認する」という俗説が広まった。これは事実上の面接評価基準にもなり、県内企業の一部では「鳥西式説明」を研修に採用したと伝えられる[6]。
批判と論争[編集]
一方で、同校の耐風教育は過度に規律的であるとして、に教育学者の一部から批判を受けた。とくに「整列耐風訓練」は、運動会の行進と区別がつかないとの指摘があり、県教育委員会は1976年に一度だけ調査票を配布している。
また、風速を基準にした成績調整が行われていたという噂もあるが、校史編纂委員会は「少なくとも数学と古典には関係しない」と否定している。ただし、の冬に校舎正面の旗竿が折れた際、翌学期の欠席率がなぜか0.6ポイント下がったことは記録されており、心理的効果を重視する立場からは今なお研究対象である[7]。
歴代の象徴的な出来事[編集]
には、生徒会が校庭の風向計を巨大化させた結果、風向計そのものが地域の目印となり、郵便配達員が「風向計の見える角を左折」と呼んでいたとされる。には、修学旅行先ので同校生徒がホテルの自動扉に対し一斉に礼をしたという記録があり、礼儀正しさの誇張例として語り草になっている。
さらに、同校の創立90周年記念事業として、校庭に「逆風ベンチ」3基が寄贈された。これは座ると必ず北西を向く構造で、進路相談の場として使われたが、実際には昼休みの人気昼寝スポットであった。寄贈式では県知事が「この学校は風を避けず、風を教育した」と述べたとされる[8]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『山陰校風論』鳥取教育出版社, 1912年.
- ^ 島田源蔵『西風教育綱領解説』県立教育資料刊行会, 1925年.
- ^ 鳥取県教育史編纂委員会『鳥取県立鳥取西高等学校百年史』第2巻, 2009年, pp. 14-63.
- ^ Margaret L. Halsey, “Wind Discipline and Provincial Academies,” Journal of East Asian Pedagogy, Vol. 18, No. 2, 1961, pp. 201-229.
- ^ 『風洞文庫建設記録』鳥取県立鳥取西高等学校同窓会, 1950年.
- ^ 佐伯直人「砂丘式体力測定路の形成」『地方教育研究』第7巻第4号, 1974年, pp. 88-101.
- ^ Kenji Morita, “Administrative Calm in Strong-Wind District Schools,” Bulletin of Regional Governance Studies, Vol. 9, No. 1, 1986, pp. 33-55.
- ^ 『鳥西校歌とその異稿』鳥取県立鳥取西高等学校音楽部, 1979年.
- ^ 田中ミドリ『風祭と地域共同体』山陰民俗研究叢書, 1998年.
- ^ Robert H. Feldman, “Orientation Rituals in Prefectural Schools,” The Pacific Educational Review, Vol. 27, No. 3, 2004, pp. 144-168.
外部リンク
- 鳥西校史アーカイブ
- 山陰教育史データベース
- 風洞文庫デジタル館
- 鳥取県学校文化研究所
- 西風教育保存会