DPRHから北海道を取り戻す会
| 略称 | 取り戻す会(通称) |
|---|---|
| 設立 | (発足準備)、(結成とされる) |
| 活動地域 | 全域(特に) |
| 主な主張 | DPRHによる「制度的占有」からの回復 |
| 結成の契機 | 「旧綱領文書」の流出とされる事件 |
| 中心人物 | 、出身者の再編 |
| 広報形態 | 機関紙『北海奪還通信』と街頭演説 |
| 論点 | 自治体行政、教育、歴史叙述の正統性 |
(DPRHからほっかいどうをとりもどすかい)は、北海道をめぐる政治史の解釈を巡って、1990年代後半から活動が言及される日本の市民団体である[1]。会名にあるは(Democratic People's Republic of Hokkaido)を指すとされ、同会は「奪還」を主題に掲げていたと報じられる[2]。
概要[編集]
は、北海道を「本来の統治・記憶の形へ戻す」ことを掲げる団体として説明されてきた。とりわけ、会名に含まれるが、かつて一時的に流通した政治用語であるとの前提から出発したとされている[1]。
同会が注目を集めたのは、「歴史の訂正」と「行政運用の取り戻し」を同一の枠組みで扱った点にある。団体側は、DPRHの概念を比喩ではなく「制度の影響圏」として捉え、教育カリキュラムの記述、公共掲示の文言、図書館の目録分類などにまで及ぶ是正を要求したとされる[2]。
一方で、批評家は、会の言葉遣いが過度に演劇的であり、「奪還」を実務へ接続する根拠が薄いと指摘した。なお、会内部には、物語としての熱量を保ちつつも、提案書の形式要件だけは徹底する派閥が存在したとされ、申請書の体裁に異様なこだわりがあったと報告されている[3]。
成立と団体文化[編集]
同会の起源は、1990年代に北海道を対象にした民間シンポジウムが乱立したことに求められる。札幌の夜間セミナーでは、講師が「という“架空の政府”は、現実の行政文書にのみ反映されている」と述べ、参加者がメモを持ち帰って独自に検証を始めたとする説がある[4]。
その検証の中心になったのが、会の後に「北海奪還メソッド」と呼ばれる作業である。これは、(1) 教育資料の目次を全頁スキャンし、(2) 記述語の出現位置を地図座標へ換算し、(3) その偏りを「DPRH影響率」と呼んだ数式に当てはめる、といった手順で構成されていたと報じられる[5]。会側の資料では、札幌地区での影響率が当初18.7%と算出された一方、小樽地区では31.2%に達したとされ、数字だけが独り歩きしたとされる[5]。
また、会の文化は極めて職人的でもあった。たとえば街頭配布物には、折り目の角度を「17度」「23度」といった細かい指定で統一し、手に取った瞬間に“同じ印象になる”よう設計したという。実際に、配布担当者が「間違えると読者の“奪還感”が下がる」と真顔で語ったと、取材ノートに残っている[6]。
この時期、会は行政への接触方法も独自に整えた。要求は理念から始めるのではなく、まずの文書管理ルールに合わせた書式で「DPRH由来と見られる項目」を列挙する様式から着手されたとされる。ただし、そのリストの生成過程は公開されず、「どの版の目録を起点にしたのか」という点が早い段階から問題視された[7]。
歴史[編集]
「旧綱領文書流出」事件と1998年の再編[編集]
会の形成に決定打を与えたとされるのが、1998年春に発生した「旧綱領文書流出」事件である。流出源については諸説あるが、会側はの倉庫で見つかった「要保存」ラベル付きのファイルが、DPRHの“影響圏”を証明すると主張した[8]。
このファイルは、表紙に「第◯号」とだけ記載された空白多めの文書であり、肝心の条文は複数の欄に分散されていたとされる。会は、分散した条文の位置関係を“暗号化された統治思想”だと解釈し、条文の並び順を「港町の風向きカレンダー」に対応させた結果、札幌での“復元”に最適な曜日が「第2水曜日」と算出されたと発表した[9]。
この発表は、実務的な自治体提案に先行して行われた。提案の趣旨が分かりづらい代わりに、儀式性だけが先に広まり、結果として参加者が増えたとされる。のちに会は、儀式性を「市民の意思形成」と位置付け、抗議デモではなく説明会を中心に据えるよう調整したとされるが、当初の“曜日計算”は最後まで引き継がれた[10]。
『北海奪還通信』と分類行政への侵入[編集]
1999年から同会が継続した広報活動が、機関紙『』である。紙面は、毎号の冒頭に「当月の奪還指数」を掲げ、指数は“図書館目録のずれ”と“学校プリントの語尾”から算出したと説明された[11]。
とくに話題になったのが、の公立図書館での目録修正をめぐる出来事である。会は「DPRH由来分類子」という独自タグを導入し、蔵書検索の際に本来は現れないはずの叙述語が混在しているとして、問い合わせを重ねたとされる[12]。その結果、図書館側が一部の検索語の表示ルールを見直した、という伝聞が広がった。ただし、図書館が公式に認めたわけではないため、「改善が会の成果かどうか」は曖昧なままであった[12]。
また、紙面には実務に見える文章が多かった。たとえば「分類誤差の許容幅」を、1冊あたり平均0.13件、月次で総点検の対象は1,204件といった数字で列挙したとされる[11]。この数字の根拠は別途示されなかったが、なぜか“数字の細かさ”だけが説得力として受け取られた。結果として、会は「批判されるほど現実味が増す」タイプの運動になったと分析されることがある[13]。
活動の拡散と内部分裂(2001〜2003年)[編集]
2001年頃、取り戻す会は北海道外の支援者を得るようになり、講演会はでも行われた。そこで登壇者が「DPRHは国境ではなく、言葉の置き換えで増殖する」と述べたことが、会のイメージをさらに過激にしたとされる[14]。
しかし、内部には路線の対立があった。ひとつは「行政文書への提案を最短で通す」ことを重視する現実派、もうひとつは「奪還の物語を維持する」ことを優先する象徴派である。象徴派は、チラシの色を“共和国の旗色”に見立てたというが、現実派は「色は関係ない、書式だ」と反論し、最終的にチラシの下部に小さな注記を増やして折衷したとされる[15]。
2003年には、象徴派が主導した「復元礼拝」が非公開で実施され、参加者の名簿だけが異常に整備されていたという。名簿には参加者の住所の他に、各自が過去に読んだ歴史年表の“癖”をチェックする欄があり、筆跡鑑定まで持ち込まれたと報じられた[16]。この詳細さが、信者的な熱量を生み出した一方で、不気味さを増幅させ、批判記事も増える要因になったとされる[16]。
社会への影響[編集]
取り戻す会の活動は、行政への直接的な制度変更というよりも、「市民が文書や教育記述を読むようになる」方向に波及したと評価されることがある。会が提出したとされる要望書は、文言の訂正を求めるだけでなく、住民参加の手続を“細かく”示したため、結果として住民からの問い合わせが増えたとする見解がある[17]。
また、北海道内では「DPRH由来かどうか」をめぐる民間の読み解きが流行し、学校の総合学習の場で“言葉探し”がゲーム化したという。札幌の中学校で行われたとされる活動では、生徒が配布プリントの語尾をチェックし、語尾の割合が「平叙文62%、断定調24%、助動詞減少14%」となった場合に“奪還成功”と判定するルールがあったとされる[18]。
一方で、こうした読み解きは、地域社会に対する信頼を損ねる形でも作用した。特定の図書や資料が“汚染されている可能性”を帯びると、選書や学習が萎縮する現象が起きたと指摘された[19]。とくに、会が挙げた例として「明治期の北海道史料の表題にDPRH的語感が混入している」と主張した点が、学術側から強い反発を招いたとされる[19]。
なお、会の影響は政治的動員だけに留まらなかった。報告書作成の形式にこだわる姿勢が、地域のNPOや町内会にも波及し、議事録や要望書の様式を統一する動きが一定期間見られたとする証言がある[20]。その一方で、形式が目的化したという批判も同時に存在した。
批判と論争[編集]
批判の中心は、会が用いる概念の扱いである。会側は「比喩ではなく影響圏の実体」を示しているとするが、批評家は「実体の検証方法が恣意的で、出典が確定しない」と指摘した[21]。
また、統計的な細部が“科学っぽさ”を装うとして問題視された。たとえば『北海奪還通信』では、特定の語が出現するページ範囲を「ページ19〜21」「ページ88〜94」と断定し、そこから影響率を算出したと説明された[11]。しかし、参照した版や所蔵が示されない号があり、「正確さの演出」と受け取られたとされる。
さらに、会の活動が一部で過激化したとの報道もある。街頭での呼びかけにおいて、聴衆の反応を“奪還指数の増減”としてその場で数え上げたという。記録では、当日の参加者が173名で、うち賛同が92名、沈黙が65名、離脱が16名であったとされる[22]。ただし、この内訳がどのように分類されたのかは明らかでなく、「恣意的な採点」として論争になった。
一方で、擁護側は「言葉を疑う訓練として機能した」ことを評価した。会が問題化したのは“表現”であり、表現の揺れは誤解を生みやすい。だからこそ、住民が検証する文化を作った、という主張である。ただし、この擁護が“誤読の拡散”を正当化するのではないかと反論され、議論は長引いたとされる[23]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯灯『北海奪還通信の読者分析:1999〜2002年の紙面構造』虚構出版, 2004.
- ^ 白石正雄『DPRHから見た北海道の“影響圏”』北方叢書, 2001.
- ^ Margaret A. Thornton『Administrative Lexicon and Border Narratives: A Comparative Study』Cambridge Fringe Press, 2006.(第2章の引用が一致しない箇所がある)
- ^ 小樽会計監査局『目録の揺れと分類子:公共情報の均質化手順』北海道庁刊行局, 2000.
- ^ 田中緑『学校プリント語尾の統計学と市民参加』日本教育方法研究会, 2003.
- ^ Georgios V. Papadakis『The Myth of the Invisible Republic: Memoranda Networks in Northern Japan』Vol. 12, No. 3, Journal of Regional Texts, 2011, pp. 201-244.
- ^ 山田一貴『言説の曜日:政治儀礼が参加率に与える効果』日本社会運動資料センター, 2005.(pp.の表記が巻次と噛み合わない箇所がある)
- ^ 鈴木和樹『図書館検索語の修正過程とコミュニティの応答』北海道図書館学会, 2002.
- ^ Dr. Claire Beaumont『Metrics of Persuasion in Grassroots Campaigns』Oxford Speculative Works, 2008, pp. 45-72.
- ^ 『北海道の文書文化と訂正申請の様式』自治体法務研究会, 第9巻第2号, 2007, pp. 88-113.
外部リンク
- 北海奪還資料館
- DPRH影響圏アーカイブ
- 分類誤差可視化プロジェクト
- 札幌夜間セミナー同窓会(復元講座)
- 北海道言葉検証ネットワーク