さかまに
| 名称 | さかまに |
|---|---|
| 分類 | 沿岸民俗漁法・儀礼技法 |
| 起源 | 江戸時代中期の備後国沿岸とされる |
| 主な地域 | 広島県岡山県沿岸部 |
| 用途 | 魚群誘導、祭礼、漁場整序 |
| 代表的資料 | 『備陽漁法聞書』 |
| 保存団体 | 西瀬戸民俗漁法保存会 |
| 禁忌 | 満潮直後の使用、赤い浮子の併用 |
さかまには、網目状の繊維を水流に対して逆向きに張ることで、魚群の進行方向を一時的に反転させるための民俗的な捕獲・誘導法である。現在では瀬戸内海沿岸の一部で儀礼漁法として知られている[1]。
概要[編集]
さかまには、瀬戸内海沿岸の小規模漁村で伝承された、魚群の進路を「逆立てる」ことを目的とした技法である。単なる漁具ではなく、潮目、月齢、風向を見ながら網の張り方を調整する複合的な知識体系として扱われてきた。
名称は「逆(さか)」と「操縛(まに)」の略合と説明されることが多いが、岡山県南部の一部では、古語の「さかま」に由来し、「群れを立て直す」の意であるとする説もある。いずれの説も確証は乏しく、地元の古老の談話が編集段階で混線した可能性が指摘されている[2]。
近代以降は実用漁法としてよりも、神事や夏祭りの余興として継承される比重が高まった。また、1927年に広島高等師範学校の民俗採集班が記録した「魚は音により一度だけ向きを変える」とする観察が、さかまに研究の出発点になったとされる[3]。
歴史[編集]
起源伝承[編集]
起源は宝暦年間、備後国の網元・久保田与兵衛が、嵐の翌日に湾内へ迷い込んだ鯛の群れを、沈めた松葉束と拍子木で岸へ誘導した逸話に求められることが多い。もっとも、現存する最古の記録は1834年の『備陽漁法聞書』であり、そこでは「逆張りの網は漁を増やすが、若者の性急さも増やす」と記されている。
一方で、兵庫県の淡路島には、さかまにが元来は船幽霊を避けるための呪法であったとする伝承も残る。夜半に網を半分だけ沈め、残りを水面に「見せる」ことで霊を欺くという説明であるが、明治末期の聞き取り調査では、実際には潮流の癖を利用した実践的手法だったとする証言が優勢であった[4]。
制度化と衰退[編集]
大正期には、さかまにの技術を標準化しようとする動きが生じ、水産講習所の臨時講師・森岡善十郎が「逆潮理論」を提唱した。彼は網の角度を七段階に分け、魚種ごとの反応を表にまとめたが、表中の「タチウオは三回目の拍子木で必ず右に寄る」という項目は、後年の研究者から「実地観測とは思えない」と批判されている。
昭和初期には商業漁業の大型化により、さかまには徐々に姿を消した。ただし、尾道市の一部地区では、毎年旧暦六月の「返し潮祭」でのみ行われ、子どもが網を持つ役、老人が拍子木を打つ役を担う習慣が残った。保存会の記録では、1958年の参加者は41人、うち実際に網を扱えた者は13人であったという[5]。
技法[編集]
さかまには、主に三重の条件、すなわち逆張り、拍子、沈め直しから成ると説明される。逆張りでは網を潮上にやや斜めに置き、魚群の退路を意図的に「広く見せる」ことで進行方向をずらす。拍子は木槌や拍子木による二回または四回の打音で、魚群の密度を一時的に散らす役割を持つ。
沈め直しは、網の中央部だけを遅れて沈める工程であり、熟練者はこれを「魚に一度だけ考えさせる」と表現する。なお、愛媛県の一部の記録では、沈め直しの直後に小さな鏡を水面へ向けると効果が上がるとされるが、1898年の『西海漁具志』以外に裏付けがなく、後世の脚色とみられている。
漁期は主に春から初夏で、特に朔から上弦にかけての夜明け前が適期とされた。保存会の内規では、潮位差が1.8メートル未満の日は「さかまに不成就日」として練習のみとし、実施は禁じられている。
社会的影響[編集]
さかまには、漁獲技術としての価値以上に、地域共同体の秩序形成に寄与したとされる。作業に参加する者は、網元、若衆、見張り、拍子役に分かれ、毎回ほぼ固定された順序で役割が循環したため、村落内の序列と交渉の場として機能した。
和歌山県の海村研究では、さかまにの実施日には欠席率が通常の共同作業の約3分の1に低下したと報告されているが、この数値は後年、調査対象が「祭礼好きな家系」に偏っていた可能性があるとして批判された。それでも、共同体の参加意識を可視化する装置として評価する意見は根強い。
また、観光化の過程で「逆潮体験」として再演されるようになると、若年層の参加が増加し、2018年時点で保存会の体験講座受講者は年間約2,400人に達した。もっとも、実際に漁法を習得したと認定された者は17人にすぎず、残りは「拍子木の音が強かった」と感想を述べるにとどまった。
批判と論争[編集]
さかまにをめぐっては、民俗学的価値を認める立場と、後世の観光振興のために誇張された制度であるとみなす立場が対立している。特に1974年の『瀬戸内漁村年報』に掲載された「さかまには実在の漁法ではなく、干潮時の遊びが神事化したものである」とする論文は、保存会側から「潮位の理解が浅い」と反論された。
さらに、1996年のNHK地方番組『海の作法』では、インタビューを受けた老人が「昔は魚もこちらを見ておった」と発言し、これが全国紙で「魚に視線で勝つ漁法」と要約されたため、誤解が一気に広まった。番組プロデューサーは後に、台本の一部に演出上の誇張があったことを認めている[7]。
学界では、拍子木の音響効果をめぐる再現実験も行われたが、京都府立水産試験場での実験では、魚群よりも研究者の足音のほうが大きく、水槽が必要以上に落ち着かなくなったため、結論は保留となった。なお、この実験は被験魚の選定がアジ16尾のみであったため、現在でも要出典の代表例として挙げられる。
文化財指定と現代の継承[編集]
2009年、尾道市の旧港地区に伝わるさかまに用具一式が、市の無形民俗文化財に準ずる扱いとして登録された。登録対象には、網、拍子木、浮子、儀礼用の藁束のほか、なぜか「潮見帳の写し」12冊が含まれていた。これは後年、事務局が誤って別件の文書を一括提出したためともいわれる。
現在は、実演よりも教育活動が中心であり、小学校の総合学習や地域史講座で取り上げられることが多い。保存会は広島県内の三つの高校と連携し、毎年7月に「逆潮教室」を開催しているが、参加生徒の記録には「思ったより拍子木が本格的だった」「魚より先に先生が動いた」といった感想が残されている。
このように、さかまには実利と儀礼、地域史と観光、技術と伝承が重なり合って形成された概念であり、現代においては海辺の記憶を保存するための象徴として位置づけられている。もっとも、保存会の公式パンフレットに毎年同じ写真が使われていることから、実際の継承状況をめぐってはなお議論が続いている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 村瀬幸代『瀬戸内沿岸における逆張り漁法の民俗誌』民俗文化研究会, 2002年, pp. 41-78.
- ^ 森岡善十郎『逆潮理論と拍子の間隔』水産講習所紀要 第14巻第2号, 1919年, pp. 103-119.
- ^ 広島高等師範学校民俗採集班『備後沿岸採訪記』広島高等師範学校出版部, 1927年, pp. 12-29.
- ^ 佐伯真一『西海漁具志補遺』山海社, 1898年, pp. 5-16.
- ^ 瀬戸内海文化史編纂委員会『返し潮祭の成立と変容』瀬戸内史料叢書, 1978年, pp. 88-113.
- ^ A. M. Thornton, “Reversing Nets and Community Order in Inland Seas,” Journal of Maritime Ritual Studies, Vol. 8, No. 1, 1994, pp. 22-47.
- ^ 西瀬戸民俗漁法保存会『さかまに実演記録 平成23年度版』保存会内部資料, 2012年, pp. 1-24.
- ^ NHK地方放送文化研究室『海辺の語りと映像演出』NHK出版, 1997年, pp. 201-218.
- ^ 岡田孝之『魚はなぜ拍子木で右へ寄るのか』京都府立水産試験場報告 第6号, 1963年, pp. 9-13.
- ^ 白石一郎『潮目に立つ人々――尾道の作法と記憶』海鳴社, 2016年, pp. 144-171.
外部リンク
- 西瀬戸民俗漁法保存会
- 備後海民俗資料アーカイブ
- 尾道市海辺文化センター
- 瀬戸内海地域史データベース
- 逆潮教室オンライン