アイスルオーヤマ
| 名称 | アイスルオーヤマ |
|---|---|
| 読み | あいするおーやま |
| 別名 | Aisuru Oyama, 冷愛式オーヤマ |
| 起源 | 1927年ごろ、仙台の氷問屋街 |
| 提唱者 | 大山卯之助、黒川ミサエ |
| 主な領域 | 冷却工学、家政学、民俗商業 |
| 象徴的施設 | 旧大山低温研究庫 |
| 関連機器 | 静音氷圧機、半熟保冷箱 |
| 流行期 | 1958年 - 1974年 |
| 影響 | 東北地方の家庭用冷却文化 |
アイスルオーヤマは、宮城県発祥とされる家庭用冷却思想の総称である。もともとはに仙台市の商家で考案された「氷の節約術」に由来するとされ、のちにと結びついて独自の文化圏を形成した[1]。
概要[編集]
アイスルオーヤマは、の黎明期において、単なる保存装置ではなく「食材に愛情を与えつつ温度を下げる」という逆説的な発想から生まれたとされる生活文化である。名称は家の商標に由来するとされるが、実際には市場で使われた符丁が一般化したものともいわれる[2]。
この概念は仙台市の周辺で発達し、やがて東北地方の家庭や下宿屋に広がった。とくに昭和30年代の「氷庫普及運動」と結びついたことで、冷却器具の普及だけでなく、氷の切り方、置き方、挨拶の仕方にまで規範が及んだとされる。
歴史[編集]
起源[編集]
起源については諸説あるが、最も有力なのは、宮城県の氷商・大山卯之助が、夏季の売れ残り氷を再利用するために「氷を愛でる台」を作らせたという説である。卯之助は東京帝国大学出身の技師・と知己があり、彼女の助言により、氷が直接食材に触れないよう木枠と真鍮板を組み合わせた装置が設計されたという[3]。
ただし、の『北奥冷却報』には、同装置がすでに「アイスルオー山型」として紹介されており、名称の成立と発明の時期が一致しない。このため、後年の編集者のあいだでは、もともとは器具ではなく、氷を扱う際の所作そのものを指したのではないかとの指摘がある。
普及期[編集]
になると、周辺の商店街で「冷愛講習会」が開かれ、主婦層を中心に急速に広まった。講習会では、氷室を開ける際には一礼すること、氷片は左手で受けて右手で包むこと、霜取りは午前4時前に行うことなど、細かな作法が定められていたとされる。受講者は3か月で延べに達し、記録上はそのうちが「氷との対話に成功した」と報告している[4]。
この時期、宮城県内の旅館や下宿屋では、アイスルオーヤマ式の保冷箱が「客に見せる冷却」として重宝された。内部温度は通常の氷箱より平均で高いにもかかわらず、食材の持ちが良いとされたのは、保冷よりも心理的安心感を重視したためだとされる。
制度化と衰退[編集]
にはが「アイスルオーヤマ適正運用基準」を公表し、家庭内での氷の名称、受け渡しの角度、保存日数の上限を細かく規定した。この基準では、氷は「四角であることが望ましいが、三角であっても儀礼上は許容される」とされ、当時の家政雑誌でしばしば議論を呼んだ。
しかし、後半にの普及が進むと、実用面での需要は急速に縮小した。それでも、やの一部では、祭礼時に氷を神前へ供える風習が残り、アイスルオーヤマは「失われた冷却礼法」として民俗学の対象になった。
構成と技術[編集]
アイスルオーヤマの標準構成は、木製外枠、真鍮製熱遮断板、吸湿和紙、そして「気持ちを落ち着かせるための小窓」からなるとされる。とくに小窓は、氷の融解速度を視覚的に遅く感じさせる効果があるとの報告書に記されている[5]。
操作には、氷を入れる前にに3回外枠を叩く「予冷儀礼」が必要であるとされる。この所作を省略すると、庫内の温度が上がるのではなく、使用者のほうが焦って扉を頻繁に開けてしまうため、結果的に保冷効率が下がるという説明がなされていた。
また、上級機では「重ね置き式風鈴」が搭載され、氷が減るたびにかすかな音が鳴る。これにより家族が買い足しの時刻を共有できるため、単なる機械ではなく家族の時間管理装置として機能したとされる。
社会的影響[編集]
アイスルオーヤマは、東北地方の家庭文化に独特の影響を与えた。氷の節約が美徳とされたことで、夏場の来客に対しても「薄い麦茶を出して氷は最後に見る」ことが礼儀とされ、客人が帰るころにようやく氷を見せる商習慣が成立したという[6]。
仙台の一部商店では、氷の品質を示すために「溶け残り率」を店先に掲示するようになり、最盛期にはという数値が町内の競争指標になった。この数値が高すぎると「冷たすぎて心がない」と批判されるため、店主はわざと氷を少し溶かして提供するという奇妙な均衡が生まれた。
一方で、家庭の冷却を共同体の倫理にまで引き上げたことから、若者のあいだでは「氷にまで気を遣うのは面倒である」とする反発も起きた。これがのちの無償冷却運動、いわゆる「クールフリー派」の萌芽になったとする説がある。
批判と論争[編集]
アイスルオーヤマに対しては、当初から「実用より作法が先行している」との批判があった。とくにの『家政評論』では、ある匿名投稿者が「氷に礼をするくらいなら扇風機を増やせ」と記し、編集部が慌てて次号で反論を掲載したことが知られている[7]。
また、の東北大学公開講座では、黒川ミサエの実在性をめぐる質疑が起こり、講師が「個人名は記録の揺れであり、技術体系が重要である」と答えたため、かえって謎が深まった。のちに大学文書館で発見された名簿には、彼女の欄だけが鉛筆で「要再確認」と書かれており、研究者のあいだでしばしば引用される。
さらに、のテレビ特番『暮らしの冷えもの百科』で、司会者が「アイスルオーヤマは結局、氷好きの心理療法ではないか」と発言し、宮城県の商工会から抗議文が送られた。この件は、地域文化が家電史に吸収される過程でしばしば起こる典型例とされる。
現代における継承[編集]
現代では実用品としてのアイスルオーヤマはほぼ姿を消したが、やの文脈で再評価が進んでいる。にはが旧式保冷箱の復元展示を行い、来場者の約が「思ったより静かで怖い」と感想を残した。
また、若年層のあいだでは、アイスルオーヤマを題材にした小規模なZINEや同人誌が作られており、特に「氷を褒めるための語彙集」は人気が高い。これにより、失われた冷却礼法は、実用からサブカルチャーへと形を変えて存続している。
なお、家の旧蔵資料は現在も一部が所在不明である。資料目録には「氷に向かって会釈した人物の写真、1点」とだけ記された項目があり、研究者のあいだでは、これこそがアイスルオーヤマの最も純粋な実例であるとも言われている。
脚注[編集]
[1] 『北奥冷却概論』には、アイスルオーヤマを「感情移入型保冷法」とする記述がある。 [2] 商標登録簿には存在しない語形が複数確認されており、名称の揺れが大きい。 [3] 黒川ミサエの経歴については異説も多い。 [4] 冷愛講習会の受講者数は、受講票の再集計で変動した可能性がある。 [5] 家政試験所報告書第17号は、のちに一部改ざんの疑いが指摘された。 [6] この習慣は隣県には広がらなかったとされる。 [7] 当該投稿は、後年の再編集で文言が少し変わっている。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 大山卯之助『北奥冷却概論』仙台氷業出版社, 1931.
- ^ 黒川ミサエ『家内保冷の倫理と機構』家政研究会, 1934.
- ^ 田所信一『東北における氷文化の変遷』民俗資料叢書, 1962.
- ^ Margaret H. Ellsworth, “Domestic Ice Rituals in Northern Japan,” Journal of Applied Folklore, Vol. 8, No. 3, 1971, pp. 114-139.
- ^ 佐藤利夫『静音氷圧機の設計思想』東北技術出版, 1958.
- ^ 小林ちさ『冷愛講習会の実態報告』仙台家政新聞社, 1960.
- ^ George F. Lind, “Thermal Sentimentality and Household Appliances,” The Pacific Review of Domestic Engineering, Vol. 12, No. 1, 1975, pp. 9-27.
- ^ 宮城県商工史編纂委員会『宮城県商工史 資料編 第4巻』宮城県史料刊行会, 1981.
- ^ 渡辺精一『氷を褒める技術』北光書房, 1988.
- ^ 阿部里香『アイスルオーヤマ小史:符丁から制度へ』仙台文化研究所, 2004.
- ^ K. N. Harrow, “The Curious Case of the Half-Ripe Ice Chest,” Transactions of the Society for Domestic Cold Studies, Vol. 3, No. 2, 1999, pp. 201-218.
外部リンク
- 仙台市民文化財団アーカイブ
- 東北冷却史研究室
- 旧大山低温研究庫保存会
- 家庭冷愛文化データベース
- 家政試験所電子年報