アーティスト保護制度
| 正式名称 | アーティスト保護制度 |
|---|---|
| 英語名 | Artist Protection System |
| 成立 | 1927年ごろとされる |
| 主な管轄 | 旧東京市芸能衛生課、後に文化保全調整局 |
| 適用対象 | 演奏家、舞台俳優、作曲家、画家、彫刻家、路上芸人 |
| 保護内容 | 身分登録、巡業保険、稽古場の静音補助、炎上時の退避導線 |
| 関連法令 | 芸能者安全暫定規則、創作継続補償令 |
| 廃止・再編 | 1978年の制度改編で一部が民間化 |
| 通称 | 保芸(ほげい) |
| 象徴色 | 薄い群青 |
アーティスト保護制度(アーティストほごせいど、英: Artist Protection System)は、音楽家、画家、舞台芸術家などの創作活動を公的または準公的に保全するための制度である。大正末期の東京市における興行事故対策を起源とし、その後の前身組織を巻き込みながら制度化されたとされる[1]。
概要[編集]
アーティスト保護制度は、創作活動に従事する者の生活、移動、発表機会を行政的に守ることを目的とした制度である。制度上は福祉、興行、治安、都市計画が一体化した珍しい仕組みであり、東京都や大阪市の旧市政資料では「文化災害への予防的治具」とも記されている[2]。
一般には公演中止時の補償や稽古場の確保が知られているが、当初は楽団員の靴底摩耗率を抑えるための交通費補助として始まったとされる。また、戦前期には「筆を持つ者は夜間に保護されるべきである」という、やや抽象度の高い運用解釈が存在した。
成立の経緯[編集]
1920年代の興行事故と制度構想[編集]
制度の直接の契機はの浅草一帯における舞台火災であるとされる。この火災で楽士12名が避難途中にサックスケースを抱えたまま転倒し、以後「演者は退避時に両手がふさがる」という都市問題が認識されたという[3]。
当時内務省の一部であった旧東京市芸能衛生課の渡辺精一郎は、火災保険の書式を転用して「芸能者の人格と楽器を同時に登録する台帳」を提案した。これが後の制度の骨格になったとされる。
保護対象の拡大[編集]
昭和初期には、制度は主に劇場音楽家を対象としていたが、の港湾労働者が昼休みに朗読会を開いたことから、朗読家と詩人も対象に加えられた。さらにには、絵具の乾燥待ち時間に発生する失業リスクを理由として、洋画家にも仮登録が認められた。
この拡大過程で、保護の単位が「人」ではなく「活動半径」によって決まるという独特の運用が生まれた。たとえば、半径2.4キロ以内に公演実績がある者は自動的に準保護芸術家として扱われ、歩行者信号の青時間が0.7秒延長されることもあったと記録されている。
制度の仕組み[編集]
制度の中心はであり、顔写真のほかに「喉の強さ」「筆圧」「舞台袖での落ち着き度」が記入された。登録はではなく、旧の地下に設けられた臨時窓口で行われ、受付担当が即興で肩書きを命名する慣行があったという。
保護内容は多岐にわたる。巡業中の宿泊費補助、稽古場の防音改修、災害時の楽器優先搬送、さらには批評家からの過度な長文レビューに備えた「精神的緩衝日の付与」まで含まれていた。なお、1960年代の内部文書には、保護対象の安静を守るため「編集者は午後3時以降、著者に会ってはならない」との条項があったとされるが、真偽は定かでない[4]。
社会への影響[編集]
文化の地理的分布の変化[編集]
制度の導入により、創作活動は東京中心から京都、、へ分散したとされる。とくに金沢市では、冬季の湿度が楽器保存に適するとして「保芸特区」を自称する地区が現れ、茶屋街に防音畳が大量導入された。
一方で、保護制度に登録されることが一種の名誉とみなされ、無所属の若手芸術家が「まず一度燃えるべきか」と悩む風潮も生まれた。これを受けてには、実際に炎上経験がなくても申請できる「予防保護枠」が新設された。
行政と芸術の距離感[編集]
制度は芸術家に安心を与えた反面、行政書類の増大を招いた。の前身とされる文化保全調整局では、ひとりのバイオリン奏者に対し7種類の申請書が必要で、うち2種類は「演奏の気分の持続性」を数値で申告させるものだったという。
また、の国会審議では、保護対象にマジシャンを含めるかどうかが10時間を超えて議論された。結果として「出現と消失を職能とする者は、むしろ行政側が把握困難である」として、暫定的に別枠へ回された。
批判と論争[編集]
制度に対しては、早くから「保護が厚すぎる」との批判があった。特にには、ある人気指揮者が台風接近時に専用送迎車と静音傘を同時に要求した事件が報じられ、制度が特権化しているとの指摘が強まった[5]。
他方で、地方の小規模劇団からは「保護が厚いのは都会の著名人だけで、地方巡業の舞台係には雨具1枚すら回らない」との不満も出た。これを受けての改編では、舞台照明技師や録音助手も準登録の対象となったが、登録証の色が灰色だったため、現場では「幽霊保護」と呼ばれた。
改編と現在[編集]
1980年代以降、制度は実質的に一部が民間保険と自治体助成へ移行したが、古い登録証はなお一部の劇場で効力を持つと信じられている。とくに銀座の老舗ホールでは、登録番号が二桁台の演者が入場すると、係員が自動的に加湿器を増設する慣行が残る。
近年はデジタル化により、作品データ、SNS炎上予測、出演者の睡眠時間まで統合した「広義の保護管理」が導入されたとされる。ただし、2021年の運用試験では、アルゴリズムが俳句同人誌とロックバンドを誤認識し、全員に同じ防音ブースを割り当てたことが問題になった。
文化的評価[編集]
アーティスト保護制度は、芸術家を「天才」ではなく「生活者」として扱った先駆的制度として評価されることがある。特に戦後の証言では、制度により「締切を守れないのではなく、締切に追われても生き残れる」感覚が生まれたと述べられている[6]。
一方で、制度が創作の偶発性を減らしたとする批判も根強い。ある批評家は、保護制度以降の日本の舞台芸術は「安全で、よく整っており、少しだけ眠い」と書いたが、この句は後に制度紹介ポスターの宣伝文句として採用された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『都市芸能者保護の成立と変容』東京文化史研究会, 1949年.
- ^ 佐伯ゆり子『戦前日本における舞台安全行政』日本演劇学会紀要 Vol.12, No.3, pp. 44-63, 1968年.
- ^ Harold M. Finch, “Municipal Patronage and the Artist Shelter Ordinances,” Journal of Urban Aesthetics, Vol. 8, No. 2, pp. 101-129, 1971.
- ^ 文化保全調整局編『創作継続補償令資料集』非売品, 1958年.
- ^ 高松義人『保芸制度とその周辺——巡業・静音・補償』東京市政出版, 1979年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Noise Mitigation for Performing Creators in Postwar Cities,” Public Culture Review, Vol. 17, No. 4, pp. 210-238, 1988.
- ^ 小島真一『芸術家登録証の行政史』地方制度研究, 第4巻第1号, pp. 5-28, 1992年.
- ^ Eleanor G. Wells, “Protecting the Unpredictable: Artists and Bureaucracy,” The Comparative Arts Policy Journal, Vol. 21, No. 1, pp. 1-19, 2004.
- ^ 田辺春樹『保護される才能、管理される自由』文化政策叢書, 2011年.
- ^ 宮本璃子『アーティスト保護制度の再デジタル化と誤認識問題』情報文化研究, 第9巻第2号, pp. 77-91, 2022年.
外部リンク
- 日本保芸史資料アーカイブ
- 旧東京市芸能衛生課デジタル記録室
- 文化保全調整局年報ライブラリ
- 劇場安全と静音設計研究所
- アーティスト登録証コレクターズ協会