キョウシと愉快な仲間たち
| 氏名 | キョウシ |
|---|---|
| ふりがな | きょうし |
| 生年月日 | 5月14日 |
| 出生地 | 長崎港周辺(埋立地) |
| 没年月日 | 11月29日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 奇術師(隊商芸の再現実演家)・舞台音響設計者 |
| 活動期間 | 1891年 - 1940年 |
| 主な業績 | 『愉快な仲間たち』の巡業体制の確立、反響板(はんきょうばん)式舞台音響の実用化 |
| 受賞歴 | 1919年大日本奇術振興会 賞(反響板部門) ほか |
キョウシ(きょうし、Kyōshi、 - )は、日本の奇術師(きじゅつし)であり、隊商芸(たいしょうげい)の再現実演で広く知られている[1]。
概要[編集]
キョウシと愉快な仲間たち(きょうしとゆかいななかまたち)は、舞台上で「観客の笑い声」を計測し、その反応を即座に演出へ反映する巡業型奇術ユニットとして知られる。キョウシは、名だたる大道芸師が単独で終わっていく時代にあって、チーム編成と音響装置の運用を体系化した人物である。
彼らの活動が社会に与えた影響は、娯楽が「時間の消費」から「共同体の同期(どうじょうたいのどうき)」へと変わった点にあるとされる。とりわけ、都市の劇場だけでなく、北海道の開拓集落や沖縄県の港町へも公演を伸ばし、笑いが鉄道・倉庫・交易の手続きにも結びついていったと記録されている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
キョウシはの長崎港周辺に生まれた。幼少期の記録として、彼が「笑いの音は瓶に似る」と言い、台所の壺を叩くことで反響を確かめていたという証言が残されている。
また、当時の港湾手続きで使われた木札(もくふだ)を数え、紙芝居の場面に合わせて配列を作ったとされる。港の見習い倉庫係だった父は、積み荷の管理にうるさく、キョウシはその規律をそのまま舞台の順番へ移したと伝えられる[3]。
青年期[編集]
、キョウシは長崎から大阪へ出て、船乗り芸人の呼び込みに混じった。ところが彼は「客寄せの声量」ばかりを追い、呼び込み用の笛を直径37.8ミリの円環で調整したという、やけに具体的な改造痕が見つかったとされる。
彼は大阪府で「反響研究会」に参加し、音が壁から返る角度を“嘘をつかない数学”で測る方法を学んだ。この時期、彼の師とされるのは、実在の人物ではなく、会の古い帳簿にだけ登場する「ヨルン・サイレント」という名である[4]。ただし研究会が実在したかは議論があり、のちに“帳簿上の師”である可能性が指摘された。
活動期[編集]
、キョウシは“愉快な仲間たち”という名称を、音響と台詞を分業するチーム体制として初めて掲げた。彼らの基本ユニットは「声役(こえやく)」「手品役(てじなやく)」「笑い測定役(わらいそくてい)」の三者であり、笑い測定役には、観客の反応を耳でなく“メトロノーム”で記録する装置が与えられたとされる。
巡業は毎年とを往復し、ある年の行程だけが異様に詳細に残っている。たとえばの冬巡業では、各地で「公演開始までの湯気量」を指標に天候を読む練習が行われ、延べ観客数は18万4,216人だったと記算されている[5]。なお、この数字の出どころは不明で、帳簿の余白に別の書き手が“少し盛った”と注記していたことが判明している[6]。
晩年と死去[編集]
キョウシはに第一線を退き、若い音響設計者の育成へ移った。晩年には、笑いの反応が弱まる劇場ほど、舞台の沈黙設計が重要だと語ったとされる。
11月29日、キョウシは神奈川県の小さな寄宿舎で体調を崩し、77歳(数え年では78歳)で死去したと記録されている[7]。死の直前に残されたメモには「拍手は重力に従う。だから床を信じよ」とあり、最後の弟子が床板を交換して公演を続けたという逸話がある。
人物[編集]
キョウシは、表向きは温厚な奇術師であったが、稽古の場では異様な几帳面さを見せたとされる。たとえば彼は、手品の種(たね)を包む紙を色ごとに分けるだけでなく、紙の繊維の向きを“笑いの角度”と呼んでいた。
また、彼のジョークは「観客が笑う前に自分が笑う」方式だったという。笑い測定役が記録した音圧のデータと、キョウシの先行笑いが一致するまで稽古が終わらないことがあったとされ、仲間たちはそれを“先笑い監査”と呼んだ。
一方で、奇術の種明かしをしない代わりに、舞台の裏で交わされる合言葉だけは明かしたとも言われる。合言葉は「いま反響するな、明日反響せよ」であり、彼のチームの結束を象徴する言葉として残った[8]。
業績・作品[編集]
キョウシの業績は、手品そのものよりも“チームで成立する笑い”の設計にあると考えられている。彼は巡業用の反響板を薄い木材から作り、客席の距離に応じて角度を変える運用手順を作ったとされる。この反響板は、のちに舞台音響の現場で「反響板規格(はんきょうばんきかく)」として口伝された。
代表的な作品(演目)としては、次が挙げられる。第一に『隊商ラッパと七つの空箱』(1907年)、第二に『笑い測定器は嘘を許さない』(1914年)、第三に『床が拍手を運ぶ』(1922年)がある。特に『笑い測定器は嘘を許さない』では、実際には測定装置が壊れている状態でも、観客の反応を“壊れたメトロノーム”のリズムに換算するという妙な誠実さで評価されたという。
なお、これらの演目の脚本はまとまった書籍として出版されず、旅の途中で書き直されたため、版ごとの差異が多いとされる。編集者の一部は、この“書き直しの多さ”こそが作品の一部であったと論じた[9]。
後世の評価[編集]
キョウシと愉快な仲間たちは、単なる大道芸の系譜ではなく、都市の娯楽と労働の接点を作った存在として再評価されてきた。とりわけ、労務管理に近い「進行の秒単位」を導入した点が、劇場運営の合理化に影響したとする見解がある。
ただし、反響板規格の実在性には揺れがある。ある研究者は、規格は実物ではなく、記憶の“平均化”として残った可能性を述べた[10]。一方で別の研究者は、規格が残っていないことこそ、キョウシの思想であったと主張した。
また、笑い測定器の“客観性”をめぐっては批判もある。観客の反応を数値化する手法は、その後の広告産業の自動最適化へと接続したのではないか、という推測がなされたが、決定的な証拠は示されていない。ここは後年の脚色とみるべきだとされる[11]。
系譜・家族[編集]
キョウシの家族は、芸の継承というより“合図”の継承として語られる。彼の妻は出身の音響修理人ソフィア・ド・ラヴィレ(Sophie de la Ville)で、後に彼女はチームの予備パーツ管理を担当したとされる。
彼らの間には二人の子がいたとされる。長男のミナトは文字起こし担当で、旅の帳簿を整えたとされるが、帳簿の整形が“笑いの整形”に見えたため、後年に家族内で反目があったという逸話がある。次男のエイリは音響板の加工を担い、板材の選別に関しては温度よりも湿度を優先する独自のこだわりを持ったと伝えられる。
キョウシの死後、家族は巡業を続けたものの、実務の中心はソフィアへ移ったとされる。ソフィアはそれを「音が家に帰るための段取り」と表現したと記録される[12]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山脇恭一『隊商ラッパの音響史:キョウシ一座の記録』音響書房, 1936年.
- ^ Evelyn M. Hart『Laugh Timing in Traveling Theaters』Oxford Stage Studies, Vol. 12 No. 3, 1951.
- ^ 田中コウジ『反響板規格の成立条件(未完稿)』芸能技術研究会, pp. 41-58, 1978年.
- ^ 松倉ルカ『港町から劇場へ:長崎港埋立地の文化装置』長崎文化叢書, 第2巻第1号, 1984年.
- ^ 佐藤みな『『笑い測定器は嘘を許さない』註釈と異本』舞台文学社, pp. 113-129, 1992年.
- ^ Kōichi 山脇『秒単位進行が観客に与えたもの』演出管理学会誌, Vol. 6, No. 2, pp. 7-20, 2001.
- ^ Dr. Margaret A. Thornton『The Metronome Myth and Its Social Uses』International Journal of Performance Auditing, 第9巻第4号, pp. 201-233, 2009.
- ^ 「大日本奇術振興会 賞の受賞者名簿」大日本奇術振興会年報, pp. 88-90, 1919年.
- ^ Claudia R. Fischer『Archives of Whispered Teaching: The Silent Ledger』Theatrical Equipment Review, Vol. 3, No. 1, pp. 55-73, 1962.
- ^ 並河正人『笑いの平均化とその倫理』芸能倫理論叢, 第5巻, pp. 1-18, 2016年.
外部リンク
- 反響板研究アーカイブ
- 隊商芸保存同盟
- 大道芸測定史データベース
- キョウシ一座の異本目録
- 劇場運営秒単位研究会