ボッキズム
| 名称 | ボッキズム |
|---|---|
| 別名 | 直立派、起立主義 |
| 成立 | 1908年頃 |
| 提唱者 | 北条 鉄斎、及び京都民俗図像研究会 |
| 中心地 | 京都府京都市上京区 |
| 影響 | 美術、広告、都市伝説、舞台演出 |
| 主要文書 | 『直立論抄』 |
| 象徴 | 鉛直線、柱、旗竿、長柄道具 |
| 衰退 | 1930年代後半以降 |
| 再評価 | 1990年代以降のサブカルチャー研究 |
ボッキズム(ぼっきずむ、英: Bokkism)は、初頭にの民俗儀礼研究と系の図像学が交差するなかで成立したとされる、過剰な直立性と反復的誇張を美徳とする思想・様式である。しばしばを先に折り曲げる文化実践として知られている[1]。
概要[編集]
ボッキズムは、対象物の高さ、張力、威勢、さらには空気の緊張感そのものを表現価値として扱う思想であるとされる。定義上は美学運動に分類されるが、実際にはの境界にまたがる曖昧な概念として語られてきた。
名称は、京都の旧家に伝わる「ぼっき柱」の言い回しに由来するという説が広く知られているが、別にの港湾荷役で用いられた号令語に由来するという異説もある。なお、一次史料の多くは期の整理過程で再筆写されており、初期文献同士の記述が微妙に一致しない点が研究上の論点となっている[2]。
定義の揺れ[編集]
ボッキズムは、狭義には「直立を礼賛する造形上の様式」を指すが、広義には「無理にでも上向きに見せる所作の総称」とされる。研究者の間では、の展示空間で再定義された後、の舞台照明技術と結びついて意味が拡張したとみられている。
歴史[編集]
起源説[編集]
最も有力とされるのは、にで行われた「冬至直立祭」において、竹竿を立てる所作が儀礼化されたとする説である。民俗図像を研究していたは、祭礼の進行中に柱へ布を巻きつける動作を「垂直の祝詞」と呼び、これが後の理論的中核になったとされる。
一方で、系の商店街広告において、商品棚を高く見せるための陳列法が先行しており、祭礼より広告のほうが本体であったという逆転説もある。実際、の『京都商工年報』には「直立性のある陳列は客足を三割二分増やした」とする記述があり、ボッキズムの誕生が商業的要請に支えられていた可能性は高い[3]。
拡大期[編集]
末期にはの見世物小屋と結びつき、舞台上で長柄の道具や塔状の小道具を用いる演出が流行した。『直立論抄』の増補版はにで印刷され、僅かしか出回らなかったにもかかわらず、表紙の金箔加工が評判を呼んで複数の地方紙が紹介している。
この時期、ボッキズムは単なる奇癖ではなく、「沈んだ景気に対する視覚的反撃」として受容された。関西の百貨店では、売場中央に高さの柱状什器を置くことが流行し、来店者の滞留時間が平均延びたという調査が残るが、母数がと少ないため、現在では参考値扱いである。
弾圧と沈静化[編集]
後半、風紀取締りの強化とともに、過度な直立表現は「不必要な挑発」を助長するとして一部自治体で制限された。とくにでは、街頭広告における過剰な縦長看板が「群衆を無意味に見上げさせる」として問題視され、の前身組織が注意文を発している。
ただし、完全な禁止ではなく、祭礼や舞台装置の範囲内で限定的に存続した。研究者のは、これを「公的には衰退、私的には洗練」と表現したが、後年のインタビューで「正直、当時は皆よく分かっていなかった」とも述べている[4]。
思想と実践[編集]
ボッキズムの中心には、「下からではなく、上へ読ませる」ことを重視する発想があるとされる。文章、建築、衣装、口上に至るまで、視線を上方向へ引き上げる構図が好まれ、結果として威厳と滑稽さが同時に生まれる点に独自性がある。
実践者はしばしば、傘の先端、旗竿、提灯の吊り糸などの細部にまで執着した。京都の写真館では、人物の背後にだけ不要な細柱を置く「補助起立」技法が用いられ、成人式写真の相談件数がだけで増加したとされる。これは視覚的補正の技法として後の広告写真にも影響した。
また、ボッキズムは精神論と誤解されやすいが、実際にはかなり実務的である。たとえば、風圧、設置角度、搬入時の人員配置などが細かく規定されており、『直立論抄』第3章には「柱は立てる前に気分を整えるべし」とある一方、その直後に「二人では無理なら四人で運べ」と記されている。
儀礼的側面[編集]
祭礼におけるボッキズムでは、最初に低い姿勢から始め、徐々に対象を高く掲げる。これは「地面に敬意を払い、最後に空へ返す」という意味を持つとされるが、実際には舞台映えを狙った演出だという指摘もある。
商業的側面[編集]
戦前の広告業界では、商品の形状を実際よりも細長く見せることが推奨された。大阪の老舗薬局では、瓶を斜めに並べるより縦に積むほうが売上が高いという経験則が共有され、これが「棚のボッキズム」と呼ばれた。
主要人物[編集]
ボッキズムの成立に関わった人物として最もよく挙げられるのはである。彼は生まれの民俗研究者で、の外部講師を務めたとされるが、正式な人事記録には名前が見えないため、半ば伝説的人物として扱われることが多い。
次に重要なのが、舞台美術家のである。藤堂は、の小劇場で天井から吊るす紐の本数を増やすことで観客の緊張感が上がることを発見し、これを「縦の沈黙」と名付けた。彼女のメモ帳には、なぜか「紐は9本まで、10本はやりすぎ」と繰り返し記されている。
また、の文化欄に匿名で寄稿した「K・N」という人物も重要である。記事『高く見せることの倫理』は読者投書を誘発し、そのうちが「理解できないが気になる」という内容だったとされる。こうした反応が、ボッキズムを大衆的話題へ押し上げた。
国外への波及[編集]
後半にはの商業地区を経由して、縦長看板や塔状什器の意匠が流入した。現地の日本語学校関係者が翻訳した『直立論抄』の抜粋版は、紙面の都合で図版だけが妙に充実しており、後世の研究者を混乱させた。
社会的影響[編集]
ボッキズムは、都市景観の縦方向への拡張を促したとされる。の繁華街では、低い建物の看板が次第に高層化し、視認性競争が発生した。これに対し、景観委員会は「空を奪うほど高いものは控えるべきである」との通達を出したが、実務上は旗竿の長さ規制に留まった。
教育現場にも影響が及んだ。昭和初期の図画教育では、児童に「一本線をまっすぐ引く訓練」が推奨され、提出物の端に不自然な縦棒が増えた時期がある。なお、これが全国的な流行だったかどうかは資料が乏しく、とされることが多い。
一方で、ボッキズムは嘲笑の対象にもなった。漫才や新聞四コマでは、やたら高い帽子や長すぎる棒が「無駄に威張る人」の比喩として使われ、結果的に概念の知名度を底上げした。つまり、批判されるほど縦に伸びるという、きわめてボッキズム的な展開を見せたのである。
戦後の再解釈[編集]
戦後は、軍国的な威圧表現と誤解されやすかったため、公的な語彙からは一時退いた。しかしに入ると、現代美術家が「直立の痕跡」として再評価し、インスタレーション作品の中に細い塔や棒状オブジェを配置する動きが現れた。
批判と論争[編集]
最大の批判は、ボッキズムが本来の意味より先に雰囲気だけが独り歩きし、恣意的な解釈を増幅させた点にある。特にの『関西美術時報』掲載論文では、「直立を称揚するふりをした単なる見栄ではないか」との厳しい指摘がなされ、これに対し擁護派は「見栄こそ文化の初期燃料である」と反論した。
また、研究資料の信頼性も問題視されている。『直立論抄』の版によって、同じ段落に「柱は人を支える」と書かれていたり、「人が柱を欲しがる」と書かれていたりするため、校訂のたびに意味が微妙に逆転するのである。これを筆写者の誤記とする説もあるが、意図的な二重構造だと主張する学者もおり、結論は出ていない。
さらに、所蔵の写本には、最後の頁に「直立は三度まで」という謎の書き込みがあり、これは儀礼回数を示すのか、単なるメモなのか判然としない。研究会では今なお年に一度だけ議論が紛糾する。
現代の扱い[編集]
現在、ボッキズムは学術的には周縁的な概念である一方、デザイン史やサブカルチャーの文脈ではしばしば引用される。とくに縦長構図のポスターや、やたら高いマイクスタンドの演出に対して「ボッキズム的」と形容されることがある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 北条鉄斎『直立論抄』京都民俗図像研究会, 1914年.
- ^ 村瀬 恒一『戦前広告における鉛直性の研究』大阪商業史学会誌 第12巻第3号, 1963年, pp. 41-68.
- ^ Margaret A. Thornton, "Vertical Affect and Public Space", Journal of Imaginary Aesthetics, Vol. 8, No. 2, 1978, pp. 113-147.
- ^ 藤堂みつ『縦の沈黙とその周辺』神戸舞台装置出版部, 1929年.
- ^ 高木 恒一郎『京都における祭礼用柱具の変遷』民俗と都市 第5巻第1号, 1951年, pp. 9-33.
- ^ 『京都商工年報 1912』京都商工会議所, 1913年.
- ^ 佐伯 直哉『看板はどこまで高くできるか』日本広告協会報 第24巻第4号, 1936年, pp. 201-219.
- ^ Elizabeth Wren, "The Ethics of Standing Tall", Proceedings of the Eastern Pacific Symposium on Folklore, Vol. 3, 1984, pp. 55-74.
- ^ 中村 省三『直立主義の戦後再解釈』現代美術評論 第9巻第2号, 1968年, pp. 77-101.
- ^ 『関西美術時報』第17巻第6号, 1948年, pp. 2-6.
- ^ 田島 みのる『柱はなぜ語るのか』文化資料通信 第31号, 1992年, pp. 14-29.
外部リンク
- 京都民俗図像アーカイブ
- 関西近代広告研究所
- 直立論抄デジタル校訂室
- 日本縦構図学会
- 東亜舞台美術資料館