久手良踊
| 氏名 | 久手 良踊 |
|---|---|
| ふりがな | くて らおどり |
| 生年月日 | |
| 出生地 | 愛媛県 |
| 没年月日 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 舞踊家、振付師、口伝資料の編集者 |
| 活動期間 | 〜1932年 |
| 主な業績 | 「久手良踊式拍子」の体系化、学校向け舞踊教材の改訂 |
| 受賞歴 | 大正期の舞踊奨励章、東京市文化顕彰 |
久手 良踊(くて らおどり、英: KuterAodori、 - )は、日本の舞踊家。『久手良踊流』の名で知られている[1]。
概要[編集]
久手 良踊は、日本の舞踊家であり、地域の祭礼動作を「拍子の言語」として再編集することで知られている人物である。とくに、後述する「久手良踊式拍子」は、踊りを“覚える”のではなく“数える”技法として広まり、舞踊教育の文脈に持ち込まれた。
彼女の活動は、地方芸能の口承性を活かしつつ、内務省系の社会教育事業と接続することで加速したとされる。なお、この接続がどの程度意図的であったかについては、同時代の回想文に食い違いがある[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
久手 良踊は、愛媛県に生まれる。家は綿の糸替えを生業としていたが、彼女の祖父は祭りの“音役”を担っており、拍の数を数える係として地域に認知されていたという。
幼少期の彼女は、縁側で風鈴の音を数える癖があったとされ、最初に習ったのは「六拍で止める踊り」だったと伝えられる。後年の講義では、六拍を基準に「欠け拍(0.2拍)」を作ると上達が早いと強調し、実験として弟子に同じ動作を“7回目だけ重く”行わせた記録が残る[3]。
青年期[編集]
、良踊はの芸能講習所に入り、そこでによる即興舞踊訓練を受けたとする記録がある。訓練は身体だけでなく「言い回しの数(文拍)」を課すもので、彼女は台詞なしでも拍の“起点”が見えると評された。
また、に流行したとされる「糸替え拍子」との混交を、彼女が“混ぜるな危険”として排除したという逸話がある。もっとも、この逸話は同業者の間で誇張されがちで、後世の聞き取りでは「危険」ではなく「面白い誤差」と言い換えられている[4]。
活動期[編集]
から彼女は東京へ出て、舞踊の普及を目的とした巡回講座を行った。講座では、木札に「表拍・裏拍・捨拍」を書き込み、参加者が家に帰ってから同じ札を並べ直す方式を採用したとされる。
最初の大きな反響はの公会堂公演であり、観客が“拍子の数”で歌舞伎の口上を当てる企画が盛況だったと伝えられる。彼女はこの時、主催側の記録係と口論になり、プログラムの上演時間が本番では「12分間」ではなく「11分43秒」になったとする証言がある[5]。ただし、別資料では“11分44秒”とされ、秒の差が学術的に検討対象になっているというから、資料の信憑性は揺れる。
また、文部省系の学校行事に舞踊を組み込む動きに対し、彼女は“拍子を授業にする”ための改訂草案を作成したとされる。ここで彼女は、同じ振付でも足部の角度を「右45度・左41度」に固定するよう弟子へ指示したと伝えられるが、実際にその数値が守られたかは不明である[6]。
人物[編集]
良踊は、初対面の人には丁寧だが、稽古場では妙に厳格になることで知られていた。彼女は人を褒める代わりに、必ず一度は「そこ、数え直してごらん」と言うと伝えられる。
逸話として有名なのは、彼女が弟子の動作を採点する際、点数ではなく“訂正の句読点”を付けたことである。たとえば「この踊りは上手い」ではなく「この踊りは上手い、。ただし拍の息継ぎに—がある」といった具合に、記号で直す癖があった。
この性格は、の体系化にも影響したとされ、外部からは学問的だと評される一方、同業者からは「記号で人を縛る」と反発も受けた。なお、反発の中心になったとされる人物名は資料に複数あり、どれが一次情報かは議論が続いている[8]。
業績・作品[編集]
久手良踊式拍子[編集]
良踊の最大の業績は、拍を「時間」ではなく「相互作用」として扱う体系であるとされる。彼女は拍を3層に分け、表拍・裏拍・捨拍として記号化した。
さらに、表拍の直後に一呼吸を置き、その呼吸の長さを“呼気が布に触れるまで”と比喩で教えたとも伝えられる。この指導法は、計測が難しいために賛否があり、数値主義の教師からは「再現不能」と批判された一方、舞踊家連盟側では「身体に学習が残る」と支持された[9]。
教材と口伝資料[編集]
良踊は、学校行事向けの簡略化教材『拍子の綴り』を改訂し、各章に「初級・遅延・飛び級」の3種類の稽古を配置したとされる。とくに飛び級では、45秒間の動作停止を含めることで、動作の“戻り”が安定すると説明したという。
この停止時間が45秒である理由は、彼女が「息がちょうど二度折り返す」と観察した結果とされるが、その観察に基づく記録は日付が欠けており、後年の編集者が推測で補った可能性が指摘されている[10]。
舞台作品[編集]
舞台作品としては『港灯の逆拍』『糸替えの楔』『雨樋(あまどい)で覚える踊り』などが挙げられる。とくに『雨樋で覚える踊り』は、雨樋の音を合図に群舞へ移行する構成だったとされ、観客が不意に笑う“間”を作るのが特徴とされた。
ただし同作の上演回数は、資料上ではからの計3回とされつつ、別資料では5回とされるなど、記録の整合性には揺れがある。良踊は“回数よりも沈黙の密度”を重視したため、正確な公演カウントを残さなかったのだと解釈されている[11]。
後世の評価[編集]
久手 良踊は、舞踊の教育を通して「身体を言語化する」試みを行った人物として、近代芸能史の補助線に置かれることが多い。とくに、東京の舞踊講習所では、彼女の記号記述が後の教材編集にも影響したと説明される。
一方で、研究者の中には、彼女の方法が“地方性の平準化”につながったと指摘する者もいる。つまり、祭礼動作の個体差が薄れ、数えやすい形だけが残ったという批判である。
ただしこの批判に対して、支持派は「平準化ではなく翻訳である」と反論し、音の違いが“訂正の記号”として残るように設計されていたと述べる。どちらの見解が一次資料により近いかは、遺稿の編集過程の不明確さもあり、決着していない[12]。
系譜・家族[編集]
良踊は家族に対しても“拍の契約”を求めたと伝えられる。姉は縫製の職人で、良踊の稽古日には針を置く回数を合わせていたとされる。
彼女の弟子で最も有名だったのは大阪出身の振付者・であり、良踊が亡くなる直前に「沈黙の回数券」の運用を引き継いだとされる。早川の身分は資料によって変動し、“家族同然”とする記述もあれば、“遠縁の契約弟子”とする記述もある[13]。
また、良踊には実子がいたかどうかについて、遺品から見つかった姓のない小包が手がかりとされている。ただし、その小包が誰宛てだったかは分からず、家系図も複数系統が残っている。結論は出ていないが、どれも『久手良踊式拍子』の写しを含む点は共通しているという[14]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 久手良踊研究会『近代舞踊の数記法と口伝』青月書房, 1998.
- ^ 山田榮治『祭礼動作の翻訳—久手良踊式拍子の再構成—』学芸出版社, 2007.
- ^ Hiroshi Tanaka, “Rhythm as Interaction in KuterAodori’s Teaching,” Journal of Folk Movement Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 41-63, 2011.
- ^ Margaret A. Thornton, “Pedagogy of Silence in Early Modern Dance Workshops,” *Asian Performing Arts Review*, Vol. 5, No. 1, pp. 9-27, 2013.
- ^ 佐伯みお『拍の雲—余白記号が語るもの—』白波文庫, 2019.
- ^ 中村光一『日本橋公会堂の上演記録と11分43秒問題』東京文化史研究所, 2004.
- ^ 田中稔『地方性と平準化のあいだ—久手良踊の教材史』舞踊学紀要, 第18巻第2号, pp. 77-102, 2016.
- ^ Liu Jian, “Comparative Counting Methods in East Asian Dance Education,” Proceedings of the International Workshop on Rhythm, pp. 120-134, 2020.
- ^ 福原徳太『雨樋で覚える踊り—音響合図の設計』邦楽技術社, 2012.
- ^ 【書名】『久手良踊式拍子の完全図解』音拍堂, 19ZZ. [※書名の年号表記に誤植があるとされる]
外部リンク
- 久手良踊式拍子アーカイブ
- 日本橋公会堂・上演記録ポータル
- 拍子の綴りデジタル写本
- 沈黙の回数券(稽古)研究会
- 雨樋音響合図実験サイト