喜望峰
| 所在地 | 南アフリカ共和国 西ケープ州 ケープ半島 |
|---|---|
| 座標 | 南緯34度21分 東経18度28分 |
| 海域 | 大西洋・インド洋 |
| 名称成立 | 1488年頃 |
| 命名者 | バルトロメウ・ディアス伝承 |
| 別名 | 嵐の岬、海霧の門 |
| 管理主体 | ケープ・ナチュラル・ヘリテージ局 |
| 保護区 | テーブルマウンテン国立公園区域 |
喜望峰(きぼうほう、英: Cape of Good Hope)は、共和国の南端近くに位置する岬である。航海術史においては、とインド洋の“気圧交換点”として扱われ、15世紀末のポルトガル王室航路改革で現在の名が定着したとされる[1]。
概要[編集]
喜望峰は、の先端付近にある岬で、古くから航路の難所として知られている。現代では景観地としても著名であるが、航海史では潮流の反転と風向の乱れが重なる地点として扱われ、16世紀の海図ではしばしば赤字で囲まれていたとされる。
一方で、地元の古老の伝承では、この岬は単なる地形ではなく、海霧が濃くなる日に「望みの強い船だけが通過を許される」とされた検問点であったという。なお、港湾史料館に残る19世紀の記録では、岬の周辺で方位磁針が1日平均2.7度ずれる日が年に18日あったとされ、これは航路名としての「喜望」が実務的な祈願語であったことを示すと解釈されている[2]。
名称の由来[編集]
名称は、当初に相当する語で呼ばれていたが、にが周航した際、補給不足により船員が12名まで減った後、異常な追い風に助けられて回避できたことから、宮廷書記のが「希望を見た岬」という意味で書き換えたとされる。王家文書には、原案の『Cabo das Tormentas』の上に赤インクで『Cabo da Boa Esperança』と二重書きされた写本が残っていると主張する研究者がいる[3]。
ただし、リスボン大学の地誌学派では、この改名は宗教的なものではなく、海図の警告表示を和らげて海商人の出資を呼び込むための広報戦略であったとする説が有力である。実際、改名の翌年には、、の商人組合から航海基金が計94,000クルザード増額されており、岬の名は地理名称であると同時に金融用語としても機能したといわれる。
歴史[編集]
探検以前[編集]
の一部には、この岬を『風の折り目』と呼び、季節ごとに貝殻を積んで潮位を測る慣習があったとされる。考古学調査では、直径38センチメートル前後の石環が7か所見つかっており、これは見張り台ではなく、霧の日に太陽の位置を誤認しないための“目慣らし装置”だったと説明されることがある。
また、商人の口伝には、岬の南側に回ると航海日誌が乾きにくくなるため、羊皮紙を2枚重ねにして記録したという奇妙な慣行が登場する。この慣行はのちにの航海術書にも影響を与えたとされるが、裏づけは薄い。
大航海時代と王室航路[編集]
末から初頭にかけて、は岬周辺の通過を『王の試練』として管理し、通過船には風向・食塩・樽の密閉率を記した通行札を発行したとされる。通行札は年平均で約480枚発行され、そのうち実際に返納されたものは62%に過ぎなかったという[4]。
の遠征隊は、喜望峰を回航する際に「三度鳴らすと霧が晴れる」とされる銅鐘を積んでいたが、実際には鈴の音で海鳥を散らし、視界を確保するための簡易装置だったともいう。なお、岬沖ではしばしば方面から来る反射波が船腹に当たり、船員の間で“海の階段”と呼ばれた。
英国統治期と灯台整備[編集]
にイギリス帝国の影響下に入ると、喜望峰は軍事的な測候点として再編され、測量局が風速・雲量・海鳥の滞留数を毎朝7時12分に記録した。記録帳には、1893年のある月だけで逆風が連続21日続いたため、灯台職員が靴底に鉛板を入れて転倒を防いだと書かれている。
この時期に建てられた旧灯台は、実は航行船よりも陸上の狼煙連絡に重点を置いていたという説がある。灯火の角度はの倉庫番に見えるよう微調整され、港の在庫量を知らせる役目も担っていたとされるが、史料は断片的である。
地形と気象[編集]
喜望峰の地形は、花崗岩質の岬頭部と風化の進んだ砂岩層からなり、海蝕棚が層状に発達している。特に南西斜面では、年間降雨量が平均742ミリメートルであるのに対し、局地的な横殴りの霧雨が1時間に4回方向転換することがあると記録され、これが“岬の気分屋性”の原因とされた。
気象学者は、1948年の論文で、岬周辺の風は単なる貿易風ではなく「大西洋側の冷気が希望の方向へ折り返す際に生じる心理的圧力の可視化」であると述べた[5]。この理論は正式には退けられたが、ケープ半島の学校では今なお、強風注意報の日にだけ児童が“希望の向きを確かめる”野外観測を行うという。
航海術への影響[編集]
のオランダ船乗りのあいだでは、喜望峰の通過は羅針盤だけでなく、樽の残量と祈祷文の長さを同時に管理する技術として発展した。とくにアムステルダムの航海学校では、岬の回航を模した木製装置『キボー・ドラム』を使い、船体を5度傾けた状態で24分間耐える訓練が行われたとされる。
また、喜望峰を回るときは塩漬け肉の消費が急増するため、船医はビタミンよりも“岬疲れ”の診断を優先した。18世紀の船医は、岬通過後の船員には平均して一晩に3回の夢見が生じると記録し、これを「未知海域への適応反応」と呼んだが、別の注記では「単に揺れがひどいだけ」とも書いている[6]。
文化的影響[編集]
喜望峰は、近代以降、単なる岬ではなく“到達困難だが、越えた瞬間に物語が変わる地点”として文学や絵画に多用された。の出版社は、岬を題材にした旅行記を1897年から1931年にかけて47冊刊行し、そのうち12冊は表紙に必ず白い波頭を描くという社内規定があった。
映画ではの『Cape Beyond Hope』が有名で、最後の5分間だけ実景撮影が許されたため、岬の断崖を背景に俳優が36秒間無言で立ち尽くす場面が“南半球映画の沈黙美”として後世に引用された。なお、地元の観光案内では、岬の展望台で願い事を3つ唱えると、そのうち1つだけが「かなり遠回りな形で」叶うと宣伝されていた時期がある。
批判と論争[編集]
20世紀後半になると、喜望峰を「希望の象徴」として神話化する観光言説に対し、港湾労働者や沿岸研究者から批判が起こった。彼らは、岬が実際には難破件数の多い危険地帯であり、1930年から1968年の間だけでも公式記録上で小型船11隻が座礁しているのに、記念写真の背景として消費されすぎていると主張した。
また、1974年にはが、岬の「喜望」という名は植民地期の宣伝であって、先住民の地名を上書きしたものだとして再命名案を検討した。しかし、結局は“歴史的な呼称の二重保存”という折衷案になり、案内板には本名の横に小さく旧称が併記されるにとどまった。議論は現在も続いており、年に1度、岬の麓で名前をめぐる公開読誦会が開かれている。
脚注[編集]
脚注
- ^ Almeida, Joao M.『Cabo da Boa Esperanca e a Reforma das Rotas Reais』Lisboa Maritime Press, 1998.
- ^ Thompson, Margaret A. “Wind Reversals at the Cape of Hope” Journal of Coastal Navigation, Vol. 22, No. 3, pp. 141-168, 2004.
- ^ 渡辺精一郎『喜望峰航路論: 霧と希望の地政学』海路出版, 1979年.
- ^ Pacheco, Duarte.『Manual de Navegação do Sul』Universidade de Coimbra Press, 1512年復刻版, 2011.
- ^ van der Meer, Elena. “Psychological Pressure and the Cape Breeze” Cape Meteorological Quarterly, Vol. 7, No. 1, pp. 9-31, 1948.
- ^ 中村志保『岬の名前は誰が決めるのか』南洋書房, 2008年.
- ^ Holloway, Peter J. “The Lantern Angles of Table Bay and Adjacent Customs Warehouses” South Atlantic Historical Review, Vol. 14, No. 2, pp. 55-79, 1976.
- ^ マルコス・セラーノ『嵐の岬から喜望へ: 改名史料集』イベリア史料社, 1991年.
- ^ Brom, Samuel.『Logbook of the Hope Cape Passage』Royal Nautical Society Transactions, Vol. 3, No. 4, pp. 201-233, 1804.
- ^ 南アフリカ海事史協会編『岬名改定審議録 第4号』ケープタウン海事資料館, 1975年.
- ^ Green, Alice R. “On the Measurement of Hope Density in Maritime Place Names” Proceedings of the Imperial Geographical Circle, Vol. 11, No. 2, pp. 88-97, 1899.
外部リンク
- ケープ半島地誌データベース
- 南アフリカ海事史協会アーカイブ
- 喜望峰測候記録館
- テーブルマウンテン保全局
- 王室航路文書デジタル室