小池 雅也
| 氏名 | 小池 雅也 |
|---|---|
| ふりがな | こいけ まさや |
| 生年月日 | 1941年3月18日 |
| 出生地 | 長野県松本市 |
| 没年月日 | 1997年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗写真家、随筆家、資料収集家 |
| 活動期間 | 1964年 - 1996年 |
| 主な業績 | 影紋採集の体系化、山間部の口承記録、夜間露光による民具撮影 |
| 受賞歴 | 日本民俗記録賞、長野文化功労章 |
小池 雅也(こいけ まさや、1941年 - )は、日本の民俗写真家、幻視史研究家である。とくに「」の創始者として広く知られる[1]。
概要[編集]
小池 雅也は、日本の民俗写真家である。長野県を中心に、古老の語りと石造物の影を同時に記録する独自の手法で知られる。後半には、の写真同人「夜行会」に参加し、以後岐阜県・新潟県・富山県の山間集落を巡ったとされる[1]。
彼の研究は、民俗学と写真術の接点にあったが、本人はこれを「記録」ではなく「影の採集」と呼んだ。この用語はのちにの一部研究員にも参照され、1980年代には地方文化政策の現場で半ば専門語のように扱われたという[要出典]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
小池は1941年、の染料商の家に生まれた。幼少期から祖父の蔵で古いや村絵図に触れて育ち、特に蔵の梁に落ちる夕方の影を「地図の最初のかたち」と呼んでいたと伝えられる。
在学中にと写真同好会を兼部し、露光不足の失敗作を逆に「輪郭の濃い記録」とみなしたことが、後年の作風につながったとされる。この時期、地域の旧家に残る婚礼道具の影を撮り歩き、最初の小さな個展を校内廊下で開いたという。
青年期[編集]
1960年、中央大学短期写真講座に進み、という架空の写真批評家に師事したとされる。福島は「被写体の実物より、その背後の影が文化を語る」と説いた人物で、小池はこの言葉を終生の座右にした。
にはの年会場で資料搬入の手伝いをした際、展示台の下に落ちた影の形から祭具の配置を再構成したとされ、以後、学会周辺で奇妙な実証家として知られるようになった。また、この頃から現金収入の大半をとに費やし、下宿の家賃を3か月遅らせることが常態化していた。
活動期[編集]
1971年、小池は独自の方法論「影紋採集」を提唱した。これは、民具・石碑・建具などの実物に対して斜光を当て、その影の縁を連続撮影することで、消失した部分の使用法や儀礼の痕跡を推定する手法であると説明された[2]。
岐阜県の白川筋では、雪で埋もれた道祖神の位置を、雪面に出たわずかな影の段差から割り出したとされる。また富山県のある集落では、夜間の公民館にの連続写真を貼り合わせ、見学者が「影の方が本体より先に老いる」と評したことが記録されている。これにより、小池は地方紙の文化面で小さく取り上げられたのち、NHKの地域番組に数度出演した。
一方で、彼の調査には極端に感覚的な部分もあり、1980年代半ばには「影の形を章立ての根拠にするのは過剰である」との批判も出た。ただし、当人はそれを「影が過剰なのではなく、記録が不足している」と言い返したとされる。
晩年と死去[編集]
に入ると、小池は体調不良のため長距離移動を減らし、郊外の自宅兼資料室で口述記録の整理に専念した。晩年はと題する未刊行ノートをまとめていたが、完成稿の多くは火災による煤と湿気で判読困難になったという。
11月2日、慢性肺疾患のためで死去した。遺品の中には、未使用の42本と、石碑の影を定規で写したメモ帳17冊が含まれていたとされる。葬儀は内の寺院で営まれ、参列者の一部が「最後まで影を持ち帰ろうとした人だった」と回想したという。
人物[編集]
小池は寡黙である一方、現場ではやけに饒舌であったとされる。特に朝霧の時間帯になると、被写体の前に30分以上立ち、影の角度が「今日の方言」を決めると説明したという。
また、道具に対する執着が強く、のレンズキャップを「資料の門番」と呼び、紛失した際にはから沿線まで半日かけて探し歩いた逸話が残る。なお、彼は撮影前に必ず甘酒を一杯飲む習慣があり、これは寒冷地での呼吸を整えるためだったと本人は述べている。
性格面では偏屈でありながら面倒見がよく、若手研究者に対しては「まず影を見ろ、次に台帳を見ろ」と助言したという。弟子筋の証言によれば、資料の束を紐で結ぶ作業だけは異様に速く、を40分で仕上げたこともあった。
業績・作品[編集]
小池の代表作は、写真集『』()である。同書は長野県内のを巡って撮影されたもので、各写真に撮影時刻ではなく「影の濃度指数」が併記されていた点が特異であった。
また、随筆集『』(1984年)では、壊れた桶、欠けた鍬先、剥落した社殿彫刻を「欠損の完成形」として論じ、民俗資料の保存論に一石を投じたとされる。さらに、地方自治体向けに作成した『』は、実務文書であるにもかかわらず比喩が多すぎるとして複数回の改訂を余儀なくされた[3]。
彼の技法は、のちにの一部展示や、の教育普及プログラムで参照されたとされる。もっとも、小池本人は「自分の仕事は学問というより、忘れられた物の再照明である」と述べていたという。
後世の評価[編集]
小池雅也の評価は、写真史と民俗学の双方で揺れている。1980年代の同時代評では、実証と詩情の境界を越えすぎるとして敬遠する向きもあったが、以降は地域資料の再読を促した先駆者として再評価が進んだ。
2011年にはで回顧展「影の在処」が開かれ、来場者数は会期中にを記録したとされる。展示会場では、彼の撮影メモに残る「影は遅れて来る証言者である」という一文が特に引用され、地方文化行政の研修資料にも転用された。
一方で、影紋採集の一部は再現性が低く、学術的厳密さに欠けるとの批判も根強い。このため、小池は「研究者」よりも「資料の演出家」として語られることが多く、その曖昧さ自体が彼の魅力であるとする意見もある。
系譜・家族[編集]
小池家は松本地方に古くから続く商家で、父・小池義一は染料卸、母・小池せつは寺院の帳場を手伝っていたとされる。兄に小池昭二がいたが、早くから東京へ出て製紙会社に勤めたため、雅也は実家の資料と家業の記憶をほぼ一身に引き受ける形になった。
妻はで、同じく写真整理に長けた人物であった。二人の間に子はなく、代わりに弟子や地域の保存会員を「門下」として扱ったとされる。晩年、自宅の押し入れからの婚礼帳が見つかり、これが影紋採集の家族史的基盤になったという。
なお、親族の一部は小池の仕事に懐疑的で、法事の席で「影ばかり追うと物が減る」と苦言を呈したとの逸話がある。ただし、後年はその親族自身が資料整理を手伝うようになったと伝えられる。
脚注[編集]
[1] 小池自身の最初期資料には生年の記載揺れがあり、1940年説も一部にある。
[2] 影紋採集の定義は後年の弟子による整理である。
[3] 手引の改訂版は少なくとも3種確認されているが、初版の所在は不明である。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小泉真一『影と資料のあいだ――小池雅也研究』信濃民俗出版, 2008.
- ^ 渡辺久美子「小池雅也の斜光採集法」『民俗写真研究』Vol.12, No.3, pp.41-58, 1994.
- ^ Masato Hori, "Shadow as Witness: Re-reading Koike Masaya", Journal of Regional Visual Culture, Vol.7, No.2, pp.113-129, 2012.
- ^ 長野県立歴史館編『山村資料の再撮影と保存』県史料叢書第18巻, 1999.
- ^ 佐伯啓子『地方文化政策と影の記録』青弓社, 2011.
- ^ A. C. Bell, "The Koike Method and Its Misreadings", Studies in Ethnographic Imaging, Vol.4, No.1, pp.9-27, 2003.
- ^ 福島辰夫『露光と沈黙の写真論』東都写真工房, 1969.
- ^ 松田和彦「松本盆地における民具影像の系譜」『地域文化史紀要』第21号, pp.77-96, 2001.
- ^ 小池和子『資料室の十七年』私家版, 1998.
- ^ 三輪英樹『夜の民具――小池雅也ノート解題』北陸文化社, 2016.
外部リンク
- 信州影紋アーカイブ
- 地方資料再照明研究会
- 松本民俗写真ミュージアム
- 斜光採集デジタル辞典
- 日本幻視記録学会