常磐新幹線
| 名称 | 常磐新幹線 |
|---|---|
| 区間 | 東京都千代田区 - 茨城県北茨城市(構想上) |
| 種別 | 高速鉄道・地域再編計画 |
| 計画発足 | 1968年ごろ |
| 推進主体 | 運輸省常磐交通整備室(後の常磐新幹線調整本部) |
| 最高速度 | 営業時275km/hとされた |
| 駅数 | 13駅案、最終案では11駅 |
| 特徴 | 海霧対策のため車体前部に可変式加熱板を装備 |
常磐新幹線(じょうばんしんかんせん、英: Joban Shinkansen)は、東京と北部を結ぶ高速鉄道構想として知られる、いわゆる“沿線再編型”の新幹線計画である[1]。通常の幹線整備とは異なり、沿線の漁港・温泉街・研究学園都市を一体で再設計する目的で提唱されたとされる[2]。
概要[編集]
常磐新幹線は、常磐線沿線の都市圏を高速鉄道で結び、東京都東部から福島県南部にかけての人口流動を再編するために構想された計画である。一般には未成線として扱われることが多いが、実際には「先行整備」「仮設駅」「季節運転」など複数の中間案が存在したとされる。
この計画は、期の鉄道政策の一部でありながら、農業試験場、港湾整備、観光振興まで巻き込んだ点で異色である。とくに周辺では、工場夜景を車窓商品化するためにホーム照明の色温度まで検討されたという記録が残る[3]。
成立の背景[編集]
常磐新幹線の原型は、に内で作成された「常磐地域高速軸試案」にあるとされる。これは東北新幹線の構想が先行する一方、千葉県北東部からの海岸線にかけて“高速交通の空白地帯”が生じるとの懸念から作成されたものであった。
試案の中心人物としては、都市計画官僚の渡辺精一郎と、鉄道技師のが挙げられる。渡辺は「新幹線は線路ではなく都市の骨格である」と繰り返したとされ、三輪は由来の地盤沈下を回避するため、橋脚を通常より1.8メートル高く設計する案をまとめた。なお、この数値は後年の回想録によってのみ確認されており、要出典とする研究者もいる。
また、日本国有鉄道内部では、すでに通勤輸送で逼迫していた上野駅を経由せずに都心へ乗り入れる“半直通方式”が議論されていた。これは列車の前半を、後半を新幹線規格で走らせるという、現在の感覚では極めて奇妙な発想であったが、当時の会議録では「技術的には気合で可能」と記されている[4]。
計画の変遷[編集]
第一次案(1968年 - 1972年)[編集]
第一次案では、東京駅 - 間を58分で結ぶことが目標とされた。途中駅は、、、の4駅のみで、通勤と観光の両立を狙っていたという。特筆すべきは、駅に巨大な乾物市場を併設し、列車到着時刻に合わせて干し芋の焼き上がりを管理する「市場連動ダイヤ」が試験導入されたことである。
しかし、この案は海沿い区間における塩害対策費が予想を上回り、車両基地の洗浄設備だけで年間2億4,700万円を要する見込みとなったため中断された。
第二次案(1973年 - 1981年)[編集]
オイルショック後の省エネルギー機運を受け、第二次案では超軽量車両と風力回生ブレーキの採用が検討された。沿線の付近では、海風を利用して列車を補助的に押し出す「順風区間」が設けられ、試験走行では理論上の最高速度が一時的に286km/hを記録したとされる。
一方で、海霧による信号視認性の低下が問題化し、以北では駅ごとに霧笛を鳴らして進入を知らせる案まで出た。これが地域住民から「汽笛で新幹線を止めるのはおかしい」と批判され、最終的に霧中自動停止装置へ置き換えられた。
第三次案と凍結[編集]
の前後には、常磐新幹線をJR東日本の独自高速路線として扱う再編案が浮上した。だが、採算計算の過程で、沿線人口の推計に「梅まつり来場者」や「週末の潮干狩り需要」が過大に含まれていたことが判明し、社内では“祭礼依存需要”として問題視された。
その後、計画は表向き「凍結」とされたが、実際にはの研修施設で、車体前面に形状の耐風カバーを装着した試験車が2両だけ保管されたという。これらは後に解体されたが、車輪だけは地元の博物館に分散展示されていると伝えられる。
技術的特徴[編集]
常磐新幹線の技術的特徴として、まず海霧と強風を前提とした耐候設計が挙げられる。車両前頭部には冬季のみ展開する可変式加熱板が設けられ、先頭部の表面温度を最大で48度に保つことで結露を防ぐとされた。さらに、周辺の塩分粒子対策として、パンタグラフには“逆洗い”機構が導入される計画であった。
また、線形の大半が平坦であることから、駅間距離をやや長くとり、代わりに各駅に観光案内所と防災倉庫を併設する「複合停車場」方式が採用された。これは当時の日本国有鉄道技術陣が“駅は乗る場所ではなく、地域の居間である”と説明したことに由来するとされる[5]。
社会的影響[編集]
常磐新幹線の構想は、未成のままでも沿線社会に強い影響を与えた。たとえばひたちなか市周辺では、計画地に合わせて区画整理が先行し、道路幅が新幹線車体の全幅よりも少しだけ広く作られた地区がある。地元ではこれを「いつか列車が通る前提の街路」と呼び、商店街の看板も一時期は横書きで統一された。
また、の高校地理教材では、常磐新幹線の仮想ダイヤを使って人口移動を学ぶ授業が行われたとされる。生徒が「なぜ駅がないのに駅弁だけ先に決まっているのか」と質問した逸話は有名であり、以後この教材は“先に食文化が整備された未成線”の例として知られるようになった。
一方で、海岸景観への配慮から高架橋の高さを抑えた結果、沿線の一部では自動車のほうが駅舎を見下ろすという奇妙な景観が生まれた。この矛盾は都市景観論の教材として扱われ、東京大学都市工学科の演習問題にも採用されたと伝えられる。
批判と論争[編集]
常磐新幹線は、輸送改善策であると同時に地域開発の象徴として語られたため、批判も多かった。環境保護団体は、沿岸湿地を横断する計画線に対して、渡り鳥の経路を乱すとして反対運動を行った。これに対し推進側は、鳥類は新幹線の騒音に慣れると主張し、比較用にの飛行実験まで実施したという。
また、予算面では「新幹線一本分の建設費で、港湾・農道・駅前温泉を同時に作るのは無理がある」との指摘があり、相当の内部文書では、駅舎の屋根に設けられた展望デッキが実質的に“予算逃れの公園”と記されている。なお、駅名選定をめぐってはとの優先順位が最後まで決まらず、会議が3時間半に及んだという記録がある。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『常磐高速軸試案と沿岸都市再編』運輸政策研究会, 1971年, pp. 14-39.
- ^ 三輪俊一『新幹線耐塩害設計の実際』鉄道技術社, 1974年, pp. 88-116.
- ^ 小川祐介「常磐地域における高速鉄道構想の変遷」『交通史研究』Vol. 12, No. 3, 1985, pp. 21-44.
- ^ Margaret A. Thornton, "Coastal Shinkansen and Regional Morphology", Journal of East Asian Infrastructure, Vol. 8, No. 2, 1992, pp. 101-129.
- ^ 佐伯由紀『未成線が先につくる町』地方計画出版, 1998年, pp. 55-79.
- ^ Kenjiro Hasegawa, "Fog-Responsive Signalling on Proposed Express Railways", Railway Systems Review, Vol. 17, No. 4, 2001, pp. 233-250.
- ^ 常磐新幹線調整本部編『常磐新幹線関係会議録 第4巻』常磐交通資料センター, 1980年, pp. 201-268.
- ^ 田中美砂子『駅前温泉と都市政策』関東地理叢書, 2006年, pp. 9-27.
- ^ Robert L. Wexler, "Passenger Demand Forecasting by Festival Attendance", Transportation Folklore Quarterly, Vol. 3, No. 1, 1979, pp. 1-18.
- ^ 北村晴彦『海霧と鉄道運行管理』海洋交通研究社, 2011年, pp. 142-169.
外部リンク
- 常磐交通史アーカイブ
- 未成新幹線資料室
- 沿岸高速鉄道研究会
- 茨城都市再編博物館
- 地方鉄道妄想年鑑