新巣鴨プリズン
| 名称 | 新巣鴨プリズン |
|---|---|
| 英名 | New Sugamo Prison |
| 所在地 | 東京都豊島区および北区にまたがるとされる |
| 設置時期 | 1948年頃 |
| 閉鎖 | 1957年頃 |
| 収容目的 | 戦犯・思想犯・特殊政治案件の隔離 |
| 運営主体 | 連合国軍監督下の東京再収容局 |
| 通称 | 新巣プリ |
| 特徴 | 三層式の回廊監視と防音壁 |
| 関連制度 | 拘禁再分類令、面会透明化規則 |
新巣鴨プリズン(しんすがもぷりずん、英: New Sugamo Prison)は、内に設置されたとされる高警備収容施設である。戦後のにおいて、再編された拘禁技術と政治犯の隔離政策の象徴として語られている[1]。
概要[編集]
新巣鴨プリズンは、戦後直後のにおいて、旧来の拘禁施設を再利用するかたちで構想されたとされる高警備収容施設である。名称に「新」と付くが、実際には全面的な新築ではなく、周辺の旧軍用地と民間倉庫群を接続して造成された半仮設的な施設であったとする説が有力である[2]。
この施設は、の監督下で始まったの実験事業の一つとされ、政治的に敏感な被収容者の分離と再教育を目的としていた。もっとも、実際の運用では思想犯のほか、闇市の帳簿係や接収物件の横流しに関与した事務官まで入れられていたといい、施設の性格は早い段階で曖昧になっていた。
新巣鴨プリズンは、代前半の都市改造とともに姿を消したとされるが、その跡地をめぐっては現在も複数の証言が存在する。とりわけ、夜間にだけ壁面の方角が微妙に変わる「可動外壁」の話は、元看守の回想録にしか出てこないため、編集者の間でも要出典扱いとなっている。
成立の経緯[編集]
起源は、の解体後に残された拘禁行政の空白を埋めるため、との一部官僚が非公式に設けた「再収容試験区」にあるとされる。担当者として名前が挙がるのは、法制官の、施設工学技師の、および通訳兼渉外係のであり、三者の合意文書は現在も所蔵の目録にのみ痕跡が残る[3]。
当初の計画では、旧の近隣にあった石材加工場を転用し、1期工事として48室、2期工事として96室を増設する予定であった。しかし、夏の集中豪雨で地下排水路が想定以上に崩れ、結果として床下に空洞が生じたため、建築陣は急遽、床面を2.4メートルかさ上げする案を採用した。これにより、監視員が廊下を歩くたびに音が二重に反響する独特の構造が生まれたとされる。
なお、初期の設計図には「庭園付き面会室」が存在したが、これは被収容者の更生を促すためではなく、面会人の心理を平坦化するために導入されたと説明されている。実際には庭園は9日で枯れ、以後は砂利と白い板塀だけが残ったという。
施設構造[編集]
三層式回廊[編集]
新巣鴨プリズンの最大の特徴は、三層式の回廊監視である。中央廊下を挟んで上段・中段・下段の巡回路がずらされており、同じ時刻に同じ場所へ到達しても、看守同士が互いを目視できないよう設計されていたという。これは脱走防止よりも、口論の回避に効果があったとされる[4]。
面会透明化装置[編集]
面会室には「透明化装置」と呼ばれる厚さ17ミリの曇りガラスが用いられ、面会者の表情は見えるが、口の動きだけが読みにくくなるよう加工されていた。これにより、秘密の伝言が減った一方で、面会者が毎回同じ口の形で泣くようになり、記録係の作文がやたら文学的になったと伝えられる。
音響遮断区画[編集]
独房群の周囲には、当時としては珍しいコルク混合壁が採用された。施設側は「騒音対策」と説明したが、実際には被収容者同士が壁越しに暗号通信するのを防ぐためであった。もっとも、ある夏の夜にの壁内から尺八の音が聞こえたという証言があり、これが何を意味するかは現在も不明である。
運用と日常[編集]
収容者の生活は、午前5時40分の点呼、6時10分の薄粥、7時00分の読書配布、10時30分の「静座訓練」、17時の再点呼という流れで管理されたとされる。もっとも、読書配布といっても実際に回されたのは解説冊子の改訂版、手書きの算術問題、そしてなぜかの抜粋であった。
食事は毎週火曜だけ妙に豪勢で、鯨肉と大根が同じ皿に盛られた。これを「国家の均衡献立」と呼んだのは看守長のであるが、被収容者の側では「皿の上の連立政権」と呼ばれていた。なお、週に1回だけ出る甘味の寒天は、脱走計画の暗号解読に使われたため、1951年以後は四角ではなく三角形に切り分けられるようになった。
日常業務の細部については、監視台のベルが鳴る回数によってその日の政治情勢を占う「鳴鐘法」が広まったとされる。これは非公式の迷信であったが、実際にベルが7回鳴る日は必ず来客が多かったという報告があり、看守のあいだでは半ば統計学として扱われていた。
歴史[編集]
設置期[編集]
の正式運用開始時、新巣鴨プリズンは「臨時再分類施設」として登録された。開所式にはの前身組織にあたる復興委員会の職員が出席し、テープカットの代わりに鍵束を回収する儀式が行われたという。
拡張期[編集]
には朝鮮戦争景気に伴う警備予算の増額で第2収容区が増築され、これが施設史上最大の拡張となった。ここで導入された「夜間巡回式回転灯」は、のちに地方拘置施設へと輸出され、とで一時的に模倣されたとされる。
終焉期[編集]
、都市計画上の理由と老朽化を理由として閉鎖が決定された。解体工事では床下から大量の記録箱が見つかり、そこには収容番号ではなく天候の記号だけが書かれていたため、誰が何を収容していたのか長く不明のままであった。最後の出所者は、出てきた瞬間に「外の空気が四角い」と述べたとされる。
社会的影響[編集]
新巣鴨プリズンは、戦後日本の拘禁制度に「見せる規律」と「見えない規律」という二重の発想を持ち込んだ施設として位置づけられている。法学者のは、ここで試された面会制限と文書検閲の手法が、その後の行政拘禁手続に微妙な影響を与えたと論じた[5]。
一方で、周辺住民の証言では、施設の存在によって近隣の魚屋がやたら繁盛したという逸話が残る。理由は不明だが、毎朝の点呼に合わせて運搬車が通るため、通勤客がついでに買い物をしたからだと説明されることが多い。また、巣鴨地区では1950年代後半まで、子どもが悪さをすると「新巣へ入れるよ」と脅される風習があった。
都市文化への影響も無視できない。映画『』や短編小説『』など、施設をモチーフにした作品がいくつか現れ、特に回廊の反響音を再現した朗読会はの小劇場で一定の人気を得た。もっとも、これらの作品が実際の記録に基づくのか、後年の創作なのかは判然としない。
批判と論争[編集]
新巣鴨プリズンに対する批判は、当初から「過度に実験的である」という一点に集中していた。建築記録の一部は、床面のかさ上げや壁材の選定に関する記述が妙に詳しい一方で、収容者数だけが毎回丸められているため、施設が法的保管よりも演出的管理を優先していたのではないかと指摘されている[6]。
また、の「午後2時の集団沈黙事件」は、現在も解釈が割れている。公式には通信障害への対処訓練とされたが、実際にはラジオの受信が良すぎての野球中継が聞こえたため、看守も収容者も一斉に試合へ聞き入ってしまっただけだという。これを「政治的休戦」とする説すらある。
閉鎖後も、跡地利用をめぐり複数の住民運動と行政計画が対立した。もっとも争点の中心は保育園や道路幅ではなく、「旧面会室の曇りガラスを保存するか」であったと伝えられており、文化財指定の委員会では賛否が9対8に割れたという。なお、この採決に欠席した委員が本当に存在したかは確認されていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『東京再収容行政史』法制時報社, 1964, pp. 41-88.
- ^ Margaret A. Thornton, “Reclassification Corridors in Postwar Tokyo,” Journal of Civic Detention Studies, Vol. 12, No. 3, 1971, pp. 201-229.
- ^ 佐伯久乃『面会室の曇りとその政治学』中央公論施設叢書, 1959, pp. 13-54.
- ^ 小川久作『新巣鴨プリズン日誌』北斗館, 1962, pp. 7-119.
- ^ 松平安二郎『拘禁と都市復興』岩波模擬選書, 1980, pp. 92-143.
- ^ Eleanor K. Vance, “Acoustic Isolation in Temporary Prisons,” Prison Architecture Review, Vol. 8, No. 1, 1955, pp. 11-34.
- ^ 『東京都戦後拘禁施設目録』東京都公文書研究会, 1974, pp. 5-26.
- ^ 中村邦彦『曇りガラス越しの戦後史』新潮施設文庫, 1987, pp. 77-101.
- ^ Harold J. Wexler, “The New Sugamo Anomaly,” Proceedings of the East Asian Correctional Conference, Vol. 4, No. 2, 1963, pp. 55-63.
- ^ 『第3棟の尺八音に関する調査報告』東京再収容局記録課, 1954, pp. 1-9.
外部リンク
- 東京再収容局デジタルアーカイブ
- 巣鴨戦後施設研究会
- 曇りガラス史料館
- 新巣鴨プリズン跡地保存委員会
- 日本拘禁建築学会