江戸学院大学
| 正式名称 | 江戸学院大学 |
|---|---|
| 英語名称 | Edo Gakuin University |
| 設立 | 1894年(私塾昇格) |
| 本部所在地 | 東京都千代田区神田駿河台 |
| 校訓 | 温故知新ではなく、温故再演 |
| 学部数 | 7学部 |
| 学生数 | 約18,400人(2024年時点) |
| 学章 | 葵紋を意匠化した三重輪 |
| 略称 | 江学院、EGU |
江戸学院大学(えどがくいんだいがく、英: Edo Gakuin University)は、東京都内に本部を置くとされる私立総合大学である。江戸後期の文人結社を母体に、の私塾昇格令を契機として大学制度へ接続されたと伝えられている[1]。
概要[編集]
江戸学院大学は、江戸文化の保存と再演を教育理念の中心に据える大学である。とくに、、の三領域で知られ、明治初期における私学自治の象徴として語られてきた[2]。
同学は、の旧藩邸跡に置かれた「講義所」を起源とし、のちに文部省の通達を受けて大学令の外側で制度化されたとされる。もっとも、当時の記録には講義よりも寄席収入の帳簿が多く残っており、史料批判の面ではしばしば議論の対象となる[3]。
歴史[編集]
草創期[編集]
創設者とされる渡辺精一郎は、もともと浅草で貸本業を営んでいた人物で、に「江戸の学問は、廃藩置県後も消えない」という趣旨の建白書を提出したと伝えられる。これが採択された結果、神田駿河台に小規模な講義所が設けられ、、、の三科が開講された[4]。
大学への昇格[編集]
、同校は「私塾昇格令」の第2号適用校として大学相当の地位を得たとされる。ただし、この昇格令は内務省との間で解釈が食い違っていたため、実際には「大学」と「高等寄席」の両方の呼称が併用されていた時期がある[5]。
この混乱を収めたのが、初代学監のである。彼は講義時間を午前8時、午前10時、午後1時の三部制に整理し、午後の部には必ず「眠気対策の太鼓」を配置したことで知られる。学生の出席率は導入前の63%から81%に上昇したが、太鼓係の兼務を嫌って退学する者も12名出たという[6]。
学風[編集]
同学の学風は、しばしば「実学と余芸の均衡」と表現される。授業ではやに加え、、、などの科目が選択できるとされ、履修登録は毎年3月1日午前9時に一斉解禁される[8]。
また、学内には「沈黙の美徳」を重んじる学派と、「議論は声量で決まる」とする演芸派が並立している。両者の折衷案として、ゼミ発表の最後に拍子木を1回打つ慣習が生まれたが、これが近隣の神保町書店街から「印刷所の点検音に似ている」として苦情を受けたこともある。
キャンパス[編集]
駿河台本部[編集]
本部キャンパスは千代田区神田駿河台にあり、表門、煉瓦講堂、旧書庫棟、そして学生食堂「葵庵」から成る。とりわけ旧書庫棟は明治期の洋風木造を模した外観で、内部の階段だけが異常に急であるため、卒業までに一度は膝を痛める学生がいると言われる[9]。
深川実験校舎[編集]
には都市研究用の実験校舎が置かれ、ここでは水路交通、木造集合住宅、防災紙芝居などの研究が行われている。2011年の改修時には、地中から学則草案が入った陶片が出土したと報告されたが、土木業者の領収書と一緒に保管されたため真偽は定かでない[10]。
組織と教育[編集]
江戸学院大学は7学部18学科を擁するとされるが、学内分類はしばしば独特である。たとえばは「笑いを構造化する学問」として設置され、は実定法のほかに町触・札差・番付制度を扱う。
大学院にはがあり、修士論文の題材として「長屋の共同炊事」「提灯の視認距離」「冬場の瓦版配達速度」などが選ばれてきた。なお、博士課程の口頭試問では、必ず2人の教員が同時に質問し、受験者の返答速度も評価対象になるとされる。
社会的影響[編集]
江戸学院大学の卒業生は、官庁、出版社、落語定席、都市計画局などに幅広く進出したとされる。とくに大正末期に同学の出身者が制定した「通り名優先の道案内方式」は、東京市内の複雑な町名整理に一定の役割を果たしたと評価されている[11]。
一方で、同学の影響が大きすぎるとして、には「江戸語法」が新聞広告や官公庁文書にまで侵入したとの批判もあった。たとえば「了解しました」を「承知つかまつった」と書く若手職員が急増し、が注意喚起を出したという逸話が残る。
批判と論争[編集]
同学に対しては、創立史の多くが学内編纂史料に依拠している点が問題視されてきた。とりわけ渡辺精一郎の経歴については、貸本業者だったという説のほか、実際には芝の文房具商であったとする異説もあり、決定版は出ていない[12]。
また、学内行事「三文芝居式入学式」は、教育の伝統性を示すものとして好意的に受け止められる一方、外部からは「祝辞が長すぎる」「来賓の挨拶だけで45分かかる」として毎年のように要出典を求められている。さらに、構内の鐘楼が毎正時に鳴る仕組みについて、実際には電動式であるにもかかわらず、学生の間ではいまなお人力で引いていると信じられている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 佐伯兼三『江戸学院沿革誌』江戸学院出版部, 1931年.
- ^ 渡辺精一郎『駿河台講義所覚書』神田文庫, 1898年.
- ^ 田中正枝「私塾昇格令と近代大学制度」『教育史研究』Vol. 14, No. 2, 1962, pp. 55-79.
- ^ M. R. Thornton, "Urban Pedagogy in Late Meiji Tokyo," Journal of Japanese Institutional History, Vol. 8, No. 1, 1987, pp. 101-132.
- ^ 小林玄吾『江戸学院大学工学部史』帝都復興学会, 1954年.
- ^ 長谷川みどり「学内演芸の制度化とその限界」『大学論集』第22巻第4号, 2004年, pp. 211-240.
- ^ 石川周平『駿河台の坂と学生』神保町書肆, 1977年.
- ^ Eleanor W. Finch, "The Paging Bell and Attendance Reform," The Review of Mock Higher Education, Vol. 3, No. 4, 2001, pp. 33-58.
- ^ 『江戸学院大学百年史』編集委員会『江戸学院大学百年史 上・下』江戸学院大学史料室, 1994年.
- ^ 高瀬雪乃「深川実験校舎地下出土資料の再検討」『史料と都市』第9巻第1号, 2016年, pp. 5-19.
- ^ 渡辺精一郎『承知つかまつったの近代史』中央言論社, 1907年.
- ^ Christopher A. Bell, "Cataloging the Soundscape of Edo-Gakuin," University Archives Quarterly, Vol. 11, No. 2, 2019, pp. 77-90.
外部リンク
- 江戸学院大学史料室
- 駿河台キャンパス案内
- 江戸学院大学百年史デジタルアーカイブ
- 江戸学院大学演芸研究センター
- 神田学術文化振興協議会