遠藤 楓万
| 氏名 | 遠藤 楓万 |
|---|---|
| ふりがな | えんどう ふうま |
| 生年月日 | 1912年11月3日 |
| 出生地 | 福井県敦賀市 |
| 没年月日 | 1987年4月17日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗工学者、記録技師、収集家 |
| 活動期間 | 1934年 - 1983年 |
| 主な業績 | 紙鳶標本法の確立、楓万式色票綴の編纂 |
| 受賞歴 | 日本記録学会特別功労章、北陸文化奨励賞 |
遠藤 楓万(えんどう ふうま、1912年 - 1987年)は、日本の民俗工学者、独自色彩記録術の提唱者である。紙鳶標本の収集家として広く知られる[1]。
概要[編集]
遠藤 楓万は、昭和前期から高度経済成長期にかけて活動した民俗工学者であり、日用品の形状や色彩を「地域の記憶として定量化する」独自の手法を提唱した人物である。とりわけ、失われゆく凧の骨組みや包装紙を分類した紙鳶標本の研究で知られる。
その活動は、福井県から東京都へ移った戦後の記録文化の流れと密接に結びついていたとされる。なお、本人は「観測できる郷愁こそが近代の基礎資料である」と述べたと伝えられるが、この発言は晩年の聞き書きにしか残っておらず、真偽は確定していない[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1912年、遠藤は福井県敦賀市の紙問屋の家に生まれた。幼少期から倉庫に積まれた荷札や和紙の断片を整理する癖があり、近隣では「紙を畳むのが早い子」として知られていたという。
家業は港湾向けの包装材を扱っていたが、遠藤は商品の中身よりも外装の結び方や印刷のずれに強い関心を示した。この時期に、彼は後年の基礎となる「形から地域を逆算する」発想を得たとされる[3]。
青年期[編集]
1931年に旧制福井中学校を卒業後、東京高等工芸学校図案科へ進学した。そこで柳宗悦系の民藝論と、当時流行していた工業測定学の双方に触れ、伝統と規格化の接点を探るようになった。
また、在学中に浅草の玩具店で見た折り紙凧の歪みに衝撃を受け、以後、凧の骨組みを鉛筆の線ではなく「風の通り道」として記述する方法を試みる。これがのちの紙鳶標本法の原型になったとされる。
活動期[編集]
1938年、遠藤は内務省の外郭研究会に参加し、地方祭礼で使用される紙製装飾の保存調査に従事した。戦時下では物資統制のため、本来は廃棄されるはずの包装紙や奉書紙を収集対象に転じ、京都府や石川県で約1,240点の試料を記録したとされる。
戦後は東京都に移り、国立科学博物館の協力を得ながら、紙鳶標本と色票綴の体系化を進めた。特に1949年に発表した『地方紙鳶の骨格分類試案』は、当初「玩具の整理に過ぎない」と軽視されたが、後年、民具保存の方法論として再評価された[4]。
1956年には、港湾都市の荷札文字を対象にした観察記録『結束の書法』を公表し、商標や梱包の結び目に「地域の無意識」が表れると主張した。この説は一部のデザイン史研究者から支持を得た一方で、統計の取り方が恣意的であるとの批判も受けた。
人物[編集]
遠藤は、温厚で寡黙な人物として知られたが、測定の場面では異常に細かく、定規の目盛りが0.5ミリずれるだけで最初からやり直したという。机上には常に福井新聞と無地の色紙が積まれており、来客が座る前に紙の厚さを測る癖があった。
また、弟子に対しては厳格であったが、夕食だけは「器の口径と盛りつけの余白が一致していれば味は半分決まる」と述べ、食卓の配置に強いこだわりを見せた。ある記録では、1958年の講演中に紙鳶の尾を使ってNHKのマイク位置を修正したため、会場が一時騒然となったとある[要出典]。
一方で、子ども向けの工作教室では驚くほど寛容で、失敗した凧を「風に拒絶されたのではなく、まだ分類が終わっていないだけだ」と励ましたという。こうした態度から、後年の民具収集家のあいだでは「やさしい分類狂」とも呼ばれた。
業績・作品[編集]
紙鳶標本法[編集]
遠藤の代表的業績は、紙鳶を構造・紙質・糸の結び方・尾の長さで細分化する紙鳶標本法である。これは単なる玩具分類ではなく、祭礼、天候、流通材の差異を同時に読み解くための方法として設計された。
彼は全国47都道府県のうち当時調査可能だった41地域を巡り、標本番号を付した凧の台紙を作成した。番号体系は最終的にA-17-3からQ-92-11まで拡張され、弟子筋の間では「読み上げるだけで午後が終わる」と言われた。
後世の評価[編集]
遠藤の業績は、生前には必ずしも高く評価されなかったが、1980年代後半以降、民具保存・地域アーカイブ・デザイン史の交差領域で再発見された。特に国立歴史民俗博物館の開館以降、彼の標本法は「資料の喪失を前提とした記録技法」として引用されることが増えた。
ただし、その分類の細密さはしばしば過剰とみなされ、研究者の間では「遠藤の表は美しいが、現場では3人に1人が記入を諦める」とも言われる。とはいえ、地方祭礼の包装文化を体系的に残した点は評価が高く、2012年の生誕百年記念展では、来場者数18,406人を記録した。
一部の文化史家は、遠藤を「日本における失われたものの工学化を最初に試みた人物」と位置づける。一方で、彼の方法があまりに独自であったため、今日でも完全に再現できる研究者は少ないとされる。
系譜・家族[編集]
遠藤家は代々敦賀港周辺で紙商を営んでいたとされる。父・遠藤庄右衛門は荷札と包装材の目利きに長け、母・とみは祝儀袋の折り筋を一目で見分けたという。
妻は遠藤ミツエで、地元の小学校で図画を教えていた。二人のあいだには長男・遠藤楓二、長女・遠藤綾、次男・遠藤風助が生まれたとされる。長男は後年、父の資料室を整理するが、分類番号の多さに挫折し、最終的には1,000点だけを残して市に寄贈した。
なお、遠藤の弟・遠藤草介は、兄とは対照的に「分類よりも混ざり合いを尊ぶ」画家となり、兄弟で思想的対立があったと伝えられる。この対立が、遠藤の標本法をより厳密なものにしたという見方もある。
脚注[編集]
1. ^ 遠藤自身の発言をまとめたとされる口述記録に基づく。 2. ^ 晩年の聞き書き『風に触れるための帳面』による。 3. ^ ただし、初期の家業記録は散逸しており、詳細は不明である。 4. ^ 同論文は当初、工芸誌に掲載されたが、のちに資料集へ再録された。
脚注
- ^ 遠藤楓万『地方紙鳶の骨格分類試案』民芸記録社, 1949年.
- ^ 遠藤楓万『結束の書法』港湾文化研究会, 1956年.
- ^ 遠藤楓万『色票綴の余白論』東京資料出版, 1963年.
- ^ 田所正彦『戦後民具保存史と遠藤楓万』日本記録学会誌 Vol.12, No.3, pp. 44-61, 1991.
- ^ Margaret L. Thornton, "Kite Fragments and Regional Memory", Journal of Material Folklore, Vol. 8, No. 2, pp. 115-139, 1998.
- ^ 松浦静江『昭和包装意匠の比較研究』文化財学報 第24巻第1号, pp. 8-29, 2004.
- ^ H. S. Weller, "The Endo Method of Chromatic Binding", Archives of Vernacular Design, Vol. 5, No. 1, pp. 1-22, 1976.
- ^ 遠藤楓万口述・吉原啓一編『風に触れるための帳面』岩波書店, 1979年.
- ^ 小野寺久美『港町の荷札と近代日本』東洋書林, 1987年.
- ^ 橋本由利『楓万式色票綴の再構成とその限界』デザイン史研究 第31巻第4号, pp. 201-230, 2013年.
外部リンク
- 日本紙鳶標本協会
- 遠藤楓万資料室アーカイブ
- 北陸民俗工学研究センター
- 色票綴デジタル博物館
- 港湾包装文化研究会