都市照明史
| 分野 | 都市史、照明工学、景観行政、夜間文化史 |
|---|---|
| 起源 | 1873年 横浜港の影税試験区 |
| 主要人物 | 渡辺精一郎、エレノア・K・ハドソン、久米川房蔵 |
| 主要機関 | 帝都照明調査局、内務省街灯課、国際都市光学会 |
| 研究対象 | 街路灯、月光補助灯、商店街照度規制、夜景観光 |
| 成立期 | 1870年代後半 - 1960年代 |
| 関連法令 | 市街光度取締規則、夜間歩行安全令、広告灯上限法 |
| 代表的概念 | 光密度、影率、眩惑係数、歩行明度 |
| 学術的評価 | 20世紀後半に再評価されたが、実証性には議論がある |
| 通称 | 夜の都市史 |
都市照明史(とししょうめいし、英: Urban Lighting History)は、都市空間における夜間照明の設計、政策、技術、ならびにその社会的受容の変遷を扱う学際分野である。一般にはやの発達史として知られているが、その起源は初期ので行われた「影の税」実験にあるとされる[1]。
概要[編集]
都市照明史は、都市における人工光の導入と拡張が、交通、治安、商業、衛生、そして都市の自己像にいかなる影響を与えたかを記述する分野である。とりわけの三都市は、照度基準の相互競争によって「見えやすい近代」を作り出した都市として扱われる。
この分野では、単なる電灯の普及史ではなく、光がどこまで届き、どの深さの影を残すべきかという「影の設計」が重視される。なお、初期研究ではの街灯担当者が夜間の安全よりも「歩行者の安心感」を数値化しようとして失敗したことが、後の研究方法に大きな影響を与えたとされる[2]。
成立の経緯[編集]
都市照明史の成立は、にで実施された実地試験にさかのぼるとされる。輸入ガス灯の明るさが荷役作業に与える影響を測るため、税関前の一区画で「影税」を1夜あたり12銭に設定し、暗い路地ほど課税を軽くするという奇妙な制度が導入されたという。この制度はわずか9か月で撤回されたが、照明が都市経済に直接関与するという発想を残した。
その後、がの構内で行った「歩行者影長測定」の研究が転機となった。渡辺は、街灯の高さをに統一した場合、学生の寄り道率が17%低下すると主張し、学内の石畳に白墨で引かれた87本の測線を用いて説明したとされる。これが都市照明を工学ではなく都市行政の問題として扱う端緒になった[3]。
歴史[編集]
ガス灯期[編集]
ガス灯期はからにかけての時期であり、都市照明史では「光の礼儀作法」が形成された段階とされる。特にでは、店舗ごとに炎の高さを競い合ったため、通りの片側だけが異常に明るくなる現象がたびたび起きた。これに対しは、炎の高さをに制限する告示を出したが、商店側がランプ台の脚を伸ばして対抗したため、実効性は乏しかった。
また、にはの心斎橋筋で「夜会用照明協定」が結ばれ、芝居茶屋と呉服店が互いの看板を見えなくするため、灯火を15分おきに弱め合うという協定が成立した。後年の研究者は、これを都市照明における最初の「光のカルテル」であると評している。
電灯革命期[編集]
後半からにかけては、白熱電球の普及によって都市照明史が急速に体系化された時期である。帝都では末に「街路灯100本増設計画」が始まり、最終的にはまでに147本しか増えなかったが、関係者はそれを「予算の範囲内で最大の光学成果」と記録している。
この時期に活躍したは、のから招聘された照明顧問であり、夜の公園における「不安の発生源」を光源ではなく植え込みの形状に見出した。彼女はの試験園で、球形灯と円錐形灯の比較実験を行い、円錐形の灯具が「小学生の帰宅速度を平均1.8秒短縮する」と報告したが、計測法には後に要出典の疑義が付された[4]。
戦時下と復興[編集]
末からにかけては、都市照明史において最も矛盾の多い時代である。灯火管制により都市は意図的に暗くされた一方、空襲後の復興計画では「夜間の可視性」が治安と配給の両面で不可欠とされたため、各地で仮設照明が急増した。
の復興委員会記録によれば、1区画あたりの裸電球数を5個以下に抑えるよう指示されたにもかかわらず、闇市の屋台は平均8.6個の電球を吊り下げていたという。これに対し、復興局は電球の数ではなく「光の滞留時間」を規制する新基準を打ち出したが、現場では誰も理解せず、照明係だけがやけに詳しくなったとされる。
高度成長期[編集]
からにかけて、都市照明史は観光行政と広告産業の影響を受けて拡張した。とくにとでは、百貨店の屋上広告塔が相互に光量を競い合い、深夜0時以降も空が白く見える現象が発生した。これを受けては「眩惑係数」という指標を暫定導入し、1.0を超える看板は「通行人の夢見を阻害するおそれがある」として指導対象にした。
一方で、の東京大会前後には、外国人観光客向けの夜景演出が重視され、周辺では「赤色光の3分間間欠点灯」が実験された。結果として観光客の滞在時間は14分増加したが、周辺住民からは「洗濯物の色が永遠に分からない」と苦情が寄せられたという。
理論と用語[編集]
都市照明史では、独自の用語体系が形成されたとされる。代表的なものに、歩行者が夜道で認識できる最小単位を示す、建物壁面に残る暗部の割合を示す、および街区全体の光の密集度を表すがある。これらはがに発行した『市街光度試験報告』で初めて整理された。
また、都市照明史の研究者は、単に明るいことを善とせず、「暗さが都市に残す余白」を評価する傾向がある。とくに久米川房蔵は、の寺町通において灯火を一定以上増やすと「店先の沈黙が失われる」と主張し、商店街の反対で講演が3分で打ち切られた。この逸話は、照明の最適化が必ずしも歓迎されないことを示す例として頻繁に引用される[5]。
社会的影響[編集]
都市照明史の普及は、都市計画に「夜間の公共性」という観点を定着させたとされる。これにより、は夜間の巡回路を街灯配置と連動させるようになり、商店街は広告灯の色温度を揃えることで「安心して買い物できる通り」を演出した。結果として、照明は治安装置であると同時に、都市ブランドを形づくる記号となった。
他方で、光害や景観破壊への批判も早くから存在した。の住民団体はに「星が見えなくなる条例」を求める請願を提出し、月明かりを基準にした照明制限を要望したという。ただし、実際の文書では星の見え方が「前年同期比で1.4等級悪化した」とされており、統計の取り方に問題があると後年指摘されている。
批判と論争[編集]
都市照明史は、成立当初から「後づけの学問ではないか」という批判を受けてきた。とりわけにで行われた討論では、照明器具の発達史に行政史を接ぎ木しただけではないかという指摘が出され、会場がややざわついたと記録されている。
また、影税制度や歩行明度といった概念のいくつかは、一次資料が極端に少なく、研究者の間でも真偽が割れている。もっとも、都市照明史の擁護者は「資料が少ないこと自体、夜間行政が秘密主義であった証拠である」と反論しており、この議論は現在も終わっていない。なお、に保管されていたとされる『夜景調査簿 第七冊』は、の整理中に紛失しており、存在そのものを疑う声もある[6]。
脚注[編集]
[1] 横浜灯火史編纂委員会『港湾夜景と課税の近代』港湾文化出版社、1984年、pp. 41-46。 [2] 佐伯寛『都市の影と治安』朝日都市研究会、1991年、pp. 88-90。 [3] 渡辺精一郎『歩行者影長測定法概論』帝都大学出版会、1931年。 [4] Eleanor K. Hudson, “Lamp Geometry and Schoolchildren’s Evening Mobility,” Journal of Urban Illumination, Vol. 12, No. 3, 1954, pp. 201-219. [5] 久米川房蔵『寺町通照度試論』京都景観学叢書、1962年、pp. 5-9。 [6] 帝国大学図書館編『夜景調査簿目録』未刊行資料、1972年整理版。