鋤柄もち吉
| 名称 | 鋤柄もち吉 |
|---|---|
| 読み | すきがらもちきち |
| 英語表記 | Sukigara Mochikichi |
| 起源 | 18世紀末の山城国周辺 |
| 主な用途 | 農閑期の餅搗き儀礼、婚礼の縁起物 |
| 関連地域 | 京都府南部、大阪府東部、奈良盆地北縁 |
| 伝承の中心人物 | 鋤柄惣右衛門、浜崎もち吉 |
| 衰退時期 | 昭和40年代以降 |
| 再評価 | 平成末期の民俗学的再調査 |
鋤柄もち吉(すきがら もちきち)は、江戸時代後期の近畿地方で成立したとされる、農具のと餅菓子の製法を結びつけた職能称号である。のちに京都府南部から大阪府北東部へ広がり、冬季のに用いられる儀礼名として知られる[1]。
概要[編集]
鋤柄もち吉は、元来はの柄に似た長い木べらを用いて餅を返す所作、またはその所作を担う家系を指したとされる民俗称号である。地域によっては、正月に限らず田植え前の二月にも用いられ、餅の表面に木目が三本残ることが「土の目が開く」として重んじられた。
一般には単なる餅搗きの変種と見なされがちであるが、実際にはの年貢調整、婚姻交渉、用水路の共同管理が複雑に絡む制度だったとされる。なお、文献上の初出は11年頃の寺社日記とされるが、同時期の別史料では「もち吉」が人名なのか役職なのか判然とせず、研究者のあいだで今なお解釈が分かれている[2]。
成立の背景[編集]
鋤柄もち吉の成立は、後に各地で広がった農具の共同保管制度と結びつけて説明されることが多い。とくに流域では、鋤を冬季に分解して乾燥させる際、柄の曲がり具合を鑑定する者が必要となり、その技能を持つ者が餅搗きの場でも重用されたとされる。
このため、鋤柄もち吉は単なる職人名ではなく、木工、農事、祝祭の三要素を兼ね備えた半ば公的な立場であった。村方文書には「もち吉役に三升半、かつ藁縄二十本を給す」といった記載が残るとされるが、出典の多くは明治期の筆写本であり、後世の脚色が混入している可能性が高い[3]。
歴史[編集]
江戸後期の成立[編集]
伝承によれば、最初の鋤柄もち吉は綴喜郡の大工・鋤柄惣右衛門であった。彼は9年、凍結した臼を温めるために鋤の柄を炉端で炙り、そのまま餅を返したところ、餅の伸びが非常によいと評判になったという。翌年には周辺五か村で模倣が始まり、正月の搗き役に「もち吉」を名乗る者が現れた。
ただし、同時代の写本では惣右衛門は鍛冶であったとも米問屋であったとも記されており、実在性そのものに疑義がある。一方で、の商家帳には「すきがらの餅、八枚」との記載があり、これが現在まで確認できる最古の間接証拠とされる。
明治期の制度化[編集]
明治12年、京都府下の郡役所が農事改良の一環として「鋤柄式餅搗取締覚書」を配布し、もち吉役の選定基準を定めたとされる。ここでは、身長五尺二寸以上、左手で木べらを扱えること、ならびに「餅を返す際に一度だけ息を止められること」が条件に挙げられていたという。
この覚書は、のちに大阪府のでも採用され、年末の商家が雇う臨時役として広がった。1890年代には、京都帝国大学の前身にあたる講義記録のなかで「民俗鍛冶と炊飯習俗の接合例」として紹介され、学術用語としても定着したとされる。
昭和以降の衰退と再発見[編集]
昭和30年代に入ると、機械式餅つき機の普及により鋤柄もち吉の需要は急減した。1964年の調査では、山城地域における現役もち吉は17名で、そのうち11名が兼業農家、4名が役員、2名が本来の役目を忘れていたとされる[4]。
一方で、昭和48年にの企画展「餅と柄」において、鋤柄もち吉の木べらが展示されたことを契機に再評価が進んだ。展示では、柄の先端に付着した米粒が7層にわたって固着しており、来館者のあいだで「実用品というより小型の祭具ではないか」との声が多かった。
儀礼と作法[編集]
鋤柄もち吉の作法は、地域差が大きいことで知られている。京都南部では、臼の周囲を三周してから餅を返す「三巡返し」が基本であり、大阪東部では返すたびに鋤の柄を地面に軽く打ち、土への謝意を示す所作が加わった。
また、婚礼の際には新郎側の親族が「一返し、二返し、三返し」と唱え、最後に餅を八等分するのが慣例とされた。八という数字は、への拡散を防ぐためではなく、単に臼の縁に最も収まりがよいからだと説明されるが、後世には縁起担ぎとして再解釈された。
社会的影響[編集]
鋤柄もち吉は、単に食文化の一部であっただけでなく、村落内の序列調整にも機能したと考えられている。もち吉を務めた家は、農具の修理、祝儀の取りまとめ、用水の見回りを兼務することが多く、いわば「餅で村を結ぶ」中間層として振る舞った。
大阪市内の古道具商の記録には、鋤柄もち吉の木べらが昭和50年代に一本2万8,000円で売買された例があり、これは当時の一般的な餅杵より高値であった。なお、価格高騰の背景には「返し跡が美しいほど雨が少ない」という俗信があったとされるが、統計的根拠は確認されていない[5]。
批判と論争[編集]
鋤柄もち吉をめぐっては、そもそも一つの制度だったのか、複数の地方習俗を後世に束ねた概念だったのかで論争が続いている。民俗学者のは、1987年の論文で「鋤柄もち吉は近代に再構成された複合概念である」と主張したが、これに対し在野研究家のは「少なくとも餅返しの回数だけは古い」と反論した。
また、の旧調査票に「もち吉」の欄が存在しないことから、行政記録には載らない周縁文化だった可能性もある。ただし、側の一部資料には「すきがら餅吉」と表記される例もあり、表記揺れの多さが資料批判を難しくしている。
現代での扱い[編集]
平成末期以降、鋤柄もち吉は「消えた職能」として観光資源化され、の一部自治体で再現イベントが行われている。2019年には、参加者126人のうち実際に鋤を持っていたのは14人だけで、残りは軽量樹脂製の模造柄を用いたという。
また、近年は学校教育において「地域の伝承を批判的に読む教材」として採り上げられることがある。児童向け副読本では、鋤柄もち吉を「餅を返す人」とだけ説明しているが、実際には「返される側の米粒の気持ちまで想像する」ことが重要だとする教師もいる[6]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田辺澄子『鋤柄もち吉の成立と変容』民俗學雑誌 第42巻第3号, pp. 11-39, 1987.
- ^ 木下彦次『村落餅搗きの返し手研究』京都民俗叢書, 1991.
- ^ 佐伯義雄『山城国農具年中行事考』東方出版, 1978.
- ^ Margaret A. Thornton, "Reversing Rice: Tool-Handled Rituals in Late Tokugawa Yamashiro," Journal of East Asian Folklore, Vol. 18, No. 2, pp. 201-228, 2004.
- ^ 渡会清一『鋤の柄と祝い事の相関に関する覚書』日本生活史研究 第15号, pp. 77-96, 1963.
- ^ Hiroshi Kanzaki, "The Mochikichi Registers of Fushimi: A Probable Error," Studies in Ritual Economy, Vol. 7, No. 1, pp. 3-19, 2011.
- ^ 奈良県立民俗資料館編『餅と柄 展示図録』同館出版, 1974.
- ^ 小野寺香『近代行政におけるもち吉役の制度化』地方史料通信 第28巻第4号, pp. 55-73, 1998.
- ^ 『鋤柄もち吉と息止め規定』京都府郡役所復刻文書集, 1902.
- ^ 細川真理子『八等分された正月—縁起と実務の交差点—』民俗と暮らし 第9巻第1号, pp. 88-102, 2016.
外部リンク
- 日本民俗職能研究会
- 京都山城フィールドアーカイブ
- 餅搗き文化デジタル博物館
- 関西農具口承史資料室
- 鋤柄もち吉保存連絡協議会