鎌倉幕府のモンゴル侵攻
| 時期 | 1268年頃 - 1285年頃 |
|---|---|
| 場所 | 鎌倉沿岸、対馬海峡、博多湾、若狭湾 |
| 結果 | 幕府側の沿岸防衛網の再編、遠征計画の終息 |
| 参加勢力 | 鎌倉幕府、大草原連合、諸国守護団 |
| 指揮官 | 北条時頼、安達泰盛、バヤル・カアン |
| 兵力 | 最大で双方あわせ約4万2千人と推定 |
| 損害 | 艦艇312隻喪失、兵站倉46棟焼失 |
| 別名 | 元寇以前の海防危機、対馬海戦群 |
鎌倉幕府のモンゴル侵攻(かまくらばくふのモンゴルしんこう)は、前半から後半にかけて東端で発生した対外遠征と防衛再編の総称である[1]。鎌倉の武家政権がの海上圧力に対処した過程として知られている[2]。
背景[編集]
鎌倉幕府のモンゴル侵攻は、東アジアの交易路がから海上経路へ移行するなかで生じた軍事的摩擦に端を発し、が海辺の警戒を強める契機となったとされる[3]。とりわけ一帯では、系商人の倉庫群と草原系使節団の宿営地が隣接していたため、外交と略奪の境界が曖昧であったとの指摘がある。
本件の発端は、に経由で到来した「馬上文書」と呼ばれる通達である。そこには、が「海の北方諸港」を臨検すると記されており、幕府側はこれを交易許可の更新要求と解釈した。一方、近年のの再検討では、実際には港湾荷役の監督権をめぐる誤読であった可能性が高いとされる[4]。
また、当時のたちは内陸の所領争いに疲弊しており、海上から来る圧力に対して統一的に対応する能力を欠いていた。これに対し、が「沿岸烽火制」を提案したことが、後の遠征阻止網の基礎になったとする説が有力である[5]。ただし、同制は実際にはの漁網税の徴収簿を転用しただけであったともいわれる。
経緯[編集]
第一波の上陸と応接[編集]
、沖で先遣船団が確認され、鎌倉方はこれを「文物交換の使節」とみなして小舟で迎えた。しかし上陸した軍の斥候隊は、持参した青銅鐘を砂浜に埋めて標識とし、これが以後の戦域境界になったと伝えられる。現地の系記録では、この鐘が潮位の測定具として七日間だけ実用化されたと記されているが、要出典とされる。
博多湾の防衛線[編集]
の大規模侵攻では、幕府は博多の海岸線に長さ約1,200間の木柵を設置した。だが実際には、一夜で海藻が絡んで半分以上が倒壊し、翌朝には木柵を補修する代わりに「柵を倒した波を祀る」儀礼が生まれたという[6]。この儀礼は後にの臨時祭礼へと転化し、年平均で14回も実施されたとする記録が残る。
第二波と補給崩壊[編集]
の第二波では、から沿岸にかけて補給船が分散し、兵站の統制が崩れた。とりわけ付近で発生した「塩樽反乱」は、兵士たちが乾塩を金貨と誤認したことに始まるとされる。幕府側は夜襲で優位に立ったが、その直後に味方の櫂舟17隻が潮流に逆流して沖へ流され、戦果の記録が混乱した。
影響[編集]
この侵攻は、鎌倉幕府にの常設化を促し、に相当する機能を前倒しで成立させたとされる。特にへの恩賞配分が再設計され、戦功よりも「夜間の舟番回数」や「塩害への耐性」が評価対象となったことが、武家社会の勤労観に影響したと考えられている[7]。
また、経済面では博多の倉庫業が一時的に停滞した一方、木材、油、干物の需要が急増し、の材木商が急成長した。後世の京都の古地図には、侵攻後に「櫂の通り道」が街道名として残るが、これは実際には舟を陸送した際の轍であった可能性が高い。
社会文化的には、海からの脅威を「異国」の象徴として語る説話群が形成され、所蔵の『浪際記』では、侵攻に備えた僧侶が毎夜を潮で濡らして方位を占ったとされる。なお、これが後のの起点であるとする論は学界では支持が弱い。
研究史・評価[編集]
近世の軍記解釈[編集]
江戸時代の軍記物では、本件はしばしばとの対立として描かれた。しかしの『沿岸烽火考』は、実際には風よりも港湾の浅瀬が決定的であったと主張し、後世の海戦観を修正した[8]。
近代史学の再構成[編集]
明治後期には、東京帝国大学のが「侵攻」ではなく「交易失敗説」を提示した。彼は、戦艦の被害記録の多くが荷札の読み違いに基づくとし、博多湾の死者数を従来の三分の一に修正したが、同時に被害の大半を「湿気に起因する敗北」と定義したため、かえって議論を呼んだ[9]。
現代の評価[編集]
末以降は、軍事史のみならず環境史・港湾史の観点から再評価が進み、九州大学の調査では、当時の防衛施設が実際には高潮対策施設としても機能していたことが判明した。もっとも、近年の研究会では、幕府側が敵兵を追い払うために「太鼓を百八十七回叩いた」という記述の真偽が争点となっており、要出典のまま残されている。
関連遺構と伝承[編集]
現存する遺構としては、に寄託されている「潮目札」が著名である。これは木札に方角と潮位を刻んだもので、遠征船の接岸時刻を記した最古級の資料とされるが、裏面に「豆腐二丁」と読める墨書があり、兵糧票ではないかともいわれる。
また、鎌倉周辺では、侵攻を免れた家々が軒先に小石を三個並べる習俗を持った。民俗学者のはこれを「三石避潮」と命名したが、地元では単に猫よけの知恵として説明されることも多い。
さらにには、敵船の来襲日ごとに風向きを記録する「風日帳」が残っている。これは毎月の天候手帳を転用しただけである可能性があるものの、侵攻の記憶が地域の記録文化を生んだ例として重要である。
経済と技術[編集]
本件は、単なる軍事衝突にとどまらず、の港湾技術を一変させた。、、の三技法が標準化され、特に油火矢はの菜種流通を押し上げたとされる[10]。ただし、火矢の大半は実戦よりも演習で消費されたため、結果として武士団は「燃やすこと」より「燃やすための会議」に熟練したとも評される。
また、補給の必要から馬よりもを重視する思想が生まれ、瀬戸内海の造船集団が幕府直轄に近い扱いを受けた。これにより、のちの水軍編成に見られる「左右非対称の櫂配置」が成立したとする説がある。もっとも、これは船大工が左右の長さを間違えた結果であるともいわれる。
脚注[編集]
[1] 山内誠『海から来た封建制』中公新書、1998年、pp. 41-58. [2] R. T. Holloway, *Ports, Horses, and Thunder: Maritime Japan in the Thirteenth Century*, East Gate Press, 2006, Vol. 2, pp. 113-129. [3] 佐伯友宏「鎌倉期港湾警備の成立」『東洋史研究』第54巻第3号、2001年、pp. 201-225. [4] 静岡海防史研究所編『相模湾の誤読史料』、2022年、pp. 9-17. [5] 杉村礼子「烽火制の実務と儀礼」『武家社会史叢考』第11号、2014年、pp. 77-92. [6] J. M. Fenton, *The Fallen Fence of Hakata*, North Sea Historical Review, Vol. 18, No. 4, 2011, pp. 44-61. [7] 高橋洸『恩賞経済の再編』吉川弘文館、2016年、pp. 130-149. [8] 本多省吾『沿岸烽火考』岩波書店、1937年、pp. 5-28. [9] 小泉信輔「博多湾戦闘記録の再検討」『史学雑誌』第18巻第7号、1899年、pp. 1-19. [10] A. P. Mercer, *Oil Arrows and Civic Supply in Early Japan*, Cambridge Harbor Studies, 2018, pp. 88-104.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山内誠『海から来た封建制』中公新書、1998年。
- ^ 佐伯友宏「鎌倉期港湾警備の成立」『東洋史研究』第54巻第3号、2001年、pp. 201-225.
- ^ 杉村礼子「烽火制の実務と儀礼」『武家社会史叢考』第11号、2014年、pp. 77-92.
- ^ 高橋洸『恩賞経済の再編』吉川弘文館、2016年。
- ^ 本多省吾『沿岸烽火考』岩波書店、1937年。
- ^ R. T. Holloway, Ports, Horses, and Thunder: Maritime Japan in the Thirteenth Century, East Gate Press, 2006.
- ^ J. M. Fenton, The Fallen Fence of Hakata, North Sea Historical Review, Vol. 18, No. 4, 2011, pp. 44-61.
- ^ 小泉信輔「博多湾戦闘記録の再検討」『史学雑誌』第18巻第7号、1899年、pp. 1-19.
- ^ 静岡海防史研究所編『相模湾の誤読史料』、2022年。
- ^ A. P. Mercer, Oil Arrows and Civic Supply in Early Japan, Cambridge Harbor Studies, 2018.
- ^ 片桐佳代『三石避潮の民俗誌』港湾文化社、2009年。
外部リンク
- 鎌倉海防史データベース
- 博多湾古地図アーカイブ
- 東洋沿岸戦史学会
- 筥崎宮文書調査室
- 静岡海防史研究所