陰陽庁長官呪殺未遂事件
| 発生時期 | 1978年10月中旬ごろ |
|---|---|
| 発生場所 | 東京都千代田区永田町周辺 |
| 標的 | 陰陽庁長官・榊原宗一 |
| 関与組織 | 陰陽庁、内閣官房式典調整室、東都呪術研究会 |
| 結果 | 呪殺未遂、関係者7名が事情聴取 |
| 主な論点 | 式札の真偽、護符郵送の監視体制 |
| 通称 | 永田町護符投函事件 |
| 影響 | 庁舎入口の結界強化、夜間の方位盤点検義務化 |
陰陽庁長官呪殺未遂事件(おんみょうちょうちょうかんじゅさつみすいじけん)は、昭和後期に東京都で発生したとされる、長官に対する呪殺を目的とした未遂事件である[1]。事件後、内閣官房との間で「呪式監査」の所管をめぐる協議が行われたと伝えられている[2]。
概要[編集]
陰陽庁長官呪殺未遂事件は、の長官に対して送付された複数の式札と封呪文書が、公式行事の直前に発見された事件である。のちに警視庁と庁内調査班が共同で調べた結果、発信元は千代田区内の私書箱と都内の古書店二店舗に分散していたことが判明したとされる[1]。
この事件は、単なる脅迫としてではなく、昭和期の官庁文化と民間呪術研究の接点を示す事例として扱われることが多い。また、呪殺の成否を「対象者の体調変化」「秘書の席替え」「雨天時の封筒湿潤率」で判定する独特の運用が後年の行政文書に残された点でも知られている[2]。
事件の背景[編集]
は、戦後に再編された内閣府外局の一つで、式典監修、祭祀用具の認可、ならびに災厄方位の暦示作成を所掌していたとされる。もっとも、庁内では旧系の儀礼実務と、民間の陰陽師系団体を統合する際の経緯が曖昧で、各部局ごとに結界の作法が異なっていたという[3]。
事件前の1970年代後半には、全国で「簡易呪式」をうたう講習会が急増し、神田神保町や大阪市の古書市では、写本の余白に独自の封緘印を押した偽古文書が出回っていた。こうした状況の中、長官であったが「庁の威信を保つため、公開式で結界運用を説明する」と発言したことが、関係者の反発を招いたとされる[4]。
経緯[編集]
第一封書の到着[編集]
事件は10月18日、東京都千代田区霞が関の庁舎宛てに届いた黒和紙の封書から始まった。封書には「長官席の西南に三度息を吹きかけよ」という文言と、墨で描かれた九つの小円が記されており、受付担当は当初、年末式典の進行表の一部と誤認したという。封の糊には奈良県産と称する乾燥鹿角粉が混ぜられていたが、後日の鑑定では実際には魚骨灰と米粉の混合物であったことが判明した[5]。
呪式監査班の設置[編集]
封書の発見を受け、から二名、警視庁公安部から四名、さらにの鑑定員一名が招かれ、臨時の呪式監査班が組織された。監査班は、文書が単なる嫌がらせか、あるいは「対象者の不在時間を狙って災厄を回送する」類の実践かを見極めるため、封書の筆圧、方位盤の傷、ならびに投函時刻の潮位まで検証したとされる。
この検証のなかで、封書の文字が神奈川県鎌倉市の古筆系サークルで使われる癖字と一致したことが確認され、翌週には同市内の貸本店で大量の「反転式札」が押収された。もっとも、押収物の半数は劇団用の小道具で、残りも大半は空欄の帳面であったため、事件性の判断は一時保留となった。
庁舎前での未遂[編集]
最も注目されたのは、の午前7時40分ごろ、長官車両の到着に先立って庁舎前の植え込みから見つかった白木札である。札は長さ18センチ、幅3.2センチで、表面に「以呪返呪」と読める四字が朱で書かれていた。これを撤去した庁務員が、その直後に階段で滑って軽い捻挫を負ったため、庁内では一時「反呪が跳ね返った」と騒がれたが、警備記録では単に前夜の降雨で石材が濡れていたとされる[6]。
その後、長官の執務室に届けられたコーヒー缶の底から細巻きの紙片が見つかり、紙片には北辰図を逆回転させたような記号が記されていた。ところが長官本人は事件当日、午後の会議を欠席した理由を「胃薬を飲み忘れたため」と説明しており、呪殺の成否をめぐる評価は現在も分かれている。
関係者[編集]
事件に直接関与したとされる人物としては、呪具販売業を営んでいた、書写代行を請け負っていた、そして庁内の印刷室に勤務していた非常勤職員の3名が中心に挙げられる。東雲は後年の供述で「呪詛ではなく抗議文のつもりだった」と述べた一方、高瀬は「依頼書の『長官席』を『長官跡』と読み違えた」と説明したという[7]。
なお、事件当時に長官秘書を務めていたは、封書の封蝋に使われた朱印が庁内保管の「冬至式」印鑑に酷似していることを指摘し、庁内犯行説を唱えた。ただし、印鑑台帳には同型が13個存在しており、どれが使用されたかは確定していない。
社会的影響[編集]
事件後、では庁舎入口の結界更新、郵便物の方位別仕分け、ならびに「夜間の紙類持込申請書」の提出が義務化された。また、庁内放送で流される時報には、毎時0分に短い鈴音が追加され、これが「呪返しの予防音」として定着したとされる[8]。
一方で、民間の呪術講座は事件を契機に一段と盛況となった。特に京都市の老舗文具店では、事件後3か月のあいだに「逆方位用方眼紙」の売上が前年同月比で214%増加し、講師側が供給不足を理由に受講者へ「各自で八つ折りにして持参すること」と通達した記録が残る。この現象は、行政上の危機がそのまま民間儀礼の市場拡大に転化した例として引用されることが多い。
批判と論争[編集]
事件の実在性をめぐっては、当初から懐疑的な見解も強かった。とりわけ警視庁の内部資料において「被害が物理的損傷に至っていない以上、宗教的嫌がらせとして整理すべき」とする意見があり、側も「呪詛概念の行政認定は困難である」として、事件名の採用に消極的であった[9]。
ただし、1984年に公開された陰陽庁の年報では、該当期間の「結界補修費」が通常の約7倍に跳ね上がっており、これを根拠に事件の存在を肯定する研究者もいる。なお、年報の付録にはなぜか『庁内で飼育されていた鯉の不眠症』に関する記述が2ページ分含まれており、資料全体の信頼性をさらに曖昧にしている。
歴史[編集]
前史[編集]
事件の前史としては、明治末から続く「官庁陰陽学」の系譜があるとされる。これは、東京帝国大学の暦学研究者と旧家の陰陽師が合同で編纂した『方位実務便覧』を起点とするもので、昭和期にはの倉庫管理やの事故防止標語にも応用されたという[10]。
事件後の制度化[編集]
事件後、には「呪式文書管理要領」が庁内通達として発出され、封緘印の色は朱・藍・煤竹の三色に限定された。また、長官室の机は東北東向きに固定され、来客は入室前に3秒間だけ手を合わせることが推奨された。これらの措置は後にの文書管理要領に吸収され、半ば形骸化しつつも現在まで続いているとされる。
脚注[編集]
脚注
- ^ 榊原宗一『式札監査と庁務運用』東都行政文化社, 1981年.
- ^ 藤堂静香「昭和末期における陰陽庁の郵送呪式管理」『日本官庁史研究』第14巻第2号, 1992年, pp. 44-68.
- ^ Harold P. Winthrop, "Curse-Management Bureaucracy in Postwar Japan," Journal of Esoteric Administration, Vol. 8, No. 3, 1996, pp. 201-229.
- ^ 高瀬ミチ子『反転式札の書写技法』神保町民俗出版, 1980年.
- ^ 内閣官房式典調整室編『呪式監査班報告書 第3集』官報附録刊行会, 1979年.
- ^ 東雲義三「封蝋材の魚骨灰混入に関する一考察」『東都呪術学会誌』第22巻第1号, 1983年, pp. 11-39.
- ^ Margaret A. Thornton, Ritual Risk and the Modern Ministry, Cambridge Esoteric Press, 2001, pp. 90-117.
- ^ 『陰陽庁年報 昭和54年度』陰陽庁総務部, 1980年.
- ^ 宮原徹『庁舎植え込みにおける白木札の風圧解析』北辰書房, 1985年.
- ^ 田口一彦『官庁の結界はなぜ壊れるのか』文化儀礼新書, 2004年.
外部リンク
- 陰陽庁文書館
- 永田町怪異史アーカイブ
- 東都呪術研究会資料室
- 官庁結界統計年鑑
- 昭和式札デジタル図書館