高飛びじゃんけん
| 起源 | 1958年頃、東京都立体育教育試験場 |
|---|---|
| 考案者 | 小林修三(体育測定官)と鵜飼澄江(補助指導員) |
| 競技人数 | 2人から6人 |
| 主な用具 | 床線、判定旗、測高棒 |
| 主催団体 | 全国高飛びじゃんけん連盟 |
| 公式大会 | 全国選抜高飛びじゃんけん大会 |
| 特徴 | 勝敗よりも跳躍姿勢の一致率が重視される |
| 別名 | 空中手型、ジャンプ・じゃんけん |
高飛びじゃんけん(たかとびじゃんけん、英: High-Jump Janken)は、の学校体育研究会を起点に広まったとされる、跳躍とを組み合わせた反射競技である。相手の手型を見て跳ぶ高さを瞬時に決める競技として知られている[1]。
概要[編集]
高飛びじゃんけんは、の勝敗を、単なる手の優劣ではなく、跳躍の到達点と着地姿勢で判定する競技である。一般には三本の床線のいずれかを踏み越えた位置で勝敗が決まるが、上級者の間では「空中での遅延勝ち」が重要視される。
この競技は、30年代後半の学校体育改革のなかで、児童の瞬発力と協調性を同時に測る目的で考案されたとされる。もっとも、当初の記録は散逸しており、の内部報告書に見える「試作的手遊跳躍法」という語が後に高飛びじゃんけんへ転化したという説もある[1]。
歴史[編集]
起源と試験導入[編集]
1958年、で行われた冬季実験授業において、小林修三は「反射判断は足の裏に出る」と述べ、とともに、じゃんけんの結果に応じて一定高さを跳ぶ方法を試したとされる。最初は平均踏切高が47センチに満たず、児童の半数以上が床線をまたぐ前に笑ってしまったという。
翌年、のモデル校に導入され、当時の教諭日誌には「勝った者ほど大きく跳ぶため授業が妙に静かになる」と記されていた。なお、ここでいう静かさは集中ではなく、息切れによるものであったとされる。
競技化と連盟の成立[編集]
1964年、を背景に「日本的な即応性を可視化する競技」として注目を集め、翌1965年にはが設立された。初代理事長のは、陸上競技と遊戯の中間に位置する「半体育」の概念を提唱し、公式規則第3条に「勝者は必ず一歩分、敗者よりも沈黙が長いこと」と書き加えたとされる[2]。
1968年の第1回全国選抜大会はではなく、なぜかの体育館で開催され、観客席の幅が足りず、審判団の半数が跳躍線の外で判定した。これが後に「外線審判方式」として制度化されたことは有名である。
普及と地域差[編集]
1970年代にはからまで広まり、地域ごとに跳び方の文化差が生まれた。たとえばでは雪上での低重心型が発達し、では掛け声が長くなりすぎて判定が1拍ずれる傾向があったという。
特にの学童クラブでは、勝敗判定の前に助走を2歩入れる「準備じゃんけん」が流行し、これを巡って連盟と教育委員会が約3年にわたり協議した。結果として、助走の長さは1.5歩までとする暫定措置が採られたが、1.5歩をどう測るかで再び揉めたとされる。
競技規則[編集]
高飛びじゃんけんでは、通常のと異なり、手の形だけでなく跳躍の「意図」が審判の採点対象になる。審判は、勝敗とは別に「跳躍志向」「着地の整合性」「ためらいの少なさ」の3項目を各10点満点で評価する。
公式規則によれば、あいこが3回続いた場合は「空中再交渉」に入り、対戦者は最も高く跳べる手を再提出しなければならない。ただし、1973年改訂版では、6回連続あいこの場合に限り、審判が静かに帽子を外して再開合図とするという、きわめて日本的な救済策が追加された。
また、足元の線を越えた瞬間に手型が崩れても、上半身が「説得力のある前傾」を保っていれば有効とされた。これは一見合理的であるが、実際には「説得力」の定義が曖昧なため、地方大会ではしばしば判定会議が長引いた[3]。
大会と著名選手[編集]
全国選抜大会[編集]
全国選抜大会は毎年の県立総合体育館で行われ、1978年からは参加者の靴底の摩耗量も記録されるようになった。1982年大会では、代表の鈴木仁美が、決勝で5連続「パー跳び」を成功させ、当時の最高記録である1分12秒18の連続判定勝ちを収めた。
この記録は現在でも破られていないが、後年の映像検証により、最後の1回は実際には片足が線を踏んでいた可能性があると指摘されている。大会側は「映像は着地を写しているが、魂の跳躍は写していない」として記録を維持した。
伝説的な対戦[編集]
1989年、で行われた東西対抗戦では、の古川康夫との渡瀬香が、17分34秒にわたり一度も着地の優劣がつかないまま攻防を続けた。審判長は「両者とも跳びすぎている」と述べ、試合は双方優勝となった。
この試合を契機に、観客の間では「高く跳ぶほど負けないが、いつか帰れなくなる」という格言が広まった。なお、古川は試合後に階段を降りる動作でも同じ姿勢を保ち続け、記者から「競技生活が日常へ侵食した例」と評された。
社会的影響[編集]
高飛びじゃんけんは、単なる学校遊戯にとどまらず、企業研修や地域イベントにも応用された。にはの安全講習で「危険予測の一瞬判断」を学ぶ教材として採用され、参加者の緊張が過剰に高まり、昼食時の揚げ物消費量が増えたという。
また、内の一部小学校では、算数の時間に「勝ったら+1、負けたら-1、あいこならその場で静止」という独自の加算法が導入され、協調学習の成功例として紹介された。ただし、実際には静止できずに机ごと跳ねる児童が続出し、後に教材が差し替えられた[4]。
批判と論争[編集]
一方で、高飛びじゃんけんは「勝敗より身体能力が強く出るため、遊戯としての平等性を損なう」と批判されてきた。特にのでは、三段跳び経験者が無双しすぎることから、競技の存立意義そのものが議論された。
これに対し連盟側は、「本競技は結果の平等ではなく、躊躇の平等を保障する」と反論した。しかし、地方審判のなかには、この理念を都合よく解釈し、勝者にだけ追加助走を認めるケースもあったとされる。要出典。
さらに、1991年にはの中学校で、空中での手型変更を認める「変則高飛び方式」が試験導入され、保護者から「結局何をしているのか分からない」との苦情が寄せられた。連盟は当初これを「競技の成熟」と説明したが、後に「審判が疲れていた」と認めている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小林修三『跳躍と手型の相関に関する試行報告』東京都体育教育研究所紀要 第12巻第3号, 1960, pp. 41-58.
- ^ 鵜飼澄江『児童遊戯における瞬発評価の導入』日本学校保健学会誌 Vol. 8, No. 2, 1961, pp. 103-119.
- ^ 三輪辰雄『半体育の理論と実践』体育新書、1966.
- ^ 全国高飛びじゃんけん連盟編『公式競技規則 第4版』連盟出版局, 1973.
- ^ H. Tanaka, “Jump-Decision Games in Postwar Japan,” Journal of Recreational Studies, Vol. 14, No. 1, 1979, pp. 22-39.
- ^ 鈴木仁美『連続判定勝ちの心理的負荷』スポーツ行動学研究 第21巻第4号, 1983, pp. 77-91.
- ^ M. A. Thornton, “The Aerial Gesture and the Ethics of Play,” Cambridge Review of Physical Culture, Vol. 6, No. 3, 1988, pp. 201-214.
- ^ 古川康夫『高く跳ぶ者は帰り道を失う』大阪体育評論社, 1990.
- ^ 東京都学校体育史編纂委員会『昭和後期の遊戯改革』東京都教育委員会, 1994, pp. 155-168.
- ^ 全国学校体育研究大会講演録『高飛びじゃんけんの教育的可能性と不可解性』、1987, pp. 9-27.
外部リンク
- 全国高飛びじゃんけん連盟公式記録庫
- 学校体育アーカイブス
- 昭和遊戯史データベース
- 外線審判研究センター
- 高飛びじゃんけん競技規程集