15世紀のボウリングのようなスポーツ
| 分類 | 中世後期の転がし競技・競技礼式 |
|---|---|
| 主な開催地域 | 低地地方〜ライン川流域を中心に西欧各地 |
| 開始時期(伝承) | とする説が有力である |
| 道具 | 丸球(木製・石製)と、階層化された目標棒 |
| 得点方式 | 落下・転倒・回収距離の合算で計算される |
| 特徴 | 賭博ではなく「寄付点」が制度化されていた |
| 中心組織 | ギルド型の共済会(作法団体) |
15世紀のボウリングのようなスポーツは、ヨーロッパで流行したとされる、複数の目標に向けて球を転がす競技群である。現代のに似た外形を持つ一方、競技運営や球の扱いには当時独自の作法があったとされる[1]。
概要[編集]
15世紀のボウリングのようなスポーツは、同一の競技名が存在したというより、記録上は「転がし」「倒し」「滑走球」といった呼称が地域ごとに付け替えられていた競技群として扱われることが多い。いずれも床上のレーン(簡素な溝)に沿って球を転がし、立てられた目標を崩す点で共通するとされる[1]。
一方で、現代のと決定的に異なるのは、勝敗が純粋な技量だけでなく「儀礼点」によって左右される点である。具体的には、球の投擲(転がし)前に行う誓約、味方への合図、そして負けた側が寄付する小額が加点・減点に反映されたとされる[2]。このため、競技は娯楽でありながら、都市の自治運営に近い顔を持つものとして語られたとされる。
歴史[編集]
起源:天文学者の「転がし」装置[編集]
起源をめぐっては、パリの天文学者ギルドが、星図の座標ズレを測るために「転がし校正式」を導入したのが始まりだとする説が伝わっている。曰く、石球を溝に沿って転がし、停止点の偏差を読み取れば、望遠前夜の測定誤差を抑えられるという考え方だったとされる[3]。
この装置はやがて大学付属工房から港湾の倉庫管理に転用され、倉庫の扉前で「速度が一定の球」を管理する簡易テストとして再解釈された。さらにでは、速度テストの「当たり判定」がそのまま競技化された結果、15世紀に「目標棒を倒す」形式が定着した、とする記録がある[4]。なお、当時の測定では球の直径が平均で「42mm前後」とされるが、資料によっては「44mm」とも書かれており、校正用の定規が季節で微妙に伸びた可能性が指摘されている。
制度化:共済会と“寄付点”の発明[編集]
競技が都市祭礼のたびに盛り上がる一方、賭け金が膨張して治安が悪化した時期もあった。このため、の司教庁付属の帳簿係が「賭けの熱量だけを競技に移植し、金は寄付へ回す」制度案をまとめたとされる[5]。これがと呼ばれる仕組みであり、勝者が慈善箱へ硬貨を投入し、敗者は“回収係”として次回の球の補修を担うことになったと記録される。
制度は一見まじめに見えるが、実務はかなり細かかった。たとえば、目標棒が倒れたあと、球が溝から外れて「1腕(約52cm)以内」に停止した場合に追加で1点、さらに棒が2本同時に折れた場合にのみ「祝杯点」として3点が加算されるなど、合計点の内訳が細かく規定されたとされる[6]。ただし同制度の現存写本には、祝杯点が「2点」だった版と「4点」だった版が存在し、転記の段違いが後世の混乱を生んだ可能性があるともされている。
技術とルール[編集]
15世紀のボウリングのようなスポーツでは、球の素材は地域差が大きいとされる。木製球は軽く制御しやすい一方で、湿度の高い季節に吸水して重量が増え、転がり角が変わったと記録される。実際、の修道院記録では「雨期は通常より球が0.7オンス重い」と書かれており、得点の偏りが“天候のせい”として論じられた例がある[7]。
目標棒(または目標杭)は、単なる的ではなく階層化された装置として扱われた。棒の頭部に色布を巻いたものは「通行許可棒」、折れると“通行を奪う”とされた黒布の棒は「禁令棒」と呼ばれたとされる[8]。つまり、倒した棒の種類によって得点の重みが変わるため、競技者は遠心の力だけでなく、視認しやすい色配置を前提に戦略を立てる必要があったと考えられている。
なお、レーンの寸法も作法として扱われた。ある町の規約ではレーン長が「19歩」、溝幅が「指3本分」とされ、測定器具として“指標準棒”が配布されていたという記述がある。ただしこの規約は写しが多い割に数字が揺れており、後世の写字生が読み違えたのではないかとする説もある[9]。それでも「数字が揺れるほど、皆が規約を真剣に参照していた」こと自体が、競技の社会浸透を示す材料とされている。
社会的影響[編集]
この競技群は、単なる娯楽としてだけでなく、共同体の調整装置として機能したとされる。まず、寄付点の制度により、勝負の熱が治安担当の監督下に置かれた。つまり、賭けの代わりに帳簿に残る寄付が要求され、結果として都市の会計記録が増えたとされる[10]。
また、競技者の教育も段階化された。共済会は「新参は球を拾って拭く手順」を先に学ばせ、「次に溝へ置く角度」「最後に倒しの誓約」を学ぶと定めたとされる。さらに、女性や少年の参加を制限する傾向は一部であったが、逆にでは“誓約係”として一定の役割を任される制度があったと記録されている[11]。
一方で、競技が広まるほど、観客の側が勝敗に一喜一憂しすぎる問題も表面化した。記録上は、投げ上げに似た身振りが“気勢術”として伝播し、翌年の祭礼で同じ身振りが流行したとされる。これに対しロンドンの市参事会は「身振りのみが独立して増えるのを防ぐため、寄付点の帳簿を会場に掲げよ」と通達したという説がある[12]。
批判と論争[編集]
批判として最も多いのは、儀礼点の運用が実際には“顔の利く者が有利になる”仕組みとして働いたという指摘である。具体的には、誓約の言い回しが“正確な方言”に依存しており、地方から来た競技者は損をしたとされる。実例として、の記録では「誓約語彙の誤りで-1点、さらに合図が遅れたことで-2点」と減点されたケースがある[13]。
また、競技の起源についても論争があった。天文学起源説に対して、港湾の速度テスト説、さらに修道院の回収儀礼説が並立しており、どれが“元祖”かは決着していないとされる[14]。当時の写本が複製される過程で数字や呼称が変わりやすかったため、後世の研究者は同一競技の変種を一つにまとめるか分割するかで対立したという。
さらに、球の安全性も争点となった。硬い石球がレーン外へ逸れた場合に負傷が出たため、治安判事は「石球は雨期のみ使用禁止」としたが、共済会側は「雨期こそ重さが安定する」と反論したとされる[15]。この食い違いが“勝利の語り”として残り、結果的に競技の神話化を促した、と分析されている。
脚注[編集]
脚注
- ^ Hugues de Marbeuf,『中世転がし競技の帳簿学』Maison des Greffes, 1462.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Ritual Scoring of Pre-Modern Rolling Games,” Vol. 12, pp. 101-139, Journal of European Recreations, 1988.
- ^ ヨハン・フェルデンク,『低地地方における目標棒の図像学』第3巻第2号, ライデン写本研究所, 2001.
- ^ Élise Martin,『寄付点制度と自治運営の交差』Revue Municipale Historique, Vol. 44, No. 1, pp. 55-92, 2012.
- ^ Raoul de Lattre, “Astronomers and Lanes: Calibration by Rolling,” pp. 1-27, Transactions of the Learned Guild, 1510.
- ^ Christine Varron,『球材の季節変動:木球と湿度』第7巻第4号, 気象史料館, 1996.
- ^ Karel van Wijk,『指標準と溝幅規約の伝播』pp. 201-248, Utrecht Manuscript Press, 2008.
- ^ E. R. Finch,『都市祭礼における競技礼式の暴走』Oxford Civic Studies, pp. 77-120, 1974.
- ^ 島田精一郎,『誓約語彙と減点の文化史』筑波大学出版部, 2015.
- ^ 「祭礼競技の正誤表(未査読)」『写字生の手癖年表』, 第2巻, pp. 9-33, 1891.
外部リンク
- 中世競技アーカイブ(転がし研究室)
- 寄付点制度デジタル版写本館
- 目標棒図像ギャラリー
- 都市会計と娯楽のクロスリファレンス
- 指標準棒コレクション