3対のシンバルによる協奏曲
| ジャンル | 協奏曲、儀礼音楽 |
|---|---|
| 成立 | 1779年頃 |
| 起源 | ウィーン宮廷打楽調整局の試験事業 |
| 主奏楽器 | シンバル6枚(3対) |
| 標準編成 | 独奏シンバル奏者1、弦五部、木管2、金管控えめ |
| 演奏時間 | 約19分から27分 |
| 初演 | 1780年5月14日、ウィーン近郊ショーンブルン離宮 |
| 関連制度 | 帝室祝祭楽譜登録簿 |
3対のシンバルによる協奏曲は、ので成立したとされる、を主役に据えた管弦楽曲の一形式である。の宮廷儀礼と軍楽の接点から生まれ、のちにの祝祭音楽へも影響したとされる[1]。
概要[編集]
3対のシンバルによる協奏曲は、独奏者が3組のシンバルを持ち替えながら、旋律的というよりは色彩的な対話を行うことを特徴とする作品群である。通常の協奏曲と異なり、楽器の高低差ではなく、金属板の厚み、打点、共鳴の残響時間によって楽章の推進力が設計される。
この形式は期の宮廷で、軍楽隊の整列音と劇場音楽の華やかさを両立させるために考案されたとされる。現存する最古の写本はの「M-77/CY」群に含まれるが、番号体系が後世の整理で混線しており、研究者の間では「そもそも1作品なのか3作品なのか」でしばしば議論になっている[2]。
成立史[編集]
宮廷打楽調整局の試験事業[編集]
末、ウィーン宮廷では祝祭行列の騒音が増大し、が「金属打楽器の秩序化」を命じたとされる。これに応じたのが、楽長補佐のと工房監督である。両名は、通常の2枚組では音の尾が過剰に重なるとして、厚みの異なる3対を段階的に使う案を提出した。
最初の試演では、楽員12名が一斉に耳栓を外した直後に第2楽章が始まってしまい、宮廷侍従の2名が「歓喜と事故の境目が分からない」と記したという逸話が残る。なお、この記録はの再編時に書き換えられた可能性があるとされている[3]。
初演と失敗した再演[編集]
初演は、の西翼舞踏室で行われた。独奏者は宮廷軍楽隊出身ので、彼は右手に重厚な外輪、左手に薄型の内輪、さらに足元の踏板で第3対を鳴らす特殊台を用いたとされる。観客は最初こそ熱狂したが、終楽章で3対すべてを同時に鳴らす箇所に差しかかると、窓ガラスが8枚割れ、犬が4匹退席したという。
再演はで試みられたが、地元の楽師会が「金属の数が軍律に反する」と抗議したため、代わりに鈴付きの木枠が使われた。この折衷版は評判が悪く、のちに「協奏曲ではなく検査用騒音」と酷評された。もっとも、の一部教会では鐘と併用するために編曲され、意外にも儀礼音楽として定着したという[4]。
楽器改良と工房の競争[編集]
3対のシンバルを成立させるには、厚みの異なる金属板を安定して製造する必要があり、との工房が競争した。とくには、黄銅に少量の銀を混ぜることで残響を短くする「白残響合金」を開発したとされ、この合金はのちに礼拝堂用の小型シンバルにも転用された。
一方で、工房間の競争は過熱し、1786年には「第3対が鳴る前に第1対の音が消えるべきか」をめぐって実演論争が起こった。文献上は音響学の問題に見えるが、実際には納入契約の優先順位を争う商業紛争であったとする説が有力である[5]。
楽曲構造[編集]
標準的な3対のシンバルによる協奏曲は、3楽章または4楽章から成る。第1楽章は「呼び出し」、第2楽章は「反射」、終楽章は「解放」と呼ばれ、いずれも旋律よりも打点の間隔が重要であるとされる。
独奏者は3対をそれぞれ「朝」「昼」「夜」とみなして扱うことが多く、朝用の薄型ペアは繊細な連打に、昼用の中厚ペアは行進的な主題に、夜用の重厚ペアはクライマックスに用いられる。この区分は初頭の理論家が提唱したが、彼自身はシンバルをほとんど演奏できず、実演は常に助手任せであったと伝えられる。
なお、極端に長い余韻を避けるため、演奏会場には吸音布を3層にして吊るす慣習がある。これは後の劇場の「天幕補助規格」にも影響したとされるが、資料の多くは舞台監督の私記であり、学術的裏付けは薄い。
代表的作曲者[編集]
フランツ・ヴァイグル[編集]
は、この形式の「実質的な創始者」とされる宮廷作曲家である。彼の《第1番 ニ短調》は、シンバル6枚に加えて低弦が拍手のように鳴る箇所があり、当時の聴衆はそれを楽譜の誤植と勘違いしたという。
晩年のヴァイグルは、シンバルの打点を記した譜面を「食器棚の設計図」と呼ばれたことに怒り、2週間ほど筆を置いたとされる。もっとも、その間に彼は3対目の鳴りを示すための色分け記譜法を完成させたため、逆に作品数は増えた。
クララ・ニールセン[編集]
は出身の指揮者兼編曲家で、に《海峡の協奏曲》を上演したことで知られる。彼女はシンバルを3対から5対に拡張し、港湾の霧笛を模した導入を加えたため、港の係留業務が30分ほど中断したという記録がある。
ニールセン版は、女性が金属打楽器の大音量を統率した初期例として後年の音楽史でしばしば言及されたが、同時代の批評家の多くは「編成が気質に勝っている」とだけ書き残した。
東欧への伝播[編集]
になると、形式はの劇場楽団やの軍楽隊に移植され、祝祭・行進・婚礼の境界を曖昧にしていった。とくにの試験曲として用いられた版では、受験生が3対のうち1対しか鳴らせなかった場合でも部分合格とされ、試験官が「情熱の不足ではなく手袋の厚みの問題」と書き添えている。
この普及により、3対のシンバルによる協奏曲は純粋な宮廷芸術から、地域共同体の儀礼音楽へと性格を変えた。結果として、同一作品でありながら都市ごとにテンポと打ち方が異なるという、きわめて扱いにくいジャンルになった。
社会的影響[編集]
この作品群は、の祝祭文化における「音の権威」を可視化したとされる。金属音は軍事、国家、祝宴のすべてを連想させたため、貴族は自邸の晩餐会に小型版を注文し、都市中流層は模造真鍮版を用いて流行を追った。
また、末の都市騒音対策において、3対のシンバルによる協奏曲は逆説的な参照例となった。役所の騒音測定員が「この演奏に耐えられる距離」を基準に広場の許容音量を決めたという記録があり、の一部地区では実測値が法律文にそのまま転用された[6]。
一方で、音楽教育においては、「最初に鳴らすのは勇気ではなく重心である」という指導法が普及した。これは後に打楽器全般の身体訓練へ応用され、の学校音楽で姿勢矯正教材としても用いられたとされる。
批判と論争[編集]
批判の多くは、作品そのものよりも演奏条件の過酷さに向けられた。とりわけの公演では、3対目のシンバル担当者が楽譜を見失い、代わりに拍子木で代用したため、新聞は「協奏曲の自己否定」と報じた。
また、真偽不明の逸話として、ある批評家が「この曲は耳ではなく行政文書で聴くべきである」と述べたと伝えられている。この一文は後世の引用で有名になったが、出典は新聞切り抜き1枚しかなく、研究者の間ではの常連である。
20世紀には、シンバル奏者の労働安全をめぐって論争が起きた。特に《第3対の打撃後に左手が震える》という訴えがに提出され、これを受けてリハーサルは1日3回までとする内規が作られたという。もっとも、その内規は後に「熱意の冷却を防ぐため」として形骸化した。
現代での扱い[編集]
現代では、3対のシンバルによる協奏曲は古楽祭、軍楽祭、そして金属工芸展で散発的に演奏される。とくにの夏季講習では、学生がシンバル6枚を同時に配置する訓練を受けるが、初日で3割が手袋の擦過音に気を取られるという。
また、以降は録音技術の進歩により、3対のシンバルの微細な減衰差を比較する研究が増えた。これにより「同じ作品でもホールの湿度で別物になる」という従来の主張が再評価されたが、一部の研究者は「再評価というより、昔から誰も測っていなかっただけである」と冷淡に述べている。
なお、一般向けの演奏会では第2対までしか用いない簡略版も流通しているが、愛好家からは「3対目が鳴らない協奏曲は、署名欄のない契約書に等しい」と批判されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Heinrich, Otto. "The Triple Cymbal Concerto and Imperial Ceremony" Journal of Austro-Musical Studies, Vol. 12, No. 3, 1968, pp. 145-172.
- ^ 佐伯 恒一『帝室打楽器史稿』音楽史研究会, 1974.
- ^ Margaret L. Thornton. "Resonance Hierarchies in Late Habsburg Court Music" The Musical Antiquarian Review, Vol. 41, No. 2, 1991, pp. 33-59.
- ^ ヴァイグル, フランツ『三対の鳴り分けに関する覚書』ウィーン宮廷写本室, 1781.
- ^ Nikolai Petrovic. "Cymbals, Noise, and the City Ordinance" Balkan Sound Quarterly, Vol. 8, No. 1, 2004, pp. 11-28.
- ^ 小倉 みどり『協奏曲の身体技法』東京音楽出版, 2008.
- ^ Émile Renaud. "From Martial Brass to Domestic Brass: The Social Life of Cymbals" Revue Européenne de Musique, Vol. 17, No. 4, 1979, pp. 201-230.
- ^ 田辺 恒一『ウィーン宮廷楽務局文書群目録』国立音楽資料館, 1989.
- ^ Clara Nielsen. "On the Fifth Pair and the Harbor Fog" Nordic Performance Papers, Vol. 5, No. 2, 1849, pp. 7-19.
- ^ 石川 透『金属音の行政利用史』地方自治史料叢書, 2016.
外部リンク
- 帝室祝祭楽譜登録簿デジタルアーカイブ
- ウィーン宮廷打楽研究所
- バルカン儀礼音楽資料館
- 金属響きの友の会
- ショーンブルン音楽史便覧