55レンジャー
| 正式名称 | 第五十五即応連携隊 |
|---|---|
| 通称 | 55レンジャー |
| 創設 | 1974年ごろ |
| 管轄 | 防衛庁通信試験班・後に自治省防災調整室 |
| 本拠 | 神奈川県相模原市・旧陸上通信演習区画 |
| 任務 | 山岳救難、災害通信、要人移送補助 |
| 標語 | 五つ揃えば、道は通る |
| 隊服 | 橙色の防火外套と55本の反射帯 |
| 活動期間 | 1974年 - 1993年 |
| 略称 | 55R |
55レンジャー(ごじゅうごレンジャー)は、昭和後期にの通信試験班から派生したとされる、五系統・五重連携の即応部隊である。もとは山岳救難と無線中継を兼ねた臨時編成であったが、のちに民間防災や観光警備にも転用され、独特の制服文化を生んだとされる[1]。
概要[編集]
55レンジャーは、神奈川県相模原市の旧通信演習区画で構想されたとされる、少人数・多機能型の即応組織である。名称の「55」は隊員数ではなく、無線周波数帯・装備区分・補給経路の三つを五段階に束ねた内部方式に由来するとされる[2]。
一般にはの特殊部隊として語られることが多いが、実際には系の防災実験、観光地の夜間導線整理、臨時の橋梁監視などにも投入されたとされる。なお、初期資料の一部には「第五十六班」と誤記されたものがあり、後年の編集で55に統一されたという[3]。
成立の経緯[編集]
55レンジャーの起源は、の大規模停電訓練で通信遮断が続出したことにあるとされる。これを受けて通信試験班の渡辺精一郎技官らが、山中でも五台の小型無線機を相互中継させる「五層跳躍通信」案を提案し、その運用要員として臨時班が作られたという[4]。
当初の班名は「55中継班」であったが、訓練中に山道の標識がすべて同じ色で見分けにくくなったため、隊員が橙色の外套を着用したところ、現地の住民から「レンジャーみたいだ」と呼ばれたことが転機になったとされる。以後、広報担当が便宜的に「55レンジャー」と呼称し、これが定着したという[5]。
また、創設初年の記録には、隊員27名のうち8名が登山経験ゼロであったにもかかわらず、での通信試験を成功させたとある。ただし、この数字は後に誇張だとする指摘もあり、関係者の回想でも「成功の半分は偶然であった」とされている。
組織と編成[編集]
五隊制[編集]
55レンジャーは、前衛・中継・保全・搬送・記録の五隊から構成されたとされる。各隊は5名単位で動き、連絡のたびに番号ではなく果物名で呼び合う慣行があり、前衛は「りんご」、中継は「なし」といった具合に符号化されていた[6]。この方式は暗号性が高い一方、食事配給のたびに混乱を招いたという。
隊長職は固定ではなく、月ごとに「55分の1輪番」で交代した。これは形式上は民主的であったが、実際には無線に強い者がほぼ自動的に隊長となり、会議では最も声が大きい者が議事を進めたため、制度の趣旨はかなり曖昧であった。
装備と制服[編集]
制服はの防炎繊維工場で試作された橙色の外套を基準とし、胸と背にそれぞれ55本の反射帯が縫い込まれていた。反射帯は夜間の視認性向上を目的としたが、観光客の写真に写り込むと「立入禁止の看板のように目立つ」と評判になり、結果として現場の通行抑制にも役立ったとされる。
装備品で特筆されるのは「55式折り畳み担架」である。通常の担架より短く、山道での取り回しに優れていたが、折り畳み時に必ず半端な長さが余るため、現場ではしばしばロープ止めや即席のベンチとして再利用された。これが後に「災害現場の多用途家具」として一部で愛好されたという。
訓練体系[編集]
訓練は周辺で行われ、午前は山岳行動、午後は無線、夜は地図読解という三部構成であった。特に有名なのが「55分間無音行進」で、隊員は一切会話せずに斜面を移動し、足音の回数を数えることで隊列を維持したとされる。
この訓練法はきわめて厳しいが、なぜか新人の離脱率は低かった。理由として、途中で出される甘味噌団子が異常にうまかったこと、また教官が毎回「これは訓練ではなく、生活である」と言い切っていたことが挙げられている[7]。
活動史[編集]
災害対応への転用[編集]
の豪雨災害では、55レンジャーが長野県南部へ派遣され、孤立集落への中継回線を2時間40分で復旧したとされる。ここで用いられた臨時アンテナは、もともと観光案内板の支柱を改造したものであり、以後「見た目が立派なほど役に立つ」という教訓として隊内に残った。
ただし、記録写真の一部では、隊員がなぜか同じ位置に並んでポーズを取っており、後世の研究者からは「救助というより広報写真ではないか」との指摘もある。これに対し、当時の広報係は「現場では整列も救助の一部である」と答えたという。
社会的影響[編集]
55レンジャーの最大の影響は、災害対応と広報を同一視する文化を定着させた点にあるとされる。彼らの活動以後、自治体の防災訓練では「実際に救助できるか」だけでなく、「住民が安心して撮影できるか」も評価項目に加わったという。
また、橙色の防炎外套は民間のアウトドア用品として模倣され、には「55風ジャケット」が量販店で年間約12万着売れたとされる。これにより、街中で似た服を着た人が増え、当局が本物と見分けるために胸元へ小さく番号札を縫うよう指導したという[9]。
なお、55レンジャーの影響は教育分野にも及び、一部の専門学校では「五層中継実習」が通信工学の基礎演習として採用された。ただし、学生の多くは実習よりも隊員が配る甘味噌団子を目的に出席していたとされる。
批判と論争[編集]
55レンジャーには、半ば伝説化した運用に対する批判もある。とりわけ、山岳救難の名目でありながら実際には観光地での誘導や撮影補助に費やされた時間が多かったことから、「部隊というより移動式案内所であった」とする論者もいる[10]。
また、55本の反射帯は象徴性が高い一方、洗濯にかかる手間が大きく、経費が通常装備の約1.8倍になったとされる。これについては、当時の経理担当が「視認性に価値がある以上、洗濯費は保険料である」と説明したが、監査記録ではその理屈に首をかしげる記述が残っている。
さらに、一部の元隊員は、隊の名称が「55」であるにもかかわらず、実際の運用では5人単位より4人単位の方が多かったと証言している。これを受けて、研究者の間では「55は人数ではなく、運用上の気分を表す記号であった」との解釈も提案されている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『五層跳躍通信の研究』防衛通信学会誌 Vol.12, No.3, pp. 41-58, 1975.
- ^ 佐伯みどり『橙色外套と災害視認性』災害装備研究 第8巻第2号, pp. 113-129, 1981.
- ^ Harold P. Niven, "The Fifth Relay Doctrine and Its Rural Applications," Journal of Emergency Logistics, Vol. 19, No. 4, pp. 201-219, 1984.
- ^ 小山田隆一『相模湖演習区画の編成史』自治行政資料 第4巻第1号, pp. 9-26, 1979.
- ^ Margaret A. Thornton, "Orange Is Operational: Uniform Visibility in Mountain Rescue," International Review of Civil Safety, Vol. 7, No. 1, pp. 77-90, 1988.
- ^ 藤堂晶子『55レンジャーと観光地導線の再設計』防災と都市 第16巻第5号, pp. 55-71, 1991.
- ^ 内藤一郎『第五十五即応連携隊の解体と再配置』地方行政史研究 第21巻第2号, pp. 132-149, 1994.
- ^ Eleanor T. Voss, "A Study of Foldable Stretcher Residues in Wet Terrain," Rescue Equipment Quarterly, Vol. 3, No. 2, pp. 14-29, 1976.
- ^ 『55風ジャケット普及実態調査報告書』日本生活工芸協会, 1987.
- ^ 山本恵子『反射帯55本の意味論』装備記号学年報 第2巻第6号, pp. 201-213, 1990.
- ^ 中川修『甘味噌団子と訓練継続率の相関』防災教育ジャーナル 第5巻第1号, pp. 1-17, 1982.
外部リンク
- 相模原防災史アーカイブ
- 旧通信演習区画資料室
- 橙色外套保存会
- 山岳救難文化研究ネット
- 自治体訓練写真年鑑