ピフトーマム・ウリチョリョの虐殺
| 名称 | ピフトーマム・ウリチョリョの虐殺 |
|---|---|
| 別名 | ウリチョリョ事件、第四塩路の失踪 |
| 発生時期 | 1897年頃 - 1898年初頭 |
| 発生場所 | ビクトリア湖南東岸から内陸の乾燥草原地帯 |
| 原因 | 塩税の改定、測量杭の移設、宗教的禁忌の衝突 |
| 死傷者 | 推定1,200人から3,800人 |
| 関与組織 | 英領東アフリカ測量局、カシングワ交易連盟、聖セルヴィウス宣教会 |
| 研究の中心 | 史料室およびの比較史研究 |
| 史料 | 荷車台帳、宣教師日誌、口承歌謡 |
ピフトーマム・ウリチョリョの虐殺(ピフトーマム・ウリチョリョのぎゃくさつ)は、末の内陸部で発生したとされる、交易記録上の大量失踪事件である。後年の研究では、・・が複雑に絡んだ事件として知られている[1]。
概要[編集]
ピフトーマム・ウリチョリョの虐殺は、末に周辺で起きたとされる集団失踪・殺害事件である。事件名は、当時の交易語における「ピフトーマム」(塩の再分配)と、湖岸丘陵地帯の地名「ウリチョリョ」を結合したもので、のちに欧州側の記録官が便宜的に「虐殺」と記したことから定着した[2]。
事件の実態は、単純な武力衝突ではなく、の再編、の通行権、そして南縁の乾燥期における井戸の管理をめぐる対立が連鎖した結果であるとされる。ただし、に作成された行政報告書では、わずか17行で「局地的混乱」とされており、後世の歴史家はこの短さ自体を隠蔽の証拠として扱っている。
一般には、の回想録に残る「3日間で17の集落が沈黙した」という記述が有名であるが、口承研究では、実際には武力行使よりも食糧封鎖と水場閉鎖が深刻だったと推定されている。なお、事件の最中にの資材置場から失われた石灰樽が、現地で「白い呪物」と誤認され混乱を拡大したとの指摘もある[要出典]。
背景[編集]
この事件の背景には、後半に内陸で進行した交易圏の再編がある。もともとウリチョリョ地方は、ナイロビ方面からへ抜ける複数の路線が交差する中継地であり、塩、皮革、真珠貝、乾燥魚の交換で栄えた。
しかし、の測量官であったアーサー・G・マーロウが、季節河川の流路修正を前提に境界杭を8マイル西へ移設したことから、従来の祭祀地と通行権が食い違う事態が生じた。とくにウリチョリョの人々は、塩の再分配を司る年長者会議「ピフトーマム評議」の承認なしに井戸を掘ることを禁じており、この規範が外部勢力には理解されにくかった。
また、の記録には、現地の祭礼で用いられる白土を「死者の粉」と誤解した布教員が、井戸に接近する者へ鐘を鳴らして警告したとある。これが夜間の襲撃警報と混同され、両者の不信感を増幅させたという。結果として、交易の途絶と水資源の管理争いが同時に進行し、地域社会は数か月以内に急速に崩れたのである。
経過[編集]
1897年の干上がり[編集]
の乾季は例年より42日長く、南方から吹き込む熱風の影響で、浅井戸の水位が平均1.8メートル低下したとされる。この時期、カシングワ交易連盟は塩袋1,400枚の再配分を要求したが、測量局側は「境界未確定」を理由に保留したため、村落ごとの自衛組織が急増した。8月17日には、ウリチョリョ東端の見張り塔が焼失し、火の見役の少年が方言で誤警報を発したことが連鎖的な混乱を招いた。
その後、集落間の往来は3日で停止し、首長たちは方面の避難路を検討したが、道標が測量杭に置き換えられていたため、複数の隊列が互いに別の谷へ迷い込んだ。後年の地形学者は、これを「行政的迷走の典型」と呼んでいる。
ピフトーマム会議[編集]
11月、川沿いで開かれたとされるピフトーマム会議は、事件前夜の象徴的場面としてしばしば引用される。会議には、交易長老ヌドゥル・サファリ、宣教会通訳ヘンリー・クラーク、そして測量局の補助官マティアス・ヴェロニが出席したと記録されるが、各人の証言は互いに矛盾している。
特に有名なのは、サファリが「塩は水よりも先に数えられるべきだ」と述べたという一節である。これに対しクラークは、塩俵の上に聖書を置いて仲裁しようとしたが、儀礼上それは「契約の封印」と見なされ、翌日には周辺6集落で独自の誓約式が行われた。結果として、会議は解決どころか、各陣営が自分の合意文書を持ち帰るという珍事に終わった。
武力化と失踪[編集]
1月から2月にかけて、事件は急速に武力化した。口承では、最初の銃声は湖岸ではなく製塩小屋の梁が折れた音だったとされるが、少なくとも2つの部族連合が夜明け前に相手の井戸を封鎖し、これにより水汲みの列が衝突したことはほぼ確実である。
最も奇妙なのは、事件の死者数と失踪者数が記録ごとに大きく異なる点である。ある宣教師の日誌では死者312人、別の交易台帳では行方不明者2,900人、の植民地報告では「人口の8分の1」とされた。現代の研究では、実際には戦闘での死亡に加え、避難民が塩原の乾燥地で分散し、別の共同体に吸収されたケースが多かったと考えられている。つまり「虐殺」という語は、後世の分類ではあるが、当時の人々にとっては消えた家族の総称でもあったのである。
事件名の由来[編集]
「ピフトーマム」は、現地の交易語で「塩袋を円環状に積み上げる」儀式を指すとされ、通常は収穫祭の前に行われた。一方「ウリチョリョ」は、湖岸の低丘を意味する地名であり、古い測量図では「Ulichoryo」、宣教師文書では「Wuricholio」とも表記された。
この二語が事件名として結合したのは、にの歴史家ジョナサン・B・ハーヴィーが、現地の複数の口承歌を比較した際に「塩の円環が崩れた丘」と訳したことがきっかけである。なお、彼は題名に「massacre」を採用した理由について、当時の欧州読者に「行政不全」より「悲劇」の方が通りが良いからだと書き残している。
ただし、地域の長老会はこの名称を好まず、現在でも一部では「第四塩路の乱れ」と呼ばれる。名称の政治性をめぐっては、の会議で激しい議論が起き、最終的に史料引用では両称併記とする慣例が定着した。
影響[編集]
ピフトーマム・ウリチョリョの虐殺は、同時代の東アフリカ交易路に大きな影響を与えた。まず、塩の再流通が止まったため、からへ至る内陸ルートで代替塩源の調達が急務となり、以後10年ほどは「白い財」としての塩の価格が1.6倍に跳ね上がったとされる。
また、事件後には「通行権台帳」の整備を急ぎ、各村落に戸数ではなく井戸数で課税する制度を試験導入した。この制度は半年で破綻したが、のちの土地登記制度に影響したと評価されている。さらに、宣教会が用いた鐘音警報は、のちに学校や診療所の開設時報へ転用され、地域の時間感覚を変えたという。
文化面では、失踪者を悼む歌「ウリチョリョの7つの桶」が広く歌われ、20世紀半ばにはのラジオ番組で民謡として紹介された。ただし、歌詞の一節に「月が2つに割れた夜」という表現があり、編者の注釈では「象徴表現」とされているが、現地の古老は「その夜、本当に月が見えづらかった」と証言している。
研究史[編集]
植民地期の記録[編集]
最初期の研究は、前半の植民地官僚による統治報告に依存していた。彼らは事件を「騒擾」または「食糧移動の失敗」と分類し、組織的暴力の存在をほとんど認めなかった。しかし、報告書の余白には赤鉛筆で「水源確保優先」と書き込まれているものがあり、後世の史料批判ではこれが実務担当者の危機感を示す痕跡とされる。
また、ロンドンの王立地理学会に保管されていた測量図の一部には、不可解な丸印が17個並び、各印の横に「quiet places」と記されていた。これが虐殺現場の暫定記録であるとする説は有力であるが、単に測量官が昼寝した場所を示しただけではないかという反論もある。
批判と論争[編集]
本事件をめぐる最大の論争は、そもそも「虐殺」という語が適切かどうかである。人口学的には、死者数の確定が難しいうえ、相当数が移住・同化・飢饉による離散であったとみられているため、2011年の比較史シンポジウムでは「複合的消失事件」という中立的表現を推す報告も出された。
また、が境界杭を移したことが直接的な引き金だったのか、それとも既存の地域抗争を拡大させただけなのかについても結論は出ていない。とくに、マーロウ測量官の子孫が寄贈した私信には「私は杭を8マイルではなく7.5マイル動かした」との記述があり、これは事件の規模をめぐる議論を一層複雑にした。
なお、にナイロビの博物館で行われた特別展では、会場入口に設置された再現井戸が展示初日に2回も満水になり、来館者の一部が「呪いの再演」と騒いだ。館側は排水不良と説明したが、展示監修者は「水は歴史を嫌う」とコメントしている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ M. J. Barlowe, "Salt, Silence, and Survey Stakes: The Ulichoryo Disturbance of 1897", Journal of East African Colonial Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 144-178, 1978.
- ^ 佐伯恒男『湖岸交易圏の崩壊――ピフトーマム事件再考』青木書店, 1994.
- ^ A. H. Mercer, "The Quiet Places: Mapping Absence in Late Victorian East Africa", African Historical Review, Vol. 44, No. 2, pp. 201-229, 2002.
- ^ マリアム・オティエノ『歌に残る失踪――ウリチョリョ口承資料集』ナイロビ大学出版局, 1981.
- ^ J. B. Harvey, "On the Etymology of Piftomam", Proceedings of the Royal Geographical Society, Vol. 29, No. 1, pp. 33-41, 1912.
- ^ 高瀬真一『測量杭と水場管理――英領東アフリカの境界行政』岩波書店, 2008.
- ^ L. N. Okello, "When the White Salt Went Silent", East African Ethnology Quarterly, Vol. 7, No. 4, pp. 55-89, 1966.
- ^ 『ウリチョリョ行政報告書集成 第3巻』東アフリカ史料協会, 1904.
- ^ P. D. Kessler, "Massacre or Misplacement? Reclassifying the Ulichoryo Case", The Journal of Imperial Misunderstandings, Vol. 5, No. 1, pp. 9-27, 2015.
- ^ 吉田春彦『塩俵の政治学』港湾文化研究所, 2019.
- ^ S. R. Njoroge, "Ritual Noon and the Broken Fence", Studies in Swahili and Inland Societies, Vol. 18, No. 2, pp. 88-104, 1999.
外部リンク
- 東アフリカ歴史史料アーカイブ
- ナイロビ比較口承研究センター
- ウリチョリョ事件デジタル地図帳
- 植民地測量文書再読会
- 塩路民俗資料館オンライン