久々豆ちゃん
| 氏名 | 久々 豆子 |
|---|---|
| ふりがな | くく まめこ |
| 生年月日 | 1931年4月18日 |
| 出生地 | 静岡県浜松市郊外の旧天竜郡 |
| 没年月日 | 1994年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗記録家、玩具設計者、随筆家 |
| 活動期間 | 1954年 - 1994年 |
| 主な業績 | 豆粒大携帯人形「久々豆ちゃん」の考案、巡回採集帳の体系化 |
| 受賞歴 | 地方民芸振興賞、静岡文化記念表彰 |
久々 豆子(くく まめこ、 - )は、日本の民俗記録家、玩具設計者である。豆粒大の携帯人形「久々豆ちゃん」を考案した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
久々 豆子は、昭和後期から平成初期にかけて活動した日本の民俗記録家、玩具設計者である。特に、掌中に収まる小型人形「久々豆ちゃん」の考案者として知られる[1]。
同作は、内の縁日や東京都台東区の玩具問屋街で細々と流通し、のちにとを横断する奇妙な成功例として語られた。なお、本人は終生「人形ではなく、持ち歩ける記憶装置である」と主張していたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
久々は、の山間部に生まれる。家は沿いの木地師に近い家系とされ、幼少期から木片、布端、陶片を並べては分類する癖があったという。少年期には浜松市の旧商業地区で、荷造り用の豆袋に名前札を縫い付ける手伝いをしており、この経験が後年の極小造形の基礎になったとされる[3]。
また、近隣の寺で行われたの際、子どもが落としても見つけやすい「目立たないが気になる」玩具を作ってほしいと頼まれたことが、最初の着想であったという。もっとも、この証言は本人の回想録にしかなく、地元史料には確認できない。
青年期[編集]
ごろ、久々はを模した夜間講習に通い、木彫と布細工を学んだとされる。その後、浅草の玩具問屋で見習いとして働き、製の定番玩具が量産化される過程を目の当たりにした。この時期に、値札を付けたまま棚に置いても「商品に見えない」ほど素朴な形状を追求したことが、のちの作風を決定づけたといわれる。
には、民俗調査の名目で岐阜県の農村を巡回し、祭礼で配られる小玩具を採集している。そこで出会ったの踊り手がポケットから米粒状の護符を取り出したことに感化され、久々は「持つ」という行為そのものを縮尺した人形の設計に着手したとされる。
活動期[編集]
、久々は最初の「久々豆ちゃん」試作第1号を完成させた。高さは約、重さは平均で、胴体内部にの粉との層を封入する構造を採った。これにより、手の汗で微妙に膨らむため、所有者ごとに個体差が生じる点が珍重された[4]。
には東京都の小規模展示会で初公開され、来場者のうちが「何に使うのか分からないが、気に入った」と回答したと記録されている。以後、久々はの深夜文化番組や地方紙の生活欄に断続的に登場し、玩具でありながら民具、民具でありながら個人記録媒体という曖昧な立場を確立した。
一方で、のオイルショック後には材料費高騰の影響を受け、胴体の桐粉がへ代替された。本人はこれを「穀物の気配が増した」と肯定したが、湿気で変形する個体が続出し、購入者の半数近くがしたとされる。
人物[編集]
久々は温厚で寡黙な人物として知られる一方、細部への執着が異様に強かった。例えば、展示会での説明文を毎回単位で改稿し、句読点の位置がずれるだけで夜通し書き直したという逸話がある。
性格は控えめであったが、作品の扱いには頑固で、販売先が「かわいい」とだけ宣伝した際には強く抗議した。彼女にとって久々豆ちゃんは愛玩物ではなく、持ち主の記憶と所在を結びつけるための「小さな帳簿」であったという[6]。
また、来客には必ず煎茶を出し、3杯目を飲み終えた人にだけ試作品を触らせたとされる。この習慣は、本人が「人は3回目で本音を出す」と信じていたためであるが、実際には茶請けの豆菓子を売る近所の店との付き合いを絶やさないための工夫だったともいわれる。
業績・作品[編集]
代表作は、言うまでもなく「久々豆ちゃん」である。初期型はとによる素朴な造形であったが、後期型では表面にを染み込ませ、雨天でも手触りが変わらないよう改良された。収集家の間では、耳の位置が0.5ミリずれた個体が「第二系統」と呼ばれ、現在でも高値で取引される[7]。
そのほか久々は、持ち運び用の布袋「」、記憶を記す極小台紙「」、祭礼向けの大型版「」などを手がけた。とりわけ一粒覚え帳は、1ページが四方しかなく、の代わりに竹針で書き込む仕様であったため、実用性は低いが思想性が高いと評価された。
にはの企画展「掌の民具」に協力し、の試作を出品した。会場アンケートでは「懐かしい」「意味が分からない」「洗濯機の説明書のようだ」が上位3位を占め、これは本人が最も誇った成果の一つであったと伝えられる。
後世の評価[編集]
後半以降、久々豆ちゃんは郷土玩具の一種として再評価され、、、の接点を示す事例として論じられた。特にのの小企画展以後、若手研究者のあいだで「所有の最小単位を問う試み」として引用されることが増えた。
ただし、現代的な視点からは、保存方法の不統一や流通記録の欠落が問題視されている。久々の工房帳には製作数がから突然へ跳ね上がる年があり、研究者の間では誤記とする説と、夜明け前に量産したとする説が対立している[8]。
なお、海外では「portable memory doll」という訳語が一部のデザイン誌に掲載されたが、定着しなかった。理由として、英語圏では「豆」の持つ粒状性よりも食材の印象が強く、作品の不思議な説得力が薄れるためであると分析されている。
系譜・家族[編集]
久々は出身のの三女で、父・久々庄助は木箱職人、母・久々としは帳簿付けを得意としたとされる。兄姉はそれぞれ家業を継いだが、久々のみが細工物に進み、家族内では「いちばん静かな子がいちばんやかましい物を作る」と評された。
結婚歴については、1958年にの男性と婚姻したという記録がある一方、本人は公の場でほとんど語らなかった。子はなく、代わりに工房に出入りする弟子筋の若者を「豆番」と呼んで可愛がっていた。晩年は姪の久々栄子が資料整理を担い、現在の保存会の基礎を作った。
久々の没後、家系のなかで実際に玩具業へ進んだ者は少ないが、浜松市近郊には「豆ちゃん」を名乗る露店がいくつか現れ、親族とは無関係ながら半ば公認のように扱われた。
脚注[編集]
[1] 久々自身の回想録『掌に入る町』による。 [2] 1981年の講演記録「記憶は大きさに宿る」に基づく。 [3] 地元紙『遠州日報』1968年5月12日号、ただし同日の紙面は火災で一部欠損している。 [4] 静岡民芸研究会『極小玩具資料集』第3号, pp. 14-19. [5] 参加者名簿は保存されているが、豆会の第4回だけ欠番になっている。 [6] 久々は「かわいい」という語を「説明の放棄」と呼んだとされる。 [7] 取引記録の多くは個人間譲渡であり、相場は地域ごとに大きく異なる。 [8] 工房帳の紙質が年によって変わるため、研究者のあいだで集計方法が一致していない。
脚注
- ^ 久々豆子『掌に入る町』遠州文化出版, 1989.
- ^ 田辺理一『掌中玩具史論』民芸社, 1997, pp. 102-118.
- ^ Martha L. Bennett, “Miniature Memory Objects in Postwar Japan,” Journal of Applied Folklore, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 44-67.
- ^ 静岡民芸研究会 編『極小玩具資料集』第3号, 1971, pp. 14-19.
- ^ 佐伯澄子『浜松郊外の手仕事』静岡郷土出版社, 2001.
- ^ David H. Palmer, “Portable Dolls and the Ethics of Carrying,” Design Anthropology Review, Vol. 8, No. 1, 2011, pp. 5-29.
- ^ 久々栄子『豆会ノート』私家版, 1998.
- ^ 中村義彦『民具と記憶のあいだ』東海書房, 2009, pp. 201-226.
- ^ Haruto Seki, “The Kukumame Phenomenon,” The Asian Toy Studies Quarterly, Vol. 4, No. 2, 2016, pp. 88-97.
- ^ 岩倉まどか『一粒覚え帳の謎』浜松文化新書, 2014.
- ^ Catherine J. Webb, “Why Tiny Objects Feel Trustworthy,” International Review of Small Things, Vol. 1, No. 4, 2020, pp. 1-15.
- ^ 静岡県立美術館 編『掌の民具 展覧会図録』1998, pp. 33-41.
外部リンク
- 久々豆ちゃん保存会
- 遠州民芸アーカイブ
- 掌中玩具研究フォーラム
- 静岡文化資料室
- 豆会デジタル年表