佐竹守康
| 生誕 | 1897年11月3日 |
|---|---|
| 死没 | 1964年2月18日 |
| 出身地 | 秋田県仙北郡角館町(現・仙北市) |
| 職業 | 測量家、民俗記録者、官庁技師 |
| 所属 | 内務省臨時地籍整理局、帝国測図研究会 |
| 主な業績 | 境界修復術の体系化、古図帳合板の考案 |
| 別名 | 守康先生、境目の佐竹 |
佐竹守康(さたけ もりやす、 - )は、日本の測量家、民俗記録者、ならびに「境界修復術」の提唱者である。戦前の秋田県および東京都を中心に活動し、のちに関係者の間で「地図を直す男」として知られた[1]。
概要[編集]
佐竹守康は、大正末から昭和中期にかけて活動したとされる日本の測量技師である。彼は・・旧村界のずれを「地形の記憶の摩耗」とみなし、現地踏査と古文書照合を組み合わせる独自の手法を広めたとされる[2]。
一方で、守康の名は学術史よりも、東京都の役所に残された奇妙な回議記録や、秋田県各地に伝わる「境界を歩くと雨が止む」という逸話によって記憶されている。彼の実在性そのものをめぐっては早くから議論があったが、少なくとも系文書に断片的な痕跡があることから、後年の編纂物ではないかとの指摘もある[3]。
生涯[編集]
角館時代[編集]
守康は、の旧家に生まれたとされる。家は代々の修繕に携わっていたが、本人は幼少期から武具よりも「畦の曲がり方」に関心を示し、で村の田圃地図を木炭で写し取ったという話が残る[4]。
には、由来の古絵図を見て境界線の不自然な屈折に気づき、近隣の地主を集めて「ここは三寸だけ北へずれている」と主張したとされる。この発言が生涯の原型となり、以後、彼は「境目の少年」と呼ばれるようになった。
上京と官庁勤務[編集]
、守康は東京府へ出ての嘱託となった。採用試験では測量術よりも、から本郷までの路地名を一筆書きで再現した記憶力が評価されたという[5]。
の関東大震災後、彼は焼失した町区画の再整理に従事し、瓦礫の下から回収したの札や町会費の領収書をもとに、地番を復元したとされる。なお、当時の報告書には「佐竹、焼跡にて地籍を数ふ」とだけ記されており、後世の伝説化を招いた。
境界修復術の確立[編集]
、守康は自著『旧界復元法概論』で「境界は線ではなく、往来の癖である」と定義し、これをと命名した。方法は、古図、聞き書き、地表の傾斜、さらには畦道の踏圧まで含めて総合判定するというもので、現代の地理情報学に先行した発想であったと評価されることがある[6]。
ただし、同書の第4章には「境界の記憶は夕暮れに最もよく見える」といった詩的な記述が多く、実務書としてはやや異様である。もっとも、この文体が農村部の役人に受け、東北地方では一時期、境界立会いの前に夕方の作業を指定する慣習が生じたともいわれる。
人物像[編集]
守康は寡黙で帳面好きな人物として描かれる一方、記録の細部に異常な執着を示したとされる。たとえば1934年の出張では、村境の杭があるのに対し、彼は自分のノートにを書き込み、後から「風で3本が逃げた」と説明したという[7]。
また、彼はの官舎で、毎朝に起床し、白湯を飲みながら前日の地図の折り目を確認していたと伝えられる。これが本当なら几帳面であるが、同居していた弟子の証言では「折り目の数を数えながら独り言で地名を訂正していた」とされ、少々不穏でもある。
業績[編集]
古図帳合板[編集]
守康の代表作は、複数のを透明な板に重ねるための装置「古図帳合板」である。これはではなく、乾燥させた檜板に薄い油膜を塗ったもので、の地方役場で安価に使えることが評価された[8]。
青森県の試験運用では、帳合板を用いると田畑の境界ずれが平均縮小したという。ただし、同じ報告書の欄外には「雨天時は板がわずかに泣く」とあり、装置の信頼性に関する判断は今も割れている。
民俗記録の収集[編集]
彼は地籍整理の傍ら、やの呼称も採取し、境界線にまつわる口承を分類した。これにより「境界は役人の線であると同時に、祭礼の経路でもある」という理解が広まり、の祭礼順路を地籍図に落とし込む実務が一部で行われた[9]。
特に有名なのは宮城県のある村で、守康が「ここの境は牛が毎年冬至に越える」と記録した事例である。役場は半信半疑だったが、翌年から本当に牛の移動経路を優先して測量したため、結果として村の地図がやや牛寄りになったとされる。
批判と論争[編集]
守康の手法は便利であったが、近代測量の標準化を進めたい内務省系の官僚からは、再現性が曖昧であるとして批判された。とりわけ1938年の技術会議では、ある技官が「彼の境界はしばしば人情に流れる」と述べ、議論が紛糾したという[10]。
また、戦後になると、守康の名義で刊行されたとされる数冊の参考書について、実際には弟子のらが後年まとめた可能性があるとの研究も出た。にもかかわらず、秋田県の一部自治体では今なお境界立会いの際に彼の名を読み上げる習慣があり、学術的評価と民間信仰がねじれたまま共存している。
評価と影響[編集]
守康の影響は、測量そのものよりも「現地の記憶を測る」という発想にあったとされる。これにより、戦前のは単なる線引きから、聞き取り・祭礼・通行経路を含む総合調査へとわずかに拡張された[11]。
以降、彼の名は学会よりも郷土資料館や役所の書庫で生き残り、東京都内の一部図書館では、地図の修復方法を説明する際に「守康式」と書かれた赤鉛筆の注記が見つかることがある。なお、その赤鉛筆が本当に本人の愛用品だったかは不明である。
遺産[編集]
死後、守康をめぐってはに『佐竹守康遺稿集』が刊行され、ここで初めて「境界修復術」が体系的な学説として再編された。編者のは、遺稿のうち3割は手書きの裏書から復元したと述べており、学術書というより古文書修理の成果物に近い[12]。
現在でもの一部では、春の農道点検の前に「守康の道順」で村境を歩く行事があるとされる。もっとも、参加者の多くは彼の業績を詳しく知らず、単に「昔の測量の偉い人」として扱っているため、由来の半分は忘却によって保存されているともいえる。
脚注[編集]
脚注
- ^ 佐藤寛之『境界修復術の成立と展開』地図文化社, 1978年.
- ^ 北見義一『旧界復元法概論 追補』帝国測図研究会, 1941年.
- ^ Margaret L. Haddon, "Surveying the Remembered Boundary," Journal of East Asian Cartographic Studies, Vol. 12, No. 3, 1984, pp. 211-239.
- ^ 斎藤梅太郎『佐竹守康遺稿集』秋田郷土出版, 1967年.
- ^ Kenjiro Aiba, "A Timber Board for Overlay Mapping in Rural Japan," Transactions of the Pacific Geographic Society, Vol. 7, No. 1, 1959, pp. 44-58.
- ^ 高橋雪雄『民俗と地籍の交差点』法政地理叢書, 1992年.
- ^ Harold P. Wint, "The Politics of Line Reinstatement," The Cartographer's Review, Vol. 19, No. 2, 1971, pp. 90-117.
- ^ 秋山直子『村境の記憶装置』東京学芸出版, 2003年.
- ^ 田中栄作『官庁における測量実務の変遷』中央図書刊行会, 1988年.
- ^ L. M. Fletcher, "When Cattle Decide the Map," Rural Administration Quarterly, Vol. 4, No. 4, 1962, pp. 301-315.
- ^ 『旧界復元法概論』第3版、帝国測図研究会, 1936年.
外部リンク
- 帝国測図研究会デジタルアーカイブ
- 秋田境界史資料室
- 地図を直す会
- 民俗測量フォーラム
- 佐竹守康記念書庫