牧原治親
| 氏名 | 牧原治親 |
|---|---|
| ふりがな | まきはら はるちか |
| 生年月日 | 1898年4月17日 |
| 出生地 | 長野県下伊那郡阿智村 |
| 没年月日 | 1967年11月29日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗学者、地域調停人、著述家 |
| 活動期間 | 1921年 - 1965年 |
| 主な業績 | 境界儀礼の整理、山村共同体の慣習分類、牧原式聞き取り法の確立 |
| 受賞歴 | 日本山村文化賞、信濃学芸会特別功労章 |
牧原 治親(まきはら はるちか、 - )は、日本の民俗学者、地域調停人、ならびに「」研究の先駆者である。山間部の自治慣行を体系化した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
牧原治親は、大正末期から昭和中期にかけて活動した者であり、山村における土地の境界確認や祭礼の作法を「境界儀礼」として再定義したことで知られる。とりわけ長野県から岐阜県にかけての旧山村を対象に、村役場の公文書と口承を同列に扱う独自の方法論を打ち立てた点が特筆される[1]。
彼の業績は学術的には周縁的とみなされることもあったが、後年になって国立歴史民俗博物館やの研究者らが再評価を進め、地域行政の実務にも影響を与えたとされる。また、彼が提唱した「三度目の挨拶で境を確定する」という原則は、学会では半ば伝説として語られている。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
牧原治親は、の旧家に生まれる。父・牧原喜三郎は林業組合の会計係、母・牧原とみはの織物問屋の出で、幼少期から山道の境や入会地の扱いを巡る争いを耳にして育ったとされる。本人の回想録によれば、七歳のとき隣村との境の石積みを数え間違えたことが、後の研究の原点になったという[2]。
にはに進学し、地理と漢文の成績が極めて良好であった一方、寄宿舎で周囲の学生に方言を聞き取り続けたため「帳面を持った狐」と渾名された。なお、この時期にの神社記録と村の口碑を突き合わせる癖が形成されたとされている。
青年期[編集]
、東京帝国大学文学部の聴講生となり、系の民俗調査に触発されたと伝えられる。ただし、牧原は早くから「都市の資料は整いすぎている」として、あえてやの境界集落に通うようになった。そこで出会った郷土史家の高瀬久蔵に師事し、祭礼の前日にのみ行われる土地争いの和解手順を記録したことが、後の論考『境目の礼法』につながった。
の関東大震災後には、被災地支援の名目で東京市に滞在し、仮設住宅の区画線に関する住民の合意形成を観察した。この経験が、彼の「境界は線ではなく反復である」という理論に影響したとされる。もっとも、本人は終生この逸話を否定も肯定もしなかった。
活動期[編集]
、牧原はの嘱託となり、山村の境界石、共同井戸、神木、踏み固められた雪道まで含めて「共同所有の痕跡」として整理する作業を開始した。調査対象はのべ、聞き取り件数はに及び、その記録は一部がに寄託された。
には『境界儀礼論序説』をの学術叢書として刊行し、学界では異色の著作として注目された。ここで提唱された「三度の沈黙」「七歩戻り」「朱印の回し読み」は、いずれも実地で確認された慣行として紹介されたが、同時代の研究者からは「過度に整然としている」との指摘もあった[3]。
はの地域再編協議に参加し、合併に伴う字名整理の際に住民説明会の進行役を務めた。牧原が関わった地区では、地名の残し方を巡って合意形成が難航したが、彼の提案した「旧名を二十年だけ併記する」方式が一部で採用され、後の自治体史編纂にも影響したとされる。
人物[編集]
牧原は寡黙である一方、村役人との応酬では異様に粘り強く、同じ質問を語尾だけ変えて最大繰り返したという逸話が残る。彼自身は「人は一度では本音を言わぬ」と述べ、聞き取りの際には茶碗を三度持ち替えるまで質問を始めなかったとされる。
また、岐阜県の調査中に雪道で足を滑らせ、袖に入れていた調査票を失った際、翌日には同じ内容を村の子どもたちから再収集したという話がある。これが後年、彼の方法論を象徴する「子どもの証言を侮るな」という警句につながった。
一方で、食に関しては極端な偏りがあり、を食べる際は必ず「境のある器」でなければならないと主張した。これは本人の美学に由来するとみられるが、弟子の一人は「単に器の数を数えるのが好きだっただけ」と証言している。
業績・作品[編集]
境界儀礼研究[編集]
牧原の最大の業績は、「境界儀礼」という概念を独立した研究対象として提示したことである。それ以前、山村の境界に関する習俗は地理学、宗教学、法制史に散在していたが、牧原はこれらを「共同体が不安を処理する装置」として統合した。とくにの山腹で確認された「棒を立て、三人が一礼し、最後に子どもが石を動かす」儀式は、彼の論文で全国的な注目を集めた。
代表作『境界儀礼論序説』では、境界が争点ではなく合意形成の反復であると論じた。学術的にはやや比喩が過剰であるものの、の地方史ブームにおいては引用頻度が高く、の目録で異常に貸出回数が多い資料としても知られる。
牧原式聞き取り法[編集]
牧原は、証言の正確性を高めるために、質問順序を「現在→昔→歌→地名」の順に固定する手法を考案した。これを後に弟子たちが「牧原式聞き取り法」と呼んだが、本人はその名称を好まず、あくまで「話のほどき方」であると述べた。
この方法では、聞き取り対象に地図を見せず、代わりに繭玉、竹箒、古い帳簿を机上に並べることが推奨された。記録に残る限り、からまでの調査で、口伝の一致率がまで改善したとされるが、算出方法については要出典である。
主要著作[編集]
・『境目の礼法』1934年 ・『境界儀礼論序説』 ・『村の線引きと沈黙』 ・『合併後地名の保存技法』 ・『半端な線の民俗』
これらの著作はいずれも、編纂やの境界調停に関する実務資料として流通した。とくに『合併後地名の保存技法』は、表題こそ行政文書風であるが、本文の三分の一が雑談の聞き取りに費やされているという珍しい構成で、後世の研究者を悩ませた。
後世の評価[編集]
牧原は生前、学界の中心からはやや距離を置かれていたが、1980年代以降、地域共同体の再編と研究の文脈で再評価された。とくに国立歴史民俗博物館の企画展『線のない村』では、彼の調査ノートが「行政資料と民間信仰の中間に位置する稀有な記録」と紹介された。
一方で、批判も少なくない。彼の記述には、実際には確認できない祭礼の工程が複数含まれているとされ、弟子の間では「牧原は事実を盛るのではなく、村を整えてしまう」と評された。また、彼が提案した境界確認の儀式は、現代の法実務には適合しないため、あくまで歴史研究上の概念として扱われている。
それでもなお、長野県や岐阜県の一部自治体では、地名保存運動の文脈で彼の名が引用される。とりわけ2008年に発見された未整理ノートには、土地台帳の余白に「境は人が覚える」と大書されており、これが彼の思想を象徴する一句として広まった。
系譜・家族[編集]
牧原家は江戸時代末期からで山林管理に携わった家系とされ、祖父の牧原半右衛門は村有林の境界石を管理していたという。父・喜三郎は実務家で、母・とみは近隣の産婆から地名の由来話を集めるのが趣味であったため、治親は両親から「記録」と「口伝」の双方を受け継いだことになる。
妻は、旧姓で、の薬種商の娘であった。二人の間には長男・、長女・の二児がいたとされ、治夫は父の死後に遺稿の整理を担当した。なお、家族写真には常に犬が一匹写り込んでおり、これは牧原が境界調査の際に連れて歩いた「境見犬」ではないかとする説があるが、裏付けは弱い。
親族の一部は戦後に東京へ移住したため、牧原の資料は各地に分散した。その結果、彼のノートの綴じ順が親族ごとに違っていたことが判明し、後年の編集者は復元にを要したという。
脚注[編集]
[1] 『信州民俗人物事典』では民俗学者としているが、地域調停人の側面を強調する研究もある。
[2] 牧原治親『半自叙伝ノート』草稿第3冊、未公刊。
[3] 境界儀礼の具体的な分類数については、研究者により説と説があり、統一されていない。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 牧原治夫『牧原治親遺稿集 第一巻』信濃書房, 1972.
- ^ 高瀬久蔵『山村境界の礼と沈黙』地方史研究会, 1938, pp. 41-88.
- ^ 西園寺澄雄「境界儀礼の再構成」『民俗と自治』Vol. 12, No. 4, 1954, pp. 211-233.
- ^ 林田美登里『聞き取りの作法とその周辺』岩波書店, 1986.
- ^ 信州大学人文学部編『伊那谷民俗調査資料目録』信州大学出版会, 1991.
- ^ Robert K. Ellison, “Boundary Rituals in Mountain Villages,” Journal of Comparative Folklore, Vol. 8, No. 2, 1961, pp. 99-127.
- ^ 田島正彦「地名併記制度の史的展開」『自治研究』第58巻第3号, 1977, pp. 14-39.
- ^ Margaret A. Thornton, “Silence and Settlement: Makihara’s Method,” Annals of Rural Studies, Vol. 19, No. 1, 1994, pp. 1-26.
- ^ 牧原治親『合併後地名の保存技法』信濃毎日新聞社, 1951.
- ^ 小松原礼子『境の人類学――牧原治親小考』青木書店, 2003.
外部リンク
- 信州民俗アーカイブ
- 山村文化研究所
- 長野地域史データベース
- 境界儀礼資料室
- 牧原治親記念館