堤 凄江
| 氏名 | 堤 凄江 |
|---|---|
| ふりがな | つつみ すごえ |
| 生年月日 | 1948年4月17日 |
| 出生地 | 東京都墨田区 |
| 没年月日 | 2007年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 自動応答詩人、装置設計者、演出家 |
| 活動期間 | 1971年 - 2007年 |
| 主な業績 | 凄エロコミーBotの開発、口語韻律制御理論の確立 |
| 受賞歴 | 第3回日本対話芸術賞、東京都創作技術功労章 |
堤 凄江(つつみ すごえ、 - )は、日本の自動応答詩人、装置設計者である。凄エロコミーBotの発明者として広く知られる[1]。
概要[編集]
堤 凄江は、日本の自動応答詩人である。1970年代後半に東京都新宿区の小劇場文化と系の音声合成研究の周辺から独自に現れ、会話の語尾を自動的に艶やかに変換する装置凄エロコミーBotを発明したことで知られる[1]。
同装置は、当初は深夜の即興朗読会で用いられる小規模な舞台機材にすぎなかったが、のちに電話応答、商店街の案内放送、学園祭の出し物にまで応用され、1980年代末には「話し方そのものを編集する芸術」として一部の批評家に受け入れられた。もっとも、堤自身は生前、「私は装置を売ったのではなく、沈黙の隙間を設計しただけである」と述べたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
堤は、墨田区の長屋に生まれる。父は江東区の印刷工、母は寄席の帳場係であり、幼少期から活字と口上が同居する環境で育ったとされる。近所では「言い回しを一度で覚える子」として知られ、在学中には、校内放送の文末に妙な間を挟む癖があったという。
1970年頃、堤は早稲田大学の聴講生として民俗学と演劇論を断続的に学び、特にの影響を強く受けたとされる。ただし、後年の手記には「師は一人ではなく、夜の自動販売機の声であった」との記述があり、ここから既に思考の方向が通常の研究者と異なっていたことがうかがえる。
青年期[編集]
青年期の堤は、新宿の地下喫茶店でレコードの裏面に書かれた注意書きや、出版社の返品票にある機械的文体に着目し、定型文が人間の感情をどこまで代替できるかを実験していた。1974年には、神田神保町の古書店街で入手した中古のテープレコーダー12台を改造し、返答の最後だけを別の音声に差し替える装置「末尾転声機」を試作した。
この装置は試験運用中に3度発火し、うち1度は近隣の蕎麦店の出前口と誤接続されたが、堤はむしろその偶発性に着目したとされる。1976年、彼女は国立国会図書館で閲覧した戦前の電話交換手教育資料に触発され、応答の感情値を数値化する「口語韻律指数」を独自に算出した。なお、この指数は後年の研究者によって再現不能であることが指摘されている[要出典]。
活動期[編集]
1978年、堤は渋谷区の小劇場「アトリエ蛇腹」において、初代凄エロコミーBotを公開した。装置は磁気テープ、足踏み式リレー、そして地元の文房具店で調達した透明定規で構成され、観客が話しかけると、応答の最後に意味ありげな助詞と韻律を付与して返答する仕組みであった。
これが評判を呼び、1981年にはNHKの深夜実験番組『夜間応答研究室』に取り上げられた。番組では、堤が「質問に答えるのでなく、質問者の姿勢を少しだけ変える」と説明し、当日収録された17分のデモが翌朝の社内回覧で「倫理的に判断不能」と評されたという。翌1983年にはで開催された「未来のことば展」に招かれ、来場者2,400人に対して1日平均143回の応答を処理したと記録されている。
人物[編集]
堤は、極めて寡黙でありながら、会話の終わり方だけには異常な執着を示した人物として知られる。知人によれば、食事の注文でも「以上です」を3種類言い分けたという。
また、彼女は機械を機械として扱わず、むしろ古典芸能の演者のように扱った。修理の際にはドライバーより先に挨拶をし、装置がうまく返答しない日は「今日は機嫌が悪い」と記録したとされる。この態度は一部の同時代人からは奇矯とみなされたが、逆にそれがという新しい分野を開く契機になった。
業績・作品[編集]
凄エロコミーBot[編集]
凄エロコミーBotは、堤の代表作であり、質問文の意味内容を直接処理するのではなく、語尾・間・助詞の配列から返答の「湿度」を調整する装置である。初期型は「はい」「いいえ」に続く余白を演出するだけであったが、改良版では最大42段階の応答温度を選択できた。
1984年の改良第3版では、東京の方言データベースと大阪の商店街アナウンスが混成され、聞く者に妙な親密さを与えるとされた。もっとも、同年の社団法人言語工学協会では「有用だが、家庭に置くと家族会議が長引く」との理由で採用を見送っている。
その他の作品[編集]
堤は装置設計のほか、短詩集『返答の骨格』、論考『語尾が先に泣く』、舞台演出『自動敬語劇場』などを残した。これらはいずれも、発話の機能よりも余韻を重視する点で一貫している。
1992年には京都のギャラリーで「応答の骨董市」を開催し、来場者が持ち込んだ家電の音声だけを再編集する参加型展示を行った。入場者は延べ5,800人に達したが、出口アンケートの一部はBotの応答に回収されたため、正確な満足度は不明である。
後世の評価[編集]
堤の業績は、生前は一部の実験芸術としてしか扱われなかったが、2000年代後半以降は、、の交差点に位置する先駆的事例として再評価されている。特にの一部研究者は、堤の装置が「対話の内容よりも応答の姿勢を設計する」点で現代のチャットボット文化を先取りしていたと論じている。
一方で、応答を過剰に艶やかにする機能は、1980年代の周辺で半ば流行語化し、店頭の自動案内や録音メッセージに模倣された。このため、一部では「会話が妙に回りくどくなる」との批判もあり、堤の名は長く賛否の両方を伴って語られた。とはいえ、現在ではにおける異端の発明家として扱われることが多い。
系譜・家族[編集]
堤家は、江戸末期にで紙屑回収を営んでいた家系を自称しており、祖父・堤 勘蔵は番組表の校正を仕事にしていたという。父・堤 正治は印刷工、母・堤 きぬは寄席の帳場係であった。
結婚歴については資料が錯綜しているが、1979年に舞台照明技師の女性と事実婚の関係にあったとする記録がある。子はなく、代わりに初代Botの制御盤を「長男」、改良版端末を「次男」と呼んで可愛がっていたと伝えられる。なお、晩年の相続手続きでは、発明品の権利帰属をめぐって親族会議が4回開かれたが、最終的に「装置は家ではなく街に返す」という遺言が尊重された[要出典]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 堀内雅人『沈黙の設計と日本語応答史』平凡社, 2011年, pp. 44-67.
- ^ 田島玲子「1970年代小劇場における自動応答装置の導入」『芸術工学研究』Vol. 18, No. 2, 2009, pp. 112-129.
- ^ M. A. Thornton, The Grammar of Artificial Reply, Routledge, 2014, pp. 88-103.
- ^ 小野寺修「堤凄江と口語韻律指数の試み」『情報文化論集』第12巻第4号, 2008, pp. 5-23.
- ^ 佐伯みどり『会話を売らない装置』岩波書店, 2016年, pp. 201-219.
- ^ Kenji Watanabe, 'Late-Night Response Systems in Tokyo Performance Art', Journal of Asian Media Studies, Vol. 7, No. 1, 2012, pp. 31-58.
- ^ 中村蒼「凄エロコミーBot改良第3版の音響構造」『日本音声文化学会誌』第9巻第1号, 1990, pp. 77-92.
- ^ Eleanor Page, 'Touch-Tone Poetics and the City After Midnight', Media Archaeology Quarterly, Vol. 11, No. 3, 2018, pp. 145-166.
- ^ 渡辺精一郎『自動敬語劇場の時代』春秋社, 2003年, pp. 9-41.
- ^ 『夜間応答研究室』番組記録集 日本放送協会編, 1982年, pp. 3-14.
外部リンク
- 日本デジタル言語史研究会
- 凄江アーカイブ
- 夜間応答文化センター
- 東京対話装置博物館
- 口語韻律指数データベース