名塚 寅夫
| 氏名 | 名塚 寅夫 |
|---|---|
| ふりがな | なづか とらお |
| 生年月日 | 1898年4月17日 |
| 出生地 | 兵庫県姫路市船場 |
| 没年月日 | 1974年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民間気象工学者、記録設計家、講師 |
| 活動期間 | 1921年 - 1968年 |
| 主な業績 | 風向符号体系の考案、竜巻予兆帳の普及、避難標語の定型化 |
| 受賞歴 | 帝都防災奨励章、関西記録協会特別表彰 |
名塚 寅夫(なづか とらお、 - 1974年)は、日本の民間気象工学者、災害記録設計家である。独自のとの編纂者として広く知られる[1]。
概要[編集]
名塚 寅夫は、大正末期から昭和中期にかけて活動した日本の民間気象工学者である。特に、兵庫県内の漁村と大阪府の工場地帯で観測された突風を、独自の符号で記録し続けたことで知られる。
彼の名は一般にはの編者として記憶されているが、実際には阪神沿岸の小学校に導入された「風の色分け教本」や、内務省系の防災講習会で用いられた壁掛け図の設計にも関わったとされる。なお、本人は生涯を通じて「気象は予報するものではなく、先回りして驚くものである」と述べたと伝えられている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
名塚は、の船場地区に生まれる。父は紙問屋に勤める帳場役で、母は裁縫の内職をしながら近隣の天気を日記に書き留めていたとされる。幼少期の名塚は、雨の日にのみ商家の戸袋へ入る風の鳴り方を記録しており、これが後年の観測癖の原点になったという。
には、の理科担当であった西本辰吉に目を掛けられ、温度計の目盛りを自作させられている。ここで用いた目盛りは七分ごとに色が変わる奇妙なもので、のちに名塚が提唱するの萌芽であったとされる[3]。
青年期[編集]
、名塚は夜間部に進み、金属加工よりも記録帳の紙質のほうに強い関心を示した。卒業論文は「紙面吸湿率と低気圧時の筆圧変動」と題され、判読に困るとして教員会で一度差し戻されたという。
その後、の気象欄の下請け整理係として働き、港湾から送られてくる断片的な風報を分類した。ここで彼は、側の漁師が用いる「北西の怒り」「南の眠り」といった口伝を、官庁向けの表記に置き換える仕事を任され、のちのが形成されたとされる。
活動期[編集]
、名塚は自費で『風向符号早見表』を刊行し、の周辺で小さな話題になった。表はAからまでの13記号で風の癖を記すもので、は「曲がって戻る風」と定義され、実務者のあいだで賛否が分かれた。
1934年には神戸市の防災講習会で『竜巻予兆帳』初版を配布し、から吹き下ろす強風の前に起きるとされた「戸締まりの遅れ」「茶碗の縁の乾き方」など37項目を整理した。講習会は当初12名の参加者で始まったが、近隣の町内会まで巻き込んで最終的に193名が出席したと記録されている[4]。
1941年以降は内務省関連の講習資料に協力し、東京・横浜・名古屋の三都市で配布された『避難標語三十六案』を監修した。ただし、標語の一部は「風が来る前に、壺を見よ」「窓より先に、鍋を数えよ」など意味が取りづらく、当時から要出典の議論を呼んだという。
人物[編集]
名塚は几帳面である一方、妙に語感を重んじる人物であったとされる。数字の整合よりも、文章を口に出したときの「風通しのよさ」を優先し、会議では必ず三度うなずいてから発言したという。
また、茶碗の置き位置や障子の開閉角度から天候を読み取ろうとする癖があり、弟子たちには「気圧計を見る前に湯のみを見るべし」と教えていた。これが後年、の先駆とみなされる一方で、家庭内では単なる変人として扱われていたという記録もある[5]。
逸話として有名なのは、の講演で停電が起きた際、名塚が「今の暗さは雨ではなく、風の礼儀である」と言って聴衆を沈黙させた件である。なお、この発言を記した速記録は現存するが、原文の一部が墨で消されており、編集者の手が入った可能性が指摘されている。
業績・作品[編集]
名塚の業績として最も重要なのは、の確立である。これは、風を単に方位で示すのではなく、匂い・音・戸の揺れ方まで含めて記号化する方式で、までに関西圏の防災講習で約480回使用されたとされる。
代表作『竜巻予兆帳』は、初版から第4版までに計1万2,400部が配布されたと見積もられている。各項目には「犬が庭を一周する」「洗濯ばさみが一つだけ外れる」などの観察項目が並び、後年の研究者からは経験則として有効なものと、ほとんど風がなくても起きるものが混在していると評された。
ほかに『避難標語三十六案』『港湾風圧略図』『風はなぜ、先に謝るのか』などがあり、いずれもの資料室や地方新聞の縮刷版で断片的に確認される。なお、『港湾風圧略図』にはの造成前の海岸線が妙に詳しく描かれており、のちの版で補筆された可能性がある。
名塚の仕事は、現代のやの前史として紹介されることがあるが、実際には「観測を市民語に翻訳する技術」として再評価された面が大きい。とりわけNHKの地方防災番組が1970年代に彼の図版を参考にしたことで、遅れて一般化したとされる。
後世の評価[編集]
戦後しばらくの名塚は、民間伝承に近い人物として半ば忘れられていた。しかしにが遺稿を整理してからは、地域気象史における重要人物として扱われるようになった。
評価は分かれており、実務家からは「数字の怪しい書き手」と批判される一方、教育関係者からは「災害を怖がらせすぎず、しかし軽く扱わせない語り口」が高く評価されている。特にの一部研究では、名塚の符号は精密な予報のためというより、住民の行動を揃えるための社会装置だったと分析されている。
一方で、彼の講習録に出てくる「風は村の耳を借りる」という句は、出典が確認できず、本人の創作か後代の付会かで意見が割れている。もっとも、この曖昧さ自体が名塚の魅力であるとする研究者も多い。
系譜・家族[編集]
名塚家は江戸時代からの商家として続いたとされ、父・名塚久右衛門、母・ふさの二人の子として生まれた。姉に文子、弟に松三郎がいたと記録されるが、同時代の戸籍に一致しない点もあり、家系図の一部は後年の整理過程で整えられた可能性がある。
妻はに結婚した名塚とし江で、の織物店の出身であった。とし江は帳面の整頓に長け、名塚の膨大な観測ノートを巻ごとに色分けしたことで知られる。長男・寅次は大阪府の気象通報所に勤め、次女・百合は神戸市で小学校教員となったという。
なお、名塚の孫にあたる人物がに『祖父は天気を売っていた』という回想録を準備したが、出版寸前で中止されたと伝えられている。理由は「家族の見解が三通りあったため」とされ、名塚家らしい結末である。
脚注[編集]
[1] 名塚寅夫『風向符号早見表』初版序文、1928年。
[2] 田中栄一「都市防災と民間観測の接点」『関西災害史研究』Vol. 12, No. 2, pp. 41-67, 1986年。
[3] 西本辰吉「風圧教育の試み」『姫路理科教育雑誌』第4巻第1号, pp. 8-19, 1910年。
[4] 神戸市防災課編『昭和九年 防災講習記録』神戸市役所資料室, 1934年。
[5] Margaret A. Thornton, "Domestic Instruments and Weather Reading in Prewar Japan," Journal of Applied Folk Meteorology, Vol. 7, No. 4, pp. 201-229, 1992.
脚注
- ^ 名塚寅夫『風向符号早見表』風書房, 1928年.
- ^ 名塚寅夫『竜巻予兆帳 第一版』名塚風書房, 1934年.
- ^ 神戸市防災課編『昭和九年 防災講習記録』神戸市役所資料室, 1934年.
- ^ 西本辰吉「風圧教育の試み」『姫路理科教育雑誌』第4巻第1号, pp. 8-19, 1910年.
- ^ 田中栄一「都市防災と民間観測の接点」『関西災害史研究』Vol. 12, No. 2, pp. 41-67, 1986年.
- ^ Harold P. Winchell, "Sign Systems for Gust Narratives," Proceedings of the East Asia Weather Society, Vol. 3, No. 1, pp. 55-78, 1957.
- ^ 佐伯静男『風と帳面――昭和前期の記録文化』新潮社, 1979年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Domestic Instruments and Weather Reading in Prewar Japan," Journal of Applied Folk Meteorology, Vol. 7, No. 4, pp. 201-229, 1992.
- ^ 関西防災史研究会編『名塚寅夫資料目録』関西防災史研究会刊, 1984年.
- ^ 岡村冬彦「名塚式標語の修辞構造」『防災と言語』第2巻第3号, pp. 90-111, 2001年.
外部リンク
- 名塚風書房アーカイブ
- 関西防災史研究会デジタル館
- 昭和前期気象記号資料集
- 神戸地方記録図書室
- 生活気象学普及協会