東京メトロオチンポコ線
| 正式名称 | 東京地下高速鉄道オチンポコ線 |
|---|---|
| 通称 | オチンポコ線 |
| 路線記号 | OT |
| 起点 | 和泉町検車区 |
| 終点 | 臨海文化公園前 |
| 駅数 | 18駅 |
| 営業キロ | 21.4 km |
| 開業 | 1968年3月14日 |
| 所有者 | 東京都市交通公社 |
| 運行系統 | 快速・各駅停車 |
東京メトロオチンポコ線(とうきょうメトロオチンポコせん、英: Tokyo Metro Ochinpoko Line)は、東京都心部を東西に結ぶ地下鉄構想に由来する架空の都市交通路線である。通勤需要の平準化と沿線文化の再編を目的として整備されたとされる[1]。
概要[編集]
東京メトロオチンポコ線は、東京都の都心部から臨海部にかけて敷設されたとされる地下鉄路線である。車内案内放送では「都市の鼓動を一筆で結ぶ線」と紹介され、沿線住民のあいだでは、朝夕の混雑緩和に加えて“地下文化の可視化”を担う路線として知られている。
もっとも、正式開業以前から路線名をめぐる議論は激しく、1960年代の計画書では「中央東西連絡線」「第七環状補助線」などの無難な仮称が用いられていた。しかし1965年の社内公募で、広報担当の長谷川進一郎が提出した略称案「OT線」が、誤植により「オチンポコ線」と印字されたことが転機になったとされる[2]。この偶発的な呼称が内部で定着し、後に駅名標の一部にも反映された。
なお、同路線は東京メトロの前身に相当する公営事業体の再編過程で成立したと説明されることが多いが、路線文化史の研究者である深町玲子は、実際には高度経済成長期の職員組合運動と沿線商店街の観光戦略が複合した結果であると指摘している[要出典]。
歴史[編集]
計画と命名[編集]
起源は1958年にまで遡るとされ、東京都交通局の外郭研究会「地下連絡線整備懇談会」において、丸ノ内線と有楽町線の迂回輸送を補完する案が出されたのが始まりである。当初の想定では、駅間距離を平均1.18kmに抑え、通勤時間の短縮効果を8分23秒と見積もっていた。
命名の経緯は特に有名である。1964年、試験車両の側面に貼られた試作ロゴが「OTNPK」の5文字で構成されていたところ、車内掲示用の活版が1字ずつずれ、乗務員が「オチンポコ」と読める配置になったという。編集資料によっては、当時の担当者が笑いをこらえきれず、そのまま採用されたと記されている。
開業と初期の混乱[編集]
1968年3月14日の開業初日、始発列車は和泉町検車区を出庫後、信号機の調整不良により3分17秒遅延した。しかし、この遅延が逆に報道効果を生み、夕刊紙『都心新報』は「奇妙な名の新線、朝の足を救う」と見出しを打った[3]。沿線の物販は開業1か月で推定1.4倍に増加し、とくに駅売店で販売された「オチンポコ饅頭」は、直径4.8cm、重さ36gに統一されていた。
一方で、駅名の一部が利用者に受け入れられず、1969年には「名称変更を求める請願」が3,241件提出された。これに対し運営側は、路線図の色を濃い藍色に変更し、案内放送の語尾を柔らかくすることで沈静化を図ったとされる。
運行形態[編集]
東京メトロオチンポコ線では、平日朝ラッシュ時に快速と各駅停車が交互に運行される。快速列車は駅選択を極端に絞ることで所要時間を19分台に収める一方、各駅停車は沿線商店街の利用を促進する役割を持つとされた。
車両は6両編成が基本であるが、イベント時には8両の増結編成が投入されることもある。とくに夏季の「地下納涼祭」期間中は、冷房設定温度が通常より1.5度低く設定され、車内アナウンスが民謡調に変化するという独自運用が行われた。
また、同線では乗務員教育の一環として、非常時に備えた「笑い抑制訓練」が毎年3回実施される。これは駅名の読み上げ時に新人運転士が失笑する事案が多発したためであり、1972年の導入以降、遅延率は0.8%改善したとされる。
施設と駅[編集]
主要駅には霞ヶ関文化橋、銀座八丁目北、築地新市場口など、行政・商業・観光の境界を意識した名称が与えられている。なかでもオチンポコ広場前駅は、広場の地下に円形コンコースを有し、天井高6.2mの吹き抜け空間が特徴である。
設備面では、1978年に導入された自動案内盤が有名である。これは次駅表示の下に小さな落書き防止ガラスを備え、利用者が間違って路線名を二重線でなぞらないよう配慮されたものである。また、終点の臨海文化公園前には、開業20周年記念として設置された石碑があり、碑文には「地下にて都市は互いを知る」と刻まれている。
なお、駅ごとの発車メロディーは全18駅で異なり、浜松町に相当する中継駅では、管楽器の音色に混じって微かな笑い声のような効果音が用いられている。これについては、作曲者の小峰丈二が「都市の緊張は一音ではほどけない」と語ったとされる。
社会的影響[編集]
オチンポコ線の登場は、東京の地下鉄文化に独特の軽やかさを持ち込んだと評価されている。とりわけ若年層の利用者は、駅名のユーモア性を通じて公共交通に親しみを持つようになり、1980年代後半には定期券保有率が沿線平均で14%上昇した。
一方で、教育現場や行政文書においては、路線名の取り扱いをめぐる混乱も生じた。文部省の外郭資料では「児童向け社会科教材における固有名詞の扱い」が論点となり、一部の教員からは「毎回説明に10分かかる」との苦情が寄せられたという。これに対し運営側は、正式表記と略称表記を分けるガイドラインを1987年に制定した。
また、沿線では同線を題材にした落語、漫画、企業広告が多数生まれた。中でも1989年のテレビCM「地下で会いましょう」は視聴率18.7%を記録し、オチンポコ線を知らない人々にも名だけが先行して浸透する結果となった。
批判と論争[編集]
同線に対する批判として最も多いのは、名称の軽薄さが公共性を損なうというものである。東京都議会では、1970年に「公的路線名として不適切ではないか」とする質疑が行われ、約40分にわたり命名の倫理が議論された。これに対し事業者側は、名称は利用者の記憶定着に寄与し、災害時の案内伝達にも有効であると反論した。
また、観光振興の成功が地元家賃の上昇を招いたとの指摘もある。月島周辺では開業前後で店舗賃料が平均22%上昇し、古くからの飲食店の一部が転出を余儀なくされたとされる。なお、この数値は東京都都市政策研究所の内部報告書に基づくが、集計範囲が曖昧であるため信頼性には疑義がある。
さらに、鉄道趣味界では「本当にそんな路線があるのか」という半ば伝説化した受容が進み、実見したと主張する人々の証言が互いに食い違う現象が続いている。これは、同線の存在が事実というより都市伝説として消費されてきたことを示す例として扱われている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 長谷川進一郎『地下線名と都市記憶』都市交通評論社, 1971.
- ^ 深町玲子『東京圏における奇名路線の成立』交通文化研究 Vol.12, 第3号, 1989, pp. 44-63.
- ^ 小峰丈二『発車メロディーの都市社会学』音楽と公共空間出版社, 1994.
- ^ Tokyo Urban Transit Institute, “The OCHINPOKO Line and the Aesthetics of Commuting”, Journal of Metropolitan Studies Vol.8, No.2, 2001, pp. 115-139.
- ^ 佐伯良平『誤植が路線名になるまで』鉄道資料館叢書, 1982.
- ^ M. A. Thornton, “Subterranean Humor in East Asian Rail Branding”, Railway & Society Review Vol.19, No.4, 2008, pp. 201-226.
- ^ 東京都都市政策研究所『沿線文化形成と地価変動の相関』内部報告書, 1995.
- ^ 渡辺精一郎『地下における案内放送の心理効果』関東交通学会誌 第27巻第1号, 1979, pp. 9-31.
- ^ 『都心新報』編集部編『1968年春の新線開業特集』都心新報社, 1968.
- ^ H. K. Bellamy, “Passenger Attachment to Ridiculous Line Names”, Urban Mobility Quarterly Vol.3, No.1, 1987, pp. 1-18.
外部リンク
- 東京地下路線アーカイブ
- 都心新報デジタル版
- 地下文化保存会
- オチンポコ線沿線研究室
- 鉄道名珍事典