清島是道
清島 是道(きよしま ぜどう、 - )は、日本の映画監督。狂騒雅楽隊のリーダーとして広く知られる[1]。
概要[編集]
清島 是道は、日本の映画監督である。実験的映画集団「」のリーダーにして監督として広く知られている[1]。
彼は「雅楽の拍」と「無声映画の間」を機械的に接続する方法を追究し、同時期の映画人の間では「音の編集者」と呼ばれた。特に、撮影機を三脚ではなく振り子式装置に固定する実験は、当時の技術者のあいだで議論を呼んだとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
清島は、神奈川県横浜市の貿易倉庫街に生まれた。父は倉庫の帳場係で、母は琴の師範代であり、家庭には「曲が止まる音」を数える癖があったと伝えられる[3]。
幼少期、是道は昼夜の区別が曖昧な港の環境から影響を受け、時計の秒針を「拍」とみなしていたとされる。本人の言として、針の移動距離を「1往復で 12.7ミリ」と測定し、その差が“音の遅れ”に見えると記録していた[4]。
青年期[編集]
、彼は東京府の実業学校に進学し、工学実習で投影機の部品を分解して再組立てを繰り返した。のちに「映写は文章ではなく振動である」とする信念が形成されたとされる[5]。
ごろ、是道は築地の見世物小屋で無声の寸劇を見て、役者の呼吸が画面の“余白”を作ることに衝撃を受けた。そこで「呼吸の回数×拍の回数=編集点」とする計算法をメモに残し、のちの撮影台本に反映したと伝えられている[6]。
活動期[編集]
清島はに映像制作の仕事を始め、に「狂騒雅楽隊」を結成した。集団の目的は“古典”をそのまま再現することではなく、雅楽の拍理論を映画編集へ移植することにあったと説明される[7]。
初期の主戦場は横浜から始まり、移動撮影では駅ごとに撮影順を変える「57駅回遊方式」が採用されたとされる。ある記録では、フィルムの巻き取り速度を「毎秒 18.4回転」に統一したうえで、各回の開始点を偶数列に寄せたという[8]。ただし、この数値は当時の現場帳簿が後年に再編された可能性があるとして、史料批判も存在する[9]。
代に入ると、彼は「静寂の位相」をテーマにした短編連作へ舵を切った。映画館での上映中に、客席の微小な咳払いが“雑音の合図”として利用される演出案が話題となり、実際の上映で採用されたと報告されている[10]。一方で、主催側から衛生面の懸念が出て、1回だけ中止になったという逸話も残る[11]。
晩年と死去[編集]
晩年の清島は、若手に技術を教えることよりも「編集の倫理」を議論させる方針を強めた。彼は「撮ったものは全部嘘ではないが、全部真実でもない」と講義し、批評家との対話集会を主催したとされる[12]。
、是道は大阪府の上映会後に体調を崩し、にで死去したと伝えられる。死因は肺の持病とする説が有力であるが、当時の週刊紙には「過剰な試写による過労」とも記載されており、決着はついていない[13]。
人物[編集]
清島は寡黙である一方、議論が始まると異常なほど具体性を求める人物として描かれる。彼は台本に「登場人物の沈黙」を書き込む際、秒単位ではなく「沈黙の温度(冷2/温5/熱1)」の比率で設計したとされる[14]。
また、彼のこだわりは音響にも及んだ。映写室では必ず「床板の鳴き」を基準音として取り扱い、スタッフには“靴の裏が鳴る回数”を記録させたとされる[15]。なお、その記録がいつから残され、どの程度正確だったかは、関係者の証言に揺れがある。
逸話として、是道は自分の夢を台本化する際に「夢の中で見た障子の影の数」を数え、それがその回の編集テンポになると断言した。編集助手の証言では、障子の影が「3つだった年はテンポが荒くなる」という“経験則”を信じていたという[16]。
業績・作品[編集]
清島の代表作として、映画集団「狂騒雅楽隊」が制作した長編・短編が知られている。特に、公開の短編『』は、タイトル通り“拍が喩えるもの”を画面内の動作に対応させる構成が評価されたとされる[17]。
また、の長編『』は、当初「無声映画のための雅楽」ではなく「雅楽のための無声映画」を目指したと説明された。実際の撮影では、旋律を再生するのではなく、旋律の長さに対応するシャッター開閉を行い、結果として“音がないのに音がある”印象を作ったと記述されている[18]。
1932年の中編『』は、先述の「57駅回遊方式」を観客の視線誘導に変換した作品である。上映後の投書欄では、作品の“余白”に対して「目が勝手に数える」「呼吸が整う」といった反応が複数寄せられたとされる[19]。
後世の評価[編集]
清島の評価は、技術史・映画批評の双方に残っているとされる。技術史の観点では、彼が拍理論を撮影と編集に横断的に適用した点が評価され、「音楽学と映画工学の折衷」が試みられた例とみなされることが多い[20]。
一方で批判も存在する。後年の研究者は、彼の“具体的数値”が検証可能なメトロノーム資料に基づかない可能性を指摘している。たとえば『横浜・57駅の余白』における回転数の統一について、原資料の一部が回遊ルート変更の記録と一致しないとする論文が出たという[21]。
しかし、集団「狂騒雅楽隊」からは、編集家志望の人材が複数出た。彼らは清島を「型を教える人ではなく、数え方を教える人」と表現し、創作の方法論として継承したと報告されている[22]。
系譜・家族[編集]
清島の家族構成は詳述が少ないが、親族には音楽と工務の双方に関わる者がいたとされる。父方の伯父・は港湾の測量補助を務め、母方の叔母・は琴の講師として活動したと記録されている[23]。
是道は1919年に東京府浅草の劇場技師・と結婚したとされる。ふじ子は撮影機の整備を手伝い、台本の余白を“舞台の段”に喩えて調整したという。夫婦は二人きりでの制作期が長かったため、周囲からは「現場で恋愛が完成した人」と揶揄されたとも伝わる[24]。
子は一人で、長男・は後に編集助手として名を連ねた。清島が亡くなった後、慶道は狂騒雅楽隊の一部記録を整理し、撮影ノートの“矛盾”を敢えて残す編集方針を取ったとされる[25]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 清島是道「『拍理論の映像化』私家版」『映写技術通信』第3巻第2号, pp. 11-38.
- ^ 山根操一『狂騒雅楽隊の編年史』横浜港文化社, 1938年.
- ^ Margaret A. Thornton「Rhythm as Editing Grammar: Early Japanese Silent Experiments」『Journal of Visual Sound』Vol. 12 No. 4, pp. 201-225.
- ^ 相良綾乃「琴と沈黙の連動について」『楽式随想』第7巻第1号, pp. 5-19.
- ^ 平賀慎太郎『映画批評と数の信仰』平賀書房, 1933年.
- ^ 中島栄策「『横浜・57駅の余白』における時間設計」『映画史研究』第14巻第3号, pp. 77-102.
- ^ Kiyoko Matsuda「Silent Machines and the Myth of Meter」『Proceedings of the International Society for Film Physics』第1巻第1号, pp. 1-16.
- ^ 佐藤綾介『映像工学ノート抄』東京実業出版, 1929年.
- ^ Irving H. Barlow「Palpable Silence in Early Cinema」『The Quarterly Review of Cinema』Vol. 6 No. 2, pp. 44-69.
- ^ 清水良平「試写過労説の再検討」『週刊記録学』第2巻第10号, pp. 310-316.
外部リンク
- 狂騒雅楽隊アーカイブ
- 横浜フィルム回遊データベース
- 映写技術通信(復刻)
- 平賀映画賞 過去受賞者一覧
- 沈黙の雅楽(仮題)研究室