西の街のレーニン
| 名称 | 西の街のレーニン |
|---|---|
| 別名 | 西方のレーニン、街角のレーニン像 |
| 成立時期 | 1898年ごろ |
| 成立地 | ベルギー王国リエージュ周辺とされる |
| 分類 | 都市伝承、政治風刺、写真景観 |
| 特徴 | 西向きの帽子、斜めに傾く外套、掲示板を読む習慣 |
| 主な記録媒体 | 新聞挿絵、観光案内、労働組合の機関紙 |
| 関連機関 | 西方都市民俗研究会 |
西の街のレーニン(にしのまちのレーニン、英: Lenin of the Western Town)は、末から初頭の都市文学に由来するとされる、およびそれを中心とする都市伝承群である。を歩く小柄な革命家像を指す語として知られている[1]。
概要[編集]
西の街のレーニンは、ヨーロッパの工業都市に見られる「西向きの革命家像」を指す伝承である。元来は人物名ではなく、や壁新聞の中で用いられた仮称であったとされるが、のちに実在の政治思想家の名を借りた象徴表現として定着した[2]。
一般には、駅前や運河沿いの広場に現れる「片手に新聞、片手にパンフレットを持つ男」として語られる。また、目撃談の多くが黄昏時に集中していることから、都市の西日が人物像を半ば彫刻化したことが起源であるとの説もある。なお、この伝承は、オランダ、の労働者地区で特に広まったとされる[3]。
成立史[編集]
リエージュ印刷工組合の覚え書き[編集]
最初期の記録は、の印刷工組合が作成した配布資料『西門に立つ男』に見えるとされる。ここでは「西の風に最もよく似合う人物」として、短い体躯と赤茶けた山高帽の男が描かれており、後世の研究者はこれを西の街のレーニンの原型とみなしている[4]。
興味深いのは、同資料の余白に「演説は三分を超えると西風に流される」と手書きされていたことである。この一文が、のちに西の街のレーニンが『長演説を嫌う革命家』として語られる要因になったとする説が有力である。
鉄道停車場の写真説[編集]
頃、近郊の鉄道停車場で撮影された集合写真に、偶然写り込んだ見知らぬ男が「西の街のレーニン」に酷似していたことから、伝承は一気に拡大した。写真の左端に立つこの人物は、当初は荷役人夫と説明されていたが、後年の拡大複写で「演説の途中で方向を変える癖」が確認されたため、半ば神話化されたという[5]。
また、この写真は第一次世界大戦後にの特別展示で再発見されたが、額縁の裏に「西の都市では思想が歩いてくる」と書かれていたことから、観光案内人が意図的に人物像を補強した可能性も指摘されている。
伝承の特徴[編集]
西の街のレーニンには、いくつかの反復的な属性がある。第一に、必ず西を向いて立つこと、第二に、周囲の建物が増えるほど帽子のつばが深くなること、第三に、の最終便が通ると消えることである。これらの特徴は、都市空間の変化を「思想の姿勢」として読み替えるの典型例とされている[6]。
一方で、伝承には明らかに作為的な面もある。例えば、の冬季に作成されたとされる観光地図では、西の街のレーニンが「旧税務署の前に毎週金曜出没」と記されているが、税務署の開庁日は月曜であったため、早くも編集段階で誇張が加えられた可能性が高い。だが、こうした矛盾こそが伝承の生命力であると評価する研究者もいる。
なお、目撃者証言の中には「彼はいつもパンの値段だけを聞いて去った」「演説の冒頭で必ず時計塔を見上げた」といった細部が見られる。これらは単なる後付けではなく、当時の都市生活における物価不安と時間規律を象徴していると解釈されることが多い。
社会的影響[編集]
労働組合への浸透[編集]
には、の一部支部が西の街のレーニンを「討論の前に沈黙を置く手本」として採用した。会議の開始前に30秒間だけ西を向く儀礼が行われた支部もあり、最盛期にはで実施されていたとされる[7]。
この習慣は、組合役員の間で「西向き沈黙」と呼ばれ、反対意見を抑える儀礼として批判される一方、初学者の緊張を和らげる効果があったともいう。
観光資源化[編集]
、の旅行会社が「西の街のレーニンの足跡をたどる半日ツアー」を企画し、これが予想外の成功を収めた。参加費はで、初年度だけでを集客したと記録されている。ツアーでは、最初に「彼が立ったとされる石畳」を見学し、次に「思想がこぼれた」とされるカフェの椅子に座るという、やけに具体的な行程が組まれていた[8]。
ただし、最後の立ち寄り先である「レーニンの影が最も長く伸びる壁」は、実際には1920年代の広告壁画であったと後に判明した。それでも観光客の満足度は高く、地元紙は「事実よりも西日のほうがよく売れる」と評した。
批判と論争[編集]
西の街のレーニンをめぐっては、早くから史料批判が行われてきた。特に1958年の民俗誌研究班は、伝承の主要資料に用いられた写真の9割が、同じ男優を角度違いで撮影したものではないかと指摘した[9]。これに対し支持派は、同一人物であることこそが「象徴の反復」を示す証拠であると反論した。
また、人物名にレーニンを冠すること自体についても議論がある。実在の思想家との直接の関係は確認されていないとされるが、は「名指しとは借用であり、借用は都市の礼儀である」との見解を示している。これに対し保守系の地方紙は、伝承が政治教育を装った商業観光であると批判した。
さらに、1976年にが公開した未整理フィルムには、西の街のレーニンが実際には二人いた可能性を示すカットが含まれていた。しかし、この「二重レーニン説」はフィルムの焼き付け不良によるものとされ、現在ではほぼ否定されている。ただし、否定されたにもかかわらず土産物店では二人組の人形が定番商品であり、論争のほうが市場価値を持った珍しい例といえる。
研究史[編集]
学術的な研究は1980年代以降に本格化した。特にの『都市の西側に立つ影』は、伝承を単なる政治風刺ではなく、日照条件・路面反射・群衆心理の複合現象として分析し、以後の標準的文献となった[10]。
日本語圏ではのが、西の街のレーニンを「輸入革命語の再地方化」として論じたことで知られる。高瀬は、港湾都市において思想がまず倉庫街に宿るという仮説を提示したが、調査票の末尾に「なお、レーニン像は風上に弱い」と記していたため、研究会ではやや笑いを取った。
近年はを用いた再現研究も進み、2014年の調査では、伝承の舞台とされる旧市街のが午後4時以降にのみ「像があるように見える」ことが確認された。もっとも、これは街路樹の影と看板の配置によるものであり、超自然的要素は支持されていない。
脚注[編集]
脚注
- ^ Marcel de Witte『The Western Statues and Urban Memory』University of Ghent Press, 1998, pp. 41-67.
- ^ 高瀬勝彦『港湾都市と思想の影』神戸港湾文化研究所, 2006, pp. 88-113.
- ^ Margaret A. Thornton, “Facing West: Crowd Rituals in Industrial Towns,” Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 3, 2011, pp. 201-229.
- ^ ルイーズ・ヴァンデンブルーク『西向きの沈黙』リェージュ民俗出版会, 1974, pp. 9-31.
- ^ Pierre J. Moreau, “An Apparition in the Tramline District,” Revue d’Histoire Imaginaire, Vol. 8, No. 2, 1963, pp. 55-72.
- ^ 西方都市民俗研究会編『西の街のレーニン資料集』第2巻第1号, 1989, pp. 14-95.
- ^ E. H. Calder, “Lenin, the Wind, and the Cathedral Wall,” Transactions of the Belgian Historical Society, Vol. 44, No. 1, 2004, pp. 3-28.
- ^ アントワーヌ・ルメール『街角の革命像考』北海学術出版社, 1959, pp. 117-140.
- ^ Sophie Verhaegen『写真の裏側にある都市』ブリュッセル大学出版局, 2016, pp. 204-238.
- ^ H. S. Whitcombe, “The Two Lenins Problem,” Proceedings of the Institute for Civic Myth, Vol. 5, No. 4, 1978, pp. 77-83.
外部リンク
- 西方都市民俗研究会
- リエージュ市立写真資料館
- ベルギー労働伝承アーカイブ
- 都市民俗学電子年報
- 西向き像保存協議会