近世〜近代型(観測写真と機関の関与)
| 分類 | 観測実務・記録技術の歴史類型 |
|---|---|
| 中心時期 | 17世紀末〜19世紀半ば |
| 主要媒体 | 観測写真(湿板〜乾板期の移行) |
| 関与の形 | 大学・測地局・自治体の共同運用 |
| 代表領域 | 気象・天体・地磁気観測 |
| 特徴 | 撮影手順が規程化され、提出様式が固定される |
| 語の成立 | 1920年代のアーカイブ学文献での整理 |
| 議論点 | 写真の「客観性」が制度によって作られるか否か |
近世〜近代型(観測写真と機関の関与)は、観測写真の撮影様式と、それを制度的に運用する機関の関与が結びついた分類型として整理された概念である[1]。特にやの文脈で、写真が記録媒体から「説明責任の装置」へと転換した過程を指すとされる[2]。
概要[編集]
近世〜近代型(観測写真と機関の関与)は、観測現場で得られる写真が、単なる証拠画像ではなく、機関が定める手続きに従って「公式記録」へと変換される様式を意味するとされる[3]。ここでの「近世」とは、制度の整備が進む以前の現場裁量が残る段階を、「近代」とは、その裁量が規則と帳簿により封じ込められる段階を指すと説明されることが多い。
この型では、撮影された写真が後から参照されるだけでなく、撮影当日にすでに提出形態・注記欄・撮影条件(露光時間、レンズ焦点、設置高など)が事前に規定されているとされる。一方で、同じ被写体(例:や)でも、機関ごとに「正しい見え方」を誘導する暗室運用や現像温度の癖が蓄積し、結果として写真の客観性が揺らぐ可能性があると指摘されている[4]。
歴史[編集]
起源:湿板の手順書が生んだ「観測写真の制服」[編集]
起源はの翻訳事業を軸に、17世紀末に「天体観測の星図」を作るための撮影手順が文書化されたことにあるとされる[5]。当初、写真は観測者の個人技として扱われたが、写しの品質が不安定であることから、の前身組織が「提出写真は寸法と注記が一致していなければ受理しない」規程を導入したとされる。
この段階で、湿板の扱いに関する手順書が、単なる技術説明ではなく、官僚的な様式文書として整備された。たとえばの港務所に出向した技術監督官が、露光の前に「温度計を前景に入れる」ルールを作ったため、以後の写真にはやけに細い温度計が必ず写り込むようになったと語られる[6]。こうした“撮影の画角そのものを規程化する”発想が、近世〜近代型の素地を形成したと推定される。
また、18世紀後半には「観測写真の裏面に、機関コードを鉛筆で刻む」運用が始まり、写真は画像であると同時に、識別子が貼り付いた帳票へと変わったとされる。結果として、写真は自然科学の記録である以前に、機関の責任範囲を確定する手段として理解されるようになった。
発展:大学と自治体が“見せる天気”を設計した[編集]
19世紀に入ると、大学と地方自治体の共同観測が拡大し、観測写真が「公開されるが、同時に管理される」メディアとして発展したとされる。とりわけ東京府の衛生部と、帝国大学系統の研究室が連携した一連の気象写真は、観測結果の説明を目的としつつ、実質的には行政判断の根拠を視覚化する狙いがあったと記録されている[7]。
具体的には、の撮影において「雲底の高さを測る補助線」を写真内に必ず描き込むことが義務化されたとされる。ある年には、補助線の太さが0.4ミリを超えると受理されない制度があったとも伝えられるが、この細目は後年の文書整理で付け加えられた可能性があるとされる[8]。ただし、観測写真の統一が行政の説得力に直結したため、制度はむしろ強化されたとも言われる。
さらに、地磁気観測の分野では、写真の方位角がずれると機関間で比較できなくなるため、機関が設置するの向きが“標準化”され、写真の見え方が実験装置と一体化したとされる。この連動が、近世〜近代型(観測写真と機関の関与)を「分類できる歴史」に押し固めた要因になったと説明される。
社会的定着:写真が「異議申し立て」を封じる仕組みへ[編集]
近世〜近代型は、観測写真が社会に広く流通するにつれて、単なる学術資料から“異議申し立ての余地が少ない証拠”として定着していった。特に、分野での写真が、災害予測や交通規制の判断に組み込まれたことが転機であるとされる[9]。このとき機関は、写真の説明文(注記)をテンプレ化し、観測者の裁量を文章から取り除いた。
その結果、写真の見た目が同じでも、注記欄の選択が違うと別種の記録として扱われるようになった。ここに「客観性の逆説」が生まれたとされる。すなわち、写真は客観に見えるが、その客観性は機関の規程によって作られている可能性がある、という主張である[10]。この段階で「写真は機関が保証する」という理解が広まり、観測者の信頼性が機関の制度によって代替されるようになったと整理されることが多い。
なお、近年のアーカイブ研究では、近世〜近代型の写真には「撮影後の修正が疑われる微細な掻き取り」が一定割合で発見され、機関の運用上の“整合性確保”が関係している可能性が指摘されている。ただし、これを制度の悪用と断じるか、単なる保全作業と見るかで評価は割れている。
特徴[編集]
この型の特徴は、(1)撮影条件が規程化され、(2)機関が受理基準を定め、(3)写真が注記付きで流通する、という三点に整理されることが多い[11]。(1)では、露光や現像の前提が「再現可能な手順」として記述される一方で、(2)では「合格/不合格」を決める権限が機関側に集約される。
また、写真の側にも、機関の癖が現れるとされる。たとえば系の旧記録では、露光時間の欄にだけ薄い丸印が付くことがあり、これは“受理担当の押印の都合”によるものだと説明される[12]。このように、写真の見えない部分(裏面・注記・印)が、見える部分と同じ重みで扱われるため、研究者は画像だけでなく帳票を読み解く必要があるとされる。
一方で、分類の運用上の都合から、近世〜近代型としてまとめられる範囲が広がりすぎたとの批判もある。写真が機関の管理下にあったなら、ほぼすべての観測写真がこの型に吸収されうるためである。ただし、分類を“機関の関与がどこまで撮影プロセスに食い込んだか”で区別する試みもあり、そこでは「食い込み指数」を用いるという提案がなされている(ただし実装例は限定的とされる)[13]。
批判と論争[編集]
最も大きい論点は、写真が客観記録であるという前提が、機関の規程によって実質的に構築されている点にあるとされる。観測者が同じ現象を見ていても、機関が定める撮影条件や注記欄の選択肢が違えば、最終的な記録は別の“事実”になる可能性があるからである[14]。
また、写真の統一が進むほど、異常値が隠れるという指摘もある。たとえばある地方気象局では、写真のコントラストが所定値から外れると再撮影を命じ、翌月の統計にだけ“外れ写真”が残り続けたという回顧が紹介されている[15]。ただし、これは一部の機関の運用に限定された可能性があるとの反論もあり、全国的な傾向と断定することには慎重であるべきだとされる。
さらに、用語の成立過程にも疑義がある。近世〜近代型(観測写真と機関の関与)というラベルが、1920年代のアーカイブ学で流行した「分類のための分類」に由来する可能性があるとされる。つまり、写真の歴史を説明するための概念というより、整理作業の都合で後から貼られた名称ではないかという見方である[16]。一方で、そのラベルが研究の枠組みを提供したことも事実であり、論争は「概念の起源」ではなく「概念が生む視点の歪み」に移っているとも言われる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山川恒次『観測写真の様式史:帳票化された視覚』啓明書房, 1931年.
- ^ Marta A. Whitlow『Institutional Proof in Early Photographic Observations』Oxford University Press, 1948.
- ^ 佐藤緑『測地局と湿板規程:受理基準の形成』科学史研究会, 1962年.
- ^ Klaus R. Møller『From Plate to Bureaucracy: The Administrative Turn of Photography』Vol. 12, No. 3, *Journal of Visual Administration*, 1979.
- ^ 田代文之『雷雲写真の注記テンプレートと行政判断』内外出版, 1986年.
- ^ Evelyn P. Calder『Weather, Evidence, and Archive Codes』Cambridge Academic Press, 1995.
- ^ 井上勝己『帝国大学系観測網の運用手順(研究資料集)』第2巻第1号, 帝国大学出版部, 1909年.
- ^ R. H. Stenwick『Comparability of Magnetic Photographs across Institutions』*Archives of Geophysical Methods*, Vol. 7, No. 2, pp. 41-58, 2003.
- ^ 浜名秀治『アーカイブ学的分類の政治:近世〜近代型の再検討』名戸出版社, 2012年.
- ^ 松岡春樹『客観性の制度設計:観測写真が従うもの』誤字と脚注の会, 2020年.
外部リンク
- 写真様式アーカイブ(試作ポータル)
- 測候規程データベース
- 帝国観測帳票コレクション
- 湿板運用マニュアル(復刻)
- 視覚証拠の制度史フォーラム