正路 エセジェットコースター愛好家
| 氏名 | 正路 エセジェットコースター愛好家 |
|---|---|
| ふりがな | まさみち えせじぇっとこーすたーあいこうか |
| 生年月日 | 1948年4月17日 |
| 出生地 | 東京都台東区浅草 |
| 没年月日 | 2007年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 遊具評論家、擬似体験設計家、広告文案家 |
| 活動期間 | 1969年 - 2007年 |
| 主な業績 | エセジェットコースター論の提唱、仮設加速度学の整理 |
| 受賞歴 | 日本遊戯文化協会特別功労章(1999年) |
正路 エセジェットコースター愛好家(まさみち えせじぇっとこーすたーあいこうか、 - )は、日本の遊具評論家、擬似体験設計家である。国内の遊園地における「予告だけが先に独り歩きする乗り物文化」の研究者として広く知られる[1]。
概要[編集]
正路 エセジェットコースター愛好家は、東京都の遊園地文化を対象に、実在のと「見た目は高速だが実際には静止に近い」疑似遊具の差異を論じた人物である。特に末から1980年代にかけて、地方遊園地の宣伝において用いられた誇張表現を体系化したことで知られる[1]。
彼が提唱した「エセジェットコースター」とは、構造上は緩傾斜のや短距離のにすぎないが、回転看板、送風機、車体の金属音、係員の叫び声によって体感速度だけが増幅される遊具を指す。もっとも、正路本人がこの語を最初に使ったかは定かでなく、要出典とする研究者もいる。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
正路は、浅草の玩具問屋街に近い長屋に生まれる。父・正路善兵衛は周辺で看板の下書きを請け負う職人で、母・きよは縁日の射的屋を手伝っていたとされる。幼少期の正路は、近くの路地で、回送中の山車や広告塔を長時間観察し、実際に動くものより「動くと宣伝されるもの」に強い関心を示したという。
、小学校の作文で「ぼくのすきな乗り物は、まだ乗っていないのに速そうな乗り物である」と書いたことが担任の記録に残っている。これが後年の研究態度の原型になったとされるが、同級生の回想では、当時は単に乗り物酔いを極端に嫌っていただけであったという。
青年期[編集]
、に進学し、映画美術と広告心理を学ぶ。ここでという舞台装置技師に師事し、速度感を人工的に演出するための風音、照明、視界遮蔽の技法を習得したとされる。正路はのちに「遊具の本質は落下ではなく予告にある」と語ったと伝えられる。
には、神奈川県の小規模遊園地で臨時の宣伝係を務め、実際には2分未満の周回遊具を「東洋最速の連続上昇装置」と命名して客を集めた。この催事は入場者数を前年同月比で約1.8倍にしたが、終了後に苦情が37件寄せられたため、園側が文言の一部を削除した記録が残る。
活動期[編集]
、正路は自費出版の小冊子『疑似速度論』を発表し、エセジェットコースターの分類を初めて試みた。ここでは、A型「加速を聞く型」、B型「遠目にだけ高低差がある型」、C型「係員の声量で完成する型」の三類型が示され、以後の業界用語に影響したとされる。
には大阪府の遊園地計画に関与し、実現しなかった大型装置「空中急降下・試作七号」の広告文を作成した。結局、予算不足で高さが当初計画の4分の1に縮小され、正路は「縮んだぶんだけ想像が伸びた」と評したという。また、この年の現地視察で彼がメモした加速度値の一部は、後にオチのないままの会誌に転載された。
人物[編集]
正路は、几帳面である一方、説明の順序が独特で、まず結論を言わずに周辺の看板文句から話し始める癖があった。会議では「音が三割、勾配が二割、残りは社長の自信である」と発言した記録が残る。
また、遊園地の設計図を見る際には、実際のレールよりも退場口の位置を重視したという。これは彼が「帰るまでが体験である」と述べたためで、施設担当者からは合理的であると同時に面倒でもあったと評された。
逸話として有名なのは、千葉県の試験運転で安全バーの試作品に自ら乗り込み、わずか11メートルの移動にもかかわらず、終了後に「今のは心理的には富士山を越えた」と記したことである。
業績・作品[編集]
正路の業績は、実際の遊具製造というより、遊具をめぐる言語・演出・期待値の研究に集中している。代表作『疑似速度論』では、来場者の脳内で発生する加速感を「宣伝速度」と定義し、施設側の掲示物、音響、係員の口調が速度体験を左右すると論じた。
刊の『全国エセジェットコースター地図』は、北海道から九州まで127施設を調査した体裁を取りつつ、実際には45施設が「広告だけ確認済み」であった。にもかかわらず、この本は地方新聞の文化欄で取り上げられ、子ども向けの遊具特集よりも先に大人の想像力を刺激したとされる。
さらに、正路はに「仮設加速度学会」準備会を設立し、年1回の研究会で速度計ではなく腕時計の針の震えを測定するという独自の方法を採用した。参加者は最大で83名に達したが、そのうち半数近くが広告代理店関係者であったことから、学術と販促の境界を曖昧にしたとして評価と批判が分かれた。
後世の評価[編集]
正路の死後、彼の仕事は、、の三方面から再評価された。特に2014年に早稲田大学で開催されたシンポジウム「見えない加速の文化史」では、正路の小冊子が「高度成長期の地域娯楽における期待生成の一次資料」と位置づけられた[2]。
一方で、彼の理論は実証性に乏しいとして、扱いにされることも多い。ただし、地方遊園地の現場関係者からは今なお支持があり、「正路の言葉を使うと、壊れかけの装置でも少しだけ夢が売れる」と語る元支配人もいる。
には、の民間資料館で遺品展が開かれ、手書きのメモ帳に記された「客は速度ではなく、速度のふりに集まる」という一文がSNSで拡散した。もっとも、同館の学芸員はのちに「本人の原文かは断定できない」とコメントしており、ここでも正路らしい曖昧さが残った。
系譜・家族[編集]
正路家は江戸時代末期から台東区周辺で商いを続けたとされるが、詳細はあまり残っていない。祖父の正路市助はの車体塗装を請け負い、遠目に速く見える配色を研究していたと伝えられる。
父・善兵衛、母・きよのほか、妹の正路千代子が1人いた。千代子は後年、で文具店を営み、兄の著書を店頭で積極的に販促したという。正路自身は結婚しており、妻の春江との間に1男1女をもうけたが、長男は遊具設計ではなくの改造に没頭し、家族のなかで唯一「本物の速度」を追いかけたとされる。
なお、親族の証言によれば、正路は年末になると必ず浅草寺近くの回転木馬を見に行き、乗らずに音だけ聞いて帰ったという。この習慣が、彼の「見るだけで乗った気になる」研究姿勢を象徴していると評価されている。
脚注[編集]
[1] 正路本人の生前インタビューは断片的にしか残っておらず、初出の確認には限界がある。
[2] 当該シンポジウム記録は非売品であり、配布部数は27部とされる。
脚注
- ^ 正路文庫編『疑似速度論』私家版, 1972.
- ^ 田村久治『遊具広告の戦後史』文化叢書出版, 1984, pp. 118-141.
- ^ M. Kondo, “Illusory Acceleration in Provincial Amusement Parks,” Journal of Leisure Studies, Vol. 12, No. 3, 1991, pp. 44-69.
- ^ 『全国エセジェットコースター地図』正路文化研究会, 1982.
- ^ 渡辺芳雄『舞台装置と風の演出』芸能技術社, 1970, pp. 203-219.
- ^ 佐伯美奈子『見えない加速の文化史』みすず書房, 2015, pp. 77-96.
- ^ Harold E. Winch, “The Semiotics of Speed in Small-Scale Amusements,” American Journal of Recreational Anthropology, Vol. 8, No. 1, 2003, pp. 11-38.
- ^ 『仮設加速度学会会報』第4巻第2号, 1989, pp. 5-29.
- ^ 北川清一『看板に乗る人びと』青土社, 1998, pp. 155-171.
- ^ 小倉真理子『地方遊園地と先行満足の研究』東京遊戯出版, 2021, pp. 9-33.
外部リンク
- 正路文庫デジタルアーカイブ
- 仮設加速度学会
- 日本遊戯文化協会資料室
- 浅草娯楽史研究センター
- 見えない加速ミュージアム