デュプランティエ事変
| 発生日 | 1897年10月3日-1898年2月14日 |
|---|---|
| 場所 | マルセイユ港、ル・アーブル、横浜港ほか |
| 原因 | 潮位予測図の誤配布と、港湾式風向計の試作失敗 |
| 関係者 | アドリアン・デュプランティエ、、内務省海事局 |
| 結果 | 臨時の航路変更、統計帳簿の焼却、観測用塔の建替え |
| 別名 | 潮位帳事件、第三埠頭の誤作動 |
| 主な文書 | 『1898年港湾観測報告書』 |
| 影響 | 港湾測量の標準化と、事務官の風速記録義務化 |
デュプランティエ事変(デュプランティエじへん、英: Duplantier Incident)は、のフランス系技師アドリアン・デュプランティエの名に由来するとされる、とが奇妙に交差した一連の騒動である[1]。後年は、、およびにまで影響を及ぼした事件として知られている[2]。
概要[編集]
デュプランティエ事変は、にので起きたとされる行政・技術両面の混乱である。元はという海事技師が作成した潮位予測図が、誤って港湾の避難計画に組み込まれたことに始まるとされる。
事変の本質は単純な誤記であったが、当時の下では港務局、商工会議所、地方新聞、さらにはまでが介入し、結果として「潮位」と「暴動」を同じ帳簿に記載する慣行が生まれたとされている。なお、この帳簿は後にの倉庫で再発見されたが、3分の1が海水で文字不明になっていたため、研究者の間でむしろ資料価値が高まった[3]。
一般には港湾事故として説明されることが多いが、後世の研究では、当時普及し始めたとの相互運用不全が背景にあったともいわれる。もっとも、デュプランティエ本人が本当に実在したのかについては、要出典とされることがある。
背景[編集]
港湾測量の黎明[編集]
のヨーロッパ港湾では、潮位・風向・荷役量をひとまとめに管理する「三重帳簿方式」が広く採用されていた。これはロンドンの保険業界で発達した様式を港務に転用したもので、記入係が1日あたり平均47回も欄を跨ぐ必要があったため、しばしば数字の入れ替えが起きたという[4]。
デュプランティエはこの欠陥を修正するため、円形の目盛り盤に海図を重ねる独自の装置「プランシュ・オルロジック」を提案した。ところが試作1号機は湿度に弱く、から取り寄せたコルク部材が輸送中に膨張して、目盛りが3.2度ずれたまま固定されてしまったとされる。
人物と組織[編集]
中心人物とされるデュプランティエは、出身の技術者で、のちにの臨時顧問を務めたとされる。彼は勤務態度が極めて厳格で、毎朝ちょうど6時17分に観測塔へ登り、風向の変化を“文章で”記録していたという逸話が残る。
一方、側には、書記官のエティエンヌ・モローがいた。モローは計算に強かったが字が雑で、潮位図の「上昇」を「暴動」と読み違えた張本人とされる。彼が配布した誤写メモには、なぜかの地名が1行だけ紛れ込んでおり、後に「国際港湾陰謀説」の根拠として引用された[5]。
事変の経過[編集]
第一段階: 誤配布[編集]
、潮位予測図「第12号・秋季特別版」が、避難用の赤封筒に入ったまま港湾詰所へ送達された。封緘には内務省の蝋印が押されていたため、現場では軍事命令として扱われ、停泊中の汽船12隻が同時に沖へ退避した。
このとき実際には満潮まで2時間17分あったが、記録上は“高潮警報発令”として処理された。後に港務監察官が「潮位線があまりに赤かったため、誰も止められなかった」と証言している。
第二段階: 塔の転倒[編集]
混乱のさなか、観測用の木造塔が突風で傾き、上部に設置されていた風向盤がの倉庫屋根を直撃した。被害は倉庫2棟、樽184個、帳簿7冊に及んだとされるが、うち1冊はのちにの蜂蜜貯蔵記録であることが判明し、被害額の算定がさらに混迷した。
塔の倒壊そのものは小規模であったものの、これが「港湾施設の崩壊」という見出しで翌朝の新聞一面を飾ったため、事件は一気に都市問題へと拡大した。紙面ではデュプランティエの姓が“Duplanterie”と誤植され、以後その誤植版を支持する学派まで生まれた。
第三段階: 連鎖的再解釈[編集]
の気象学者ピエール・ヴァランは、この混乱を「観測情報の政治化」と批判したが、同時に自らも独自の雨量換算表を発表し、事態を複雑にした。これに対しは、港湾ごとに異なる潮位単位を廃止し、1年を通じて同一基準で管理する案を出したが、実施には3年を要した。
また、騒動の余波で地元のパン屋が臨時避難所となり、約260人がクロワッサンを食べながら退避したという記録がある。この「退避中の軽食」が、後に港湾職員の定例会議で必ず菓子が出される慣例の起源になったとされる。
社会的影響[編集]
事変の最も大きな影響は、港湾行政におけるの強化であった。以後、フランス各地の港では風速、潮位、荷役、さらには書記の昼食時間までが別々の欄に記載されるようになり、帳簿の枚数は平均で2.8倍に増加したといわれる[6]。
また、地方議会では「観測結果の口頭伝達は禁止する」との条例案が提出され、これが全国の役所で“読み上げ用の封筒”を導入するきっかけになった。封筒の表面に要点のみを朱書きする方式は、その後と日本の港でも採用されたとされる。
文化面では、この事件を題材にした風刺画がパリで流行し、デュプランティエを長い定規を持った海神として描く図像が定着した。さらに、地方新聞の誤報を戒める意味で「潮位の前に確認せよ」という標語が学校教育にまで入り込んだが、実際に何を確認するのかは最後まで曖昧であった。
批判と論争[編集]
デュプランティエ事変には、当初から「そもそも事件ではなく書類事故にすぎない」とする批判があった。特にのロベール・アルマンは、1958年の論文で「事件の半分は印刷所の責任、残り半分は読解力の不足である」と述べたとされる。
一方で、の旧資料には、デュプランティエが事前に“風が赤く見える日がある”と記したメモが残されており、これを根拠に彼が異常気象を予見していたとする説もある。ただし、当該メモの赤い部分は実際にはワインの染みであった可能性が高い。
さらに、事変の被害額が記録ごとに大きく異なる点も論争の種であった。公式報告書では18万4,000フラン、商工会議所の内部文書では21万9,600フラン、地元新聞では「ほぼ港が消えた」と表現されており、いずれも厳密な比較は困難である。
後世の評価[編集]
20世紀後半になると、デュプランティエ事変は「近代行政の失敗を象徴する典型例」として扱われるようになった。とりわけやの分野では、誤配布・誤読・誤解釈が連鎖した場合の社会的コストを説明する教材として頻繁に引用されている。
また、横浜市の一部研究者は、事変の国際比較研究を行い、1890年代の日仏港湾通信に共通する“妙に自信のある書式”が問題だったと結論づけた。なお、この研究会では毎回、会場の時計を17分進めて開始する慣習があり、参加者の一部からは「デュプランティエ的である」と評された。
今日では事件そのものよりも、そこから派生した「潮位帳の二重確認」「塔の斜度検査」「書記の筆跡監査」といった制度の方が有名である。もっとも、港湾実務において最も重要な教訓は、いかなる観測図も赤封筒で送るべきではないという一点に尽きるとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ モロー, エティエンヌ『1898年港湾観測報告書』マルセイユ商工印刷所, 1899.
- ^ Armand, Robert. "The Duplantier Affair and the Bureaucracy of Tide." Journal of Maritime Administration, Vol. 14, No. 2, 1958, pp. 112-139.
- ^ ヴァラン, ピエール『潮位と書記官の政治学』リヨン大学出版局, 1924.
- ^ Dupont, Claire. "Red Envelopes and Blue Harbors: Administrative Confusion in Southern France." Revue d'Histoire Portuaire, Vol. 7, No. 1, 1971, pp. 41-68.
- ^ 佐伯 恒一『港湾測量制度史』海事文化社, 1987.
- ^ 藤堂 みどり『誤読の近代史』新潮選書, 2004.
- ^ Bennett, Charles H. "Wind, Ink, and the Third Pier." Proceedings of the International Society for Coastal Records, Vol. 22, No. 4, 1993, pp. 201-233.
- ^ 中村 玲子『書式が都市を動かす』東京港湾研究所出版会, 2011.
- ^ Lefèvre, Augustin. "Les tours d'observation et leurs dérives." Annales des Techniques Municipales, Vol. 9, No. 3, 1902, pp. 77-95.
- ^ 『Duplantier: une affaire de marée ou de papier?』Cahiers de l'Institut de Chronologie Administrative, 第3巻第1号, 1966, pp. 5-29.
外部リンク
- マルセイユ港湾史アーカイブ
- 南仏行政文書デジタル館
- 国際潮位誤配布研究会
- デュプランティエ事変記念協会
- 港湾書記官資料室