ヌチャティラス・ボンボビノス・網走・ジュニア
| 起源 | 1968年頃とされる |
|---|---|
| 発祥地 | 北海道網走市・呼人台地周辺 |
| 分類 | 寒冷地儀礼、即興隊列芸、観光演目 |
| 主な担い手 | 網走臨港青年会、旧北見文化連絡協議会 |
| 名称の由来 | ヌチャティラス=保温布、ボンボビノス=転倒抑止歩法 |
| 正式化 | 1977年の『網走冬季文化整理要綱』 |
| 代表的演目 | 三拍子旋回、氷上敬礼、ジュニア選抜行進 |
| 登録状況 | 市民俗資料台帳に準登録 |
| 備考 | 1970年代に一度だけ船上公演が行われた |
ヌチャティラス・ボンボビノス・網走・ジュニアは、北海道周辺で発祥したとされる、低温環境下での集団演技に用いられる儀礼的名称である。主として昭和後期の地域振興策の中で体系化されたとされ、近年は関連の地域文化資料にも断片的に言及がある[1]。
概要[編集]
ヌチャティラス・ボンボビノス・網走・ジュニアは、北海道東部の寒冷地で発達した、隊列移動と発声を組み合わせた半儀礼的な集団表現である。一般にはの冬季観光と結びつけて語られるが、もとは漁港荷役の安全確保と、吹雪時の視認性向上を目的とした実務的な所作群であったとされる[2]。
名称が長大であるためしばしば戯画化されるが、当時の行政文書ではむしろ略称のほうが混乱を招いたと記録されている。たとえばの内部資料では「NBJ」「ボン・網走」「ジュニア系統」などが併記され、同一の演目を指すのに部署ごとに異なる呼称が用いられていたという[3]。
歴史[編集]
成立以前の背景[編集]
起源は後半、沿岸での冬季物資輸送が不安定化した時期に求められる。地元の港湾労働者であった新谷栄蔵は、吹雪の中で互いの位置を失わないための掛け声と足運びを、北見工業大学の準研究員・片桐ミツ子に相談したとされる。片桐はこれを『寒冷地における低摩擦群舞』として整理し、後に地域文化化する下敷きを作った[4]。
当初の名称は「ヌチャ式保温列」であったが、1969年の町内会議で、演技中に用いる毛布状の保護具を指す現地俗語「ヌチャティラ」が誤って主名称に採用され、さらに演出担当者のボンボビノ・タケルの姓風呼称が加えられた。最後の「網走・ジュニア」は、後年の青少年団体化に伴い追加されたもので、命名経緯は極めて即興的であるとされる[要出典]。
制度化と拡張[編集]
、網走港で行われた『冬の灯台祭』において、初めて一般観客向けの上演が実施された。この際、参加者14名のうち9名が未成年であったため、翌年から『ジュニア』の名称が事後的に正当化され、教育委員会の後援が付いた。演目は全7部構成で、うち第4部「氷上敬礼」は平均1分43秒、最短記録はの57秒である。
1977年には『網走冬季文化整理要綱』により、演技の足幅が31センチ以内、掛け声の語尾は3拍で収束、保温布の色は海霧色を基調とする、という細目が制定された。こうした細かさは一見ばかばかしいが、実際には吹雪時の視認と事故防止に有効であったため、港湾関係者の間では高く評価された。なお、この時期の記録には、観客席に農林水産省の視察官が2度出入りしたとの記述がある[5]。
全国への波及[編集]
1980年代に入ると、観光プロモーションの一環として札幌市、、さらには仙台市の物産展に招聘されるようになった。とりわけ1984年の『寒地フェスティバル東京分会』では、屋内で再現した人工降雪機が過剰に作動し、会場の床材がぬれて3時間の中断が生じたが、この事故を契機に『床面の湿度も演出の一部』という独特の美学が生まれたとされる。
またNHKの地域番組で紹介された際、ナレーションが『ジュニアは年齢ではなく系譜を指す』と説明したことで、少年団体なのか家系芸能なのかが混乱し、視聴者から問い合わせが相次いだ。結果として、1988年からは成人枠と青少年枠を分けた二重運用が導入され、現在の形に近い構成が整った。
演目と構成[編集]
ヌチャティラス・ボンボビノス・網走・ジュニアの演目は、概ね「整列」「歩法確認」「三拍子旋回」「氷結報告」「散開」の5系統に分かれる。とくに三拍子旋回は、凍結した路面でも重心を崩さないための回避動作が洗練されたもので、後に高齢者の転倒防止講習へ転用されたという。
衣装は、毛織の外套の上から細帯を何重にも巻く形式で、帯の本数が偶数の者は指揮補助、奇数の者は列中央に配される。これは完全に象徴的な規則ではなく、港の風向きに応じて防寒具の重さを調整するための実用的措置であったとされる。演目の終盤では、全員が北東方向に一礼するが、これはオホーツク海からの風を『戻るもの』として扱う古い信仰の名残であると説明されている[6]。
なお、2011年以降は音響装置に代わって足踏みの反響を拾う集音板が導入され、無音の屋外でも演技成立率が87%から94%へ上昇したとされる。もっとも、この数字はの内部報告にのみ記載され、独立検証はされていない。
社会的影響[編集]
この演目は、単なる地域芸能にとどまらず、寒冷地における共同作業の規範を可視化したものとして評価されている。とりわけ、視界不良時に列を維持するための『先頭責任者が3歩ごとに名を名乗る』慣習は、漁協や除雪班の安全指導にも転用された。
一方で、名称の長さと奇妙な響きが先行し、東京都内のイベントではしばしば「何かの輸入菓子」や「架空のラテン音楽」と誤認された。これに対し、は2002年に『名前が長いほど冬はあたたかい』という宣伝文句を採用し、逆にブランド化に成功したとされる。2020年時点で、市内の小中学校17校のうち11校が、冬季学習発表会で簡略版を取り入れていたという[7]。
批判と論争[編集]
批判の多くは、演目の由来が実務であるにもかかわらず、後年になって『伝統芸能』として過度に神秘化された点に向けられている。民俗学者の長谷川朔二は、1989年の論文で「行政が寒さを文化へ翻訳した稀有な例」と評したが、同時に、初期資料の一部が祭礼用に改稿されている可能性を指摘した[8]。
また、2014年には『ジュニア』という語が実年齢を連想させるとして、成人演者が参加しづらくなるとの声が上がった。これを受け、保存会は「ジュニアは“若さ”ではなく“継承段階”を意味する」と公式説明を更新したが、説明文の字数が1,482字に及んだため、むしろ混乱を深めたとの評価もある。なお、保存会内部では現在も、名称から「網走」を外すかどうかで意見が割れている。
現在の継承[編集]
現在はを拠点とする保存団体が、年3回の公開練習と、冬季の臨時上演を行っている。2023年の記録では、参加者は延べ126人、うち小学4年生が最も多く、平均滞在時間は42分であった。会場周辺では演技終了後に温かい味噌汁が配られるが、これは1970年代の荷役作業者に由来する慣例がそのまま残ったものとされる。
近年は韓国やの寒地研究者からも関心が寄せられ、特に「低温環境での隊列保持」と「群衆の沈黙を音響化する技法」が研究対象となっている。ただし、海外公演では「ボンボビノス」の発音が難しく、司会が毎回2回言い直すため、演出の一部として定着した。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 長谷川朔二『寒地儀礼の生成と転用』北方文化研究会, 1989, pp. 41-67.
- ^ 片桐ミツ子『低摩擦群舞の構造』北海道産業文化叢書, 1972, Vol. 3, No. 2, pp. 12-29.
- ^ 新谷栄蔵『港の冬と隊列の記憶』網走民俗資料館年報編集部, 1978, pp. 5-18.
- ^ Margaret L. Sutherland, “Choreography in Subzero Logistics,” Journal of Northern Studies, Vol. 11, No. 4, 1991, pp. 201-224.
- ^ 渡会真理子『冬季観光と演目命名の政治学』地域政策評論, 第18巻第1号, 2004, pp. 88-103.
- ^ Tetsuo Arakawa, “The Abashiri Junior Problem,” Proceedings of the Cold-Region Folklore Association, Vol. 7, 2008, pp. 9-33.
- ^ 網走文化振興財団『平成二十三年度 文化継承実態調査報告書』, 2012, pp. 74-79.
- ^ 小林冬芽『名称が長すぎる民俗表現の諸問題』民俗記号学, 第9巻第3号, 2016, pp. 2-21.
- ^ 石橋雪乃『オホーツク海沿岸における集団発声の実地研究』北方音響学会誌, Vol. 14, No. 1, 2020, pp. 55-72.
- ^ 北沢薫『「ジュニア」の再定義と継承段階の可視化』網走市文化年報, 2024, pp. 101-118.
外部リンク
- 網走市民俗資料アーカイブ
- 北方文化デジタル年鑑
- 寒地演目保存会
- オホーツク地域振興ライブラリ
- 冬季儀礼研究ネットワーク