ラッテヌ・パ・ヌンドリュー工場
| 名称 | ラッテヌ・パ・ヌンドリュー工場 |
|---|---|
| 英名 | Lattenu Pa Nundryu Factory |
| 所在地 | 東京都墨田区周辺(伝承上) |
| 分類 | 複合乾燥・定着施設 |
| 創業 | 1938年 |
| 操業停止 | 1997年 |
| 主要製品 | ヌンドリュー粉、定着餅、耐湿ラッテ層 |
| 関係組織 | 大日本定着工業協会、東京粉体衛生研究所 |
| 特徴 | 三層式送風炉と逆転撹拌槽 |
ラッテヌ・パ・ヌンドリュー工場(ラッテヌ・パ・ヌンドリューこうじょう、英: Lattenu Pa Nundryu Factory)は、東京都の下町工業地帯で発達したとされる、微細粉末を低温で定着させるための複合加工施設である[1]。一般には食品工場に分類されることが多いが、実際には、、およびが交差する特殊施設として知られている[2]。
概要[編集]
ラッテヌ・パ・ヌンドリュー工場は、昭和初期に成立したとされる伝統的な乾燥加工施設である。工場名の「ラッテヌ」は薄層を意味する業界用語、「パ」は圧着、「ヌンドリュー」は粉体を再凝集させる工程名に由来するとされるが、用語の成立過程は資料ごとに大きく異なる[3]。
同工場は、隅田川流域の湿潤な気候に対応するため、原料を一度水和させたのち、東京府内外で独自に改良された温風炉で処理する方式を採用した。この方式は、当初は菓子類の保存技術として注目されたが、のちに紙工品、薬包材、さらには防災用吸湿資材へ転用され、戦前日本の都市衛生政策と結びついていったとされる[4]。
もっとも、同工場の実在性そのものについては、所蔵とされる一部の記録の真偽が不明であり、研究者の間でも見解が分かれている。一方で、現場写真とされる資料が浅草の古書店経由で散発的に流通しており、2020年代には「実在したが急速に忘れられた工業文化」として再評価の動きもみられる。
歴史[編集]
創設期[編集]
起源は1934年、墨田川沿いの小規模乾燥所で働いていた技師・渡辺精一郎が、帰りの製粉機械に触発されて考案したとされる。彼は当初、米粉の湿気戻りを防ぐための実験設備として簡素な木造小屋を用いたが、実験記録には「夜間に粉が自走して壁面へ偏在した」との奇妙な記述があり、後年しばしばオカルト的解釈の対象となった[5]。
1938年、の下部団体とされる「粉体実用化委員会」の仲介で、正式な工場棟が付近に建設された。建築費は当時としては異例ので、うち約14%が送風管の防湿コーティングに充てられたという。なお、この数字は後年の再計算で「実際には1桁少ないのではないか」との指摘がある[6]。
最盛期[編集]
戦後復興期のからにかけて、工場は最盛期を迎えた。とりわけの学校給食向けに出荷された「定着餅」は、1日平均を記録し、湿気の多い梅雨期にはを超えたとされる。地域住民の証言では、工場稼働中は周辺半径の洗濯物まで妙に白く乾いたという[7]。
また、この時期には系の研究員が見学に訪れ、工場の三層式送風炉を「日本的な合理化の到達点」と評したと伝えられる。もっとも、別の記録では同じ研究員が「装置の動きがあまりに静かで、止まっているのか回っているのか判別できない」と書き残しており、評価は一様ではない。
衰退と閉鎖[編集]
後半になると、合成乾燥材と密封包装の普及により、工場の独自性は次第に失われた。さらにの局地的な結露災害で主要倉庫が被害を受けたことから、稼働率は前年比で低下したとされる。経営側は再建を試みたが、工程の要である「二重湿度馴化室」の維持費が高騰し、結果としてに操業を停止した[8]。
閉鎖後、建屋はしばらく倉庫として転用されたが、倉内で発見されたとされる手書き帳簿により、工場が実際には製品よりも「工程見学料」で収益を上げていた可能性が浮上した。これにより、ラッテヌ・パ・ヌンドリュー工場は産業施設であると同時に、半ば観光施設でもあったのではないかとする説が有力になっている。
製造工程[編集]
ラッテヌ・パ・ヌンドリュー工場の工程は、一般的な食品加工とは異なり、原料を「湿らせてから乾かす」のではなく、「乾かす意思を与えてから湿気を抜く」という思想に基づくと説明される。工程はおおむね、予備加湿、逆転攪拌、薄層定着、音響乾燥、低温熟成の五段階に分かれていた[9]。
中心設備である逆転攪拌槽は、通常の攪拌機と逆向きに回転する羽根を持ち、粉体の粒径を平均からまで揃える働きがあるとされる。ただし、現存する図面の一部では羽根の向きが日によって描き分けられており、設計思想が曖昧であった可能性もある。
なお、最終工程の音響乾燥では、周波数とを交互に流すことで、製品表面に「微細な定着皺」を形成したという。これが品質の証とされた一方、近隣住民からは「冬の夜にだけ聞こえる遠い汽笛のようだった」と証言されている。
社会的影響[編集]
同工場は、単なる製造拠点にとどまらず、墨田区の地域経済と共同体意識に深く関わったとされる。工場周辺では、従業員の妻たちによる「湿度見守り組合」が自然発生的に組織され、雨天時の稼働率予測を家計簿より先に当てることで知られた[10]。
教育面でも影響は大きく、には工場見学がの準必修行事として採用されたという記録がある。生徒たちは粉体の流れをスケッチし、年に一度「ヌンドリュー計測図」を提出したとされるが、保存されている作品の多くは何を描いたのか判読不能である。
また、同工場の製品は災害備蓄にも用いられ、の台風災害時には簡易乾燥材として避難所に配布された。これにより、工場は「おいしい工業製品を作る場所」から「乾いた安心を供給する場所」へと認識が変化したとされる。
批判と論争[編集]
ラッテヌ・パ・ヌンドリュー工場に対する批判で最も多いのは、工程の説明がしばしば専門用語に依存しすぎており、実態が分かりにくいという点である。とりわけの『関東粉体衛生報告』では、同工場の技術者が「説明すればするほど湿度が増す」と発言したと記され、以後この言葉は比喩として引用されるようになった[11]。
また、工場名の由来についても異説が多い。単に創業者の姓をもじったものだとする説、フランスの古い乾燥法に由来するという説、さらには「ラッテヌ」「パ」「ヌンドリュー」がそれぞれ異なる3工場の略称で、合併後に一つへまとめられたとする説まで存在する。もっとも、最後の説は帳簿の綴じ紐が3色だったこと以外に根拠がなく、現在ではほぼ退けられている。
一方で、2010年代以降は文化財としての保存を求める声も強い。特に外壁に残る粉末状の白い痕跡は、劣化ではなく意図的な「都市のレース装飾」であると主張する研究者もいるが、では慎重な姿勢が取られている。
保存運動と再評価[編集]
、地元有志により「ラッテヌ工場保存会」が結成され、失われた配管図の復元と、試験的な音響乾燥装置の再現が行われた。復元実験では、近隣の保育園から借りた空箱が使用され、そのうちが想定以上に硬化したため、保存会は以後、紙素材の選定に細心の注意を払うようになった。
には東京工業大学の研究グループが、工場跡地の地中から金属製の小型気圧計と手描きの温湿度表を発見したと発表した。この発見は一時、工場の実在を裏付ける証拠として報道されたが、後に気圧計の刻印が別用途の工場備品と一致したため、結論は持ち越された。それでも、この曖昧さ自体が同工場の魅力であるという意見もある。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『ラッテヌ式定着乾燥論』東京粉体出版会, 1941.
- ^ 大谷房枝『下町工場と湿度管理』中央新書, 1958, pp. 112-147.
- ^ K. Harrington, “A Study on Reverse Stirring in Urban Drying Plants,” Journal of Applied Hygroscopic Engineering, Vol. 12, No. 3, 1967, pp. 201-219.
- ^ 東京商工会議所粉体実用化委員会『昭和十三年度 工場見学記録集』, 1939.
- ^ 山岸清隆『東京低湿地帯の民俗加工史』青土館, 1972, pp. 44-79.
- ^ M. S. Feldman, “The Nundryu Paradox and Its Industrial Implications,” Industrial Folklore Review, Vol. 8, No. 1, 1984, pp. 9-36.
- ^ 『関東粉体衛生報告 第17号』関東衛生技術協議会, 1968, pp. 5-18.
- ^ 佐久間由里『音響乾燥と都市感覚』みすず工房, 1999, pp. 88-121.
- ^ H. Watanabe and L. K. Meyer, “Humidity Conditioning as a Civic Ritual in Postwar Tokyo,” East Asian Material Culture, Vol. 21, No. 4, 2011, pp. 301-333.
- ^ 東京工業大学湿度文化研究室『ラッテヌ工場跡地予備調査報告書』, 2022, pp. 1-54.
外部リンク
- ラッテヌ工場保存会
- 東京粉体文化アーカイブ
- 下町湿度研究センター
- 墨田区産業遺産調査室
- ヌンドリュー技術資料室