三原かんす
| 名称 | 三原かんす |
|---|---|
| 読み | みはらかんす |
| 英語名 | Mihara Kansu |
| 起源 | 16世紀後期の備後国沿岸 |
| 主な用途 | 金具の防錆、仏具の艶消し、船釘の儀礼補強 |
| 主要地域 | 広島県三原市、尾道市、竹原市 |
| 材料 | 砂鉄粉、柿渋、牡蠣殻灰、浅野木炭 |
| 保護団体 | 三原かんす保存協会 |
| 関連行事 | 三原港かんす講(毎年10月) |
三原かんす(みはらかんす)は、沿岸で成立したとされる、微細な砂鉄を用いて金属表面の光沢と渋みを同時に調整する古層工芸の総称である。主に三原地方の港湾修理と寺院装飾に用いられ、近代以降は保存技法と鑑賞様式の両義性をもつ文化として知られている[1]。
概要[編集]
三原かんすは、金属の表面に極薄の保護層を施し、錆びを防ぎつつも過度な人工光沢を避けるための技法、またはその技法で仕上げられた意匠群を指す。名称は周辺で用いられた職人語に由来するとされるが、語源にはの「緩す(かんす)」、すなわち緊張をほどくという意味が重ねられたという説もある。
成立時期は末期とされ、配下の港湾修理役であったが、湿度の高い沿岸で鉄具が急速に腐食するのを防ぐため、漁網の染色と寺社の古銅補修の知見を接合したことが始まりとされる。もっとも、同時代史料の多くは後世の写しであり、技法の実体よりも「三原のものは長持ちする」という評判が先行して広まった可能性が指摘されている[2]。
歴史[編集]
成立と初期の広がり[編集]
三原かんすの原型は、頃に三原港の船大工が、船釘の再使用を前提として編み出した「かんす塗り」と呼ばれる下地処理にあるとされる。当初はの私的な修繕技法にすぎなかったが、の転封後も港の実務知として残り、の解体材が再利用される際に大量採用されたという。なお、城材を一度海水に浸してから処理すると艶が増すと信じられていたが、現代の試験では効果の差は1.7%程度であったと報告されている[3]。
17世紀には、の寺社修理を請け負う木地師や金工がこの技法を学び、三原産の金具が「黒いのに軽い」と評判になった。とくに年間の大火後、再建資材の選定に三原かんすが多用され、の町年寄の間でも「三原仕立てであれば見栄えがよい」とされたという。ただし、同時期に流通した粗悪な模造品も少なくなく、商人たちは炭粉を過剰に混ぜて「本家の渋さ」を演出したため、逆に手袋が真っ黒になる事故が頻発した。
近代化と再発見[編集]
に入ると、三原かんすは旧来の職人技として一度は衰退したが、の車両部品防錆試験において、柿渋と牡蠣殻灰を併用した古法が局地的に注目された。とりわけにの工廠技師であったが、海軍向け小器具の耐塩害処理として再整理した記録が残っており、これが工業化への最初の接点とみなされている[4]。
戦後になると、の民俗工芸研究班が1960年代に聞き取り調査を行い、三原かんすを「保存技法であり、同時に港湾共同体の記憶装置である」と位置づけた。研究班は三原市内で17軒の旧家を訪ね、うち9軒が「祖父がやっていた」と証言したが、具体的な工程を説明できたのは2軒のみであった。この不一致は、むしろ技法が家ごとに微妙に異なって伝承された証拠と解釈され、以後の復元研究に拍車をかけた。
保存運動と現代[編集]
以降、三原かんすは観光資源として再評価され、とが共同で「港の黒艶」を標語に普及活動を行っている。現在は年に約420件の小規模補修に適用されるとされ、寺院の鐘撞き棒、漁港の係留金具、神社の鈴緒金具などに限定的に使われている[5]。
一方で、保存協会内部では「艶を残す派」と「艶を殺す派」の対立がある。前者はを多めに使い、後者は粉を増やして鈍い黒色を好むため、同じ三原かんすでも仕上がりが大きく異なる。2014年には市内の展示会で、同一の灯籠脚に対し三つの流派が競作し、来場者の62%が「どれも似ているが、説明を聞くと全部違う気がする」と回答したという[要出典]。
技法[編集]
基本工程[編集]
三原かんすは、下地洗浄、砂鉄粉の擦り込み、柿渋の定着、灰汁の中和、最後の乾燥という五段階で構成されると説明される。職人は工程ごとに刷毛を替え、特に三段目では「息を止めて七呼吸」という慣習があるが、これは湿度変化を抑えるための実務的知恵と、儀礼的緊張の演出が混在したものと考えられている。
標準的な処理時間は小物で18分、大型金具で最大4時間半とされるが、これは期の工房記録に基づく値であり、実際には天候によって大きく揺れる。雨天時は塗膜が締まりすぎるため、三原の古参職人は「港の風が7割、手が3割」と語ったとされる。もっとも、現代の再現実験では、職人の主観評価と耐食性試験の相関が低く、むしろ作業前に飲む番茶の温度が結果に影響したという報告もある[6]。
材料と地域差[編集]
材料は本来、三原港周辺で採れた細砂鉄と牡蠣殻灰を主原料としたが、時代が下るにつれの柑橘皮灰、の塩浜副産物、の木炭粉が加えられた。これにより、同じ三原かんすでも「潮風系」「寺社系」「町工場系」の三系統に分かれたとされる。
とくに潮風系は青みがかった黒色、寺社系は光を吸うような鈍黒、町工場系は薄い銀気を残すのが特徴である。三原市内の老舗工房であるでは、わずか0.3グラムの砂鉄配合差を見分ける「指先鑑定」が伝えられているが、研修生の成功率は初年度で11%程度にとどまり、ほとんどが見学の段階で首をかしげるという。
社会的影響[編集]
三原かんすは、単なる工芸技法にとどまらず、港町の「使い捨てない倫理」を象徴するものとして扱われてきた。漁具や金具を繰り返し補修する文化が、三原周辺の倹約観と結びつき、結果として地元の商家では「三原の人は釘一本にも挨拶する」とまで言われたという。
また、30年代の高度経済成長期には、新品志向への反動から三原かんすの審美性が再発見され、黒く整った表面が「過剰な豊かさに対する静かな抵抗」として美術評論家に引用された。なお、の百貨店で開催された「瀬戸内工芸展」では、来場者が展示品を新品の劣化品と誤認し、売場係が二日連続で謝罪した記録がある。
一方で、保存運動が進むにつれて観光向けの「かんす風」商品が増え、本来は修理現場のための技法であったものが、土産物の置物や文鎮に転用された。このため、地元では「かんすは見るものではなく、濡れるものだ」とする保守的な意見も根強い。
批判と論争[編集]
三原かんすをめぐっては、その歴史的連続性に疑義を呈する研究者もいる。とりわけにの準研究員だったは、現存する最古の資料が末期の観光案内であり、それ以前の記述が断片的すぎるとして、技法の古層性は後世の創作ではないかと指摘した[7]。
これに対し保存協会は、口承と実地の差異こそ伝統技法の本質であると反論し、さらに「資料の少なさは港町の沈黙の美学を示す」と説明した。論争はやや長引いたが、結局は内の指定無形文化財候補としての調査が続行され、学術的には「実証困難な地方技法」として棚上げされている。
なお、2019年には海外のデザイン誌が三原かんすを「Japanese anti-gloss treatment」と紹介したが、見出しの英訳が誤って「anti-gross treatment」と印字され、以後ネット上で「ひどい顔面処理法」として誤解された。保存協会は訂正を求めたものの、誤植版の方が閲覧数が高く、複雑な心境を示したという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 河原田宗甫『港の金具と黒艶』備後民俗叢書刊行会, 1932.
- ^ 田島恒助「三原地方における砂鉄塗膜の耐塩害性」『呉工廠技報』Vol. 14, No. 2, 1899, pp. 41-58.
- ^ 中瀬恵理『地方技法の成立と観光化』国立歴史民俗博物館研究報告, 第11巻第3号, 1998, pp. 103-129.
- ^ 広島大学民俗工芸研究班「三原沿岸部における補修技法の口承」『瀬戸内文化研究』第7号, 1967, pp. 12-39.
- ^ S. W. Thornton, “Black Sheen and Civic Memory in Western Honshu,” Journal of Maritime Material Culture, Vol. 22, No. 4, 2008, pp. 201-233.
- ^ 三原かんす保存協会編『三原かんす実作手引書 第3版』三原市文化会館出版部, 2015.
- ^ 河原田美奈子「かんす風仕上げの観光消費」『地域デザイン学会誌』第18巻第1号, 2020, pp. 77-96.
- ^ A. K. Hargrove, “Humidity, Tea Temperature, and Surface Patina in Coastal Japan,” Materials Heritage Review, Vol. 9, No. 1, 2016, pp. 5-29.
- ^ 三原市教育委員会『三原港かんす講 記録集』2019年度版, 2020.
- ^ 『港湾修理と儀礼補強の比較民俗学』三原文化資料室, 1978.
- ^ Mihara Kansu Study Group『Anti-Gross Treatment and Its Social Reception』Civic Print Institute, 2019.
外部リンク
- 三原かんす保存協会
- 三原市文化資料室
- 瀬戸内工芸アーカイブ
- 港町修理史データベース
- かんす実技講習オンライン