金的祭り
| 名称 | 金的祭り |
|---|---|
| 別名 | 金鐸祭、金的奉納、下町金環祭 |
| 開始時期 | 18世紀末ごろと推定 |
| 主な地域 | 東京都、神奈川県沿岸部、旧下関港周辺 |
| 主催 | 金的祭礼保存会、町内会連合、旧社務所協議体 |
| 儀礼要素 | 金属護符、跳躍、鈴、和紙札 |
| 関連信仰 | 航海安全、豊穣祈願、厄除け |
| 現在の形 | 観光行事化した巡行祭 |
| 代表的開催地 | 墨田区吾妻橋周辺 |
金的祭り(きんてきまつり)は、江戸末期から東アジア沿岸部で伝承されるとされる、金属製の護符と跳躍儀礼を組み合わせた年中行事である。の下町で近代的な形が整えられたとされ、のちに系の民間祭礼として知られるようになった[1]。
概要[編集]
金的祭りは、直径9〜12cmほどの円形金属板を「金的」と呼び、これを高く掲げて町内を練り歩く祭礼の総称である。参加者が鈴を鳴らしながら三度跳ぶ所作を行う点に特色があり、跳躍の回数は地域により7回、11回、あるいは13回とされる[2]。
起源については諸説あるが、一般には年間にの船大工が海外渡航の護符を模したことに始まるとされる。また、期にはの風紀取締りの対象になりかけたものの、祭具が「工業用円盤」に見えるという理由で見逃されたとの逸話が残る[3]。
起源[編集]
船乗りの護符説[編集]
最も有力とされる説では、開港以前の沿岸で、難波除けのために銅板を布で包んだものが祭具の原型になったという。とくに期の金工職人・が、破損した舵金具を再利用して円環状の護符を作り、町年寄に献納した記録があるとされるが、同名人物が複数いた可能性も指摘されている[4]。
回転芸能起源説[編集]
一方で、金的祭りはもともと見世物小屋の回転芸能から派生したとする説もある。これはの小劇場で流行した「金的回し」という曲芸が町会の祭りに取り入れられ、観客が投げ銭の代わりに小判形の札を吊るしたことから定着したというものである。なお、1907年にが「金的回し」を「町の不思議な新風俗」と報じた記事があるが、記事の末尾が別件の相撲番付と混線しているため、信憑性には議論がある[5]。
儀礼[編集]
金的祭りの中心は「金的渡し」と呼ばれる工程である。祭礼当日の午前6時、氏子総代がで包んだ金属板を木箱から取り出し、塩と酒で清めた後、に向けて三方礼を行う。続いて「鳴り子」と呼ばれる木製の鈴棒を打ち鳴らし、先頭の少年行列が小走りで40メートルほど進む[6]。
注目すべきは「逆さ奉納」と呼ばれる独特の所作で、金属板を上下逆に掲げてから正位置に戻す。これにより航路の乱れを正すという説明がなされるが、実際には昭和初期に雨天対策として生まれた演出だとする見方が強い。また、祭りの終盤には金属板を載せた御輿が三回だけ急停止するが、この停止回数が偶数になると翌年の商店街の売上が落ちるという迷信がある。
近代化と観光化[編集]
戦前の整備[編集]
末期から初期にかけて、金的祭りは商店街振興と結びつき、の後援を受けるようになった。1932年にはの倉庫街で初の「標準金的」が制定され、重さ1.8kg、厚さ4.3mm、表面に七筋の刻線を入れることが推奨された[7]。
戦後の再編[編集]
、占領下の風紀規制を避けるため、祭礼名は一時「円環奉納会」に変更されたとされる。もっとも、地元では旧名のまま呼ばれ続け、にはの地域番組で「妙に景気のよい護符行事」として紹介され、以後は観光資源として認知が拡大した。番組内で解説した民俗学者は、金的祭りを「円と跳躍の折衷儀礼」と名づけたが、この言い回しは後年、大学入試の現代文に勝手に引用されたことでも知られる[8]。
地域差[編集]
金的祭りは一枚岩ではなく、各地でかなり異なる形を取る。沿岸では金属板の裏に漁網の切れ端を貼る習慣があり、の一部では代わりに真鍮製の小鐘を吊るす。周辺では、海峡風の強さから祭具の直径が標準より2cm小さく、代わりに巡行距離が通常の約1.7倍になるとされる[9]。
また、の旧商家では、金的を掲げる役を「持ち手」ではなく「回し奉行」と呼び、必ず左回りで三周する。この左回り規定は、明治期の役所文書にだけ現れ、口伝では「右回りだと米相場が荒れる」と説明されるが、実際には狭い路地で右折が難しかったための便宜措置だとする説がある。
批判と論争[編集]
金的祭りは、地域文化として評価される一方で、過度な商業化をめぐる批判も受けてきた。とくに1990年代以降、金属板にスポンサー名を刻む「銘板化」が進み、伝統性を損なうとしての一部会員から異論が出た[10]。
また、祭礼の由来をめぐっては、明治政府の衛生政策と結びつける説、朝鮮半島から伝来したとする説、さらに「実は相撲の控え行事だった」とする異説まで存在する。もっとも、どの説も確証は薄く、の調査報告でも「複数の伝承が互いに自己増殖している」と整理されている。なお、2021年に公開された町内資料の中に、金的が元来「雨乞いの測量具」であったと記す紙片が見つかったが、紙質が新しすぎるため、研究者のあいだでは半ば冗談として扱われている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 三浦玄太『円と跳躍の民俗史』青灯社, 1961年.
- ^ 高瀬文彦『江戸湾護符考』岩波地方文化叢書, 1974年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Ritual Circles in Eastern Port Towns," Journal of Comparative Folklore, Vol. 18, No. 2, 1988, pp. 41-79.
- ^ 佐伯隆一『金属護符と都市祭礼』民俗と都市, 第12巻第4号, 1993年, pp. 112-138.
- ^ Yasuo Kunitake, "The Kinteki Procession and Urban Memory," Asian Ritual Studies Review, Vol. 7, No. 1, 2001, pp. 5-33.
- ^ 小松原えみ『下町行事の再編と観光化』早稲田文化研究, 第29号, 2008年, pp. 201-226.
- ^ Richard H. Bell, "Odd Heirlooms of Harbor Communities," Transactions of the Maritime Anthropology Society, Vol. 4, No. 3, 2014, pp. 88-109.
- ^ 田辺修『円環奉納会資料集』墨田区文化資料室, 2017年.
- ^ 国立歴史民俗博物館編『東日本沿岸祭礼の比較調査』国立歴史民俗博物館報告, 第56集, 2020年, pp. 77-96.
- ^ 桐山美砂『金的祭りの現在地――銘板化と地域ブランド』地域文化ジャーナル, 第3巻第1号, 2022年, pp. 14-29.
外部リンク
- 金的祭り保存会公式記録庫
- 下町民俗データベース
- 墨田川祭礼アーカイブ
- 港湾護符研究会
- 東アジア円環儀礼協会