仁科ペイソン
| 名称 | 仁科ペイソン |
|---|---|
| 英語表記 | Nishina Payson |
| 初出 | 1949年ごろ |
| 成立地 | 東京都千代田区神田錦町 |
| 主な用途 | 交渉補助、予算折衝、対外説明 |
| 関連組織 | 仁科会計調整協議会、科学庁準備室 |
| 代表的文書 | 『ペイソン運用細則第一号』 |
| 廃止 | 1978年に形式上廃止 |
| 俗称 | ペイソン係 |
| 地域差 | 関東式と関西式で手順が異なる |
仁科ペイソン(にしなぺいそん、英: Nishina Payson)は、日本の昭和中期に成立したとされる、対人交渉と会計処理を同時に行うための準専門職である[1]。主に東京都千代田区の小規模研究所や、旧系の外郭団体で用いられた名称として知られている[2]。
概要[編集]
仁科ペイソンは、戦後日本の研究機関において、予算の説明と人間関係の調整を一体化した運用体系として成立したとされる制度である。名称は式の事務整理法と、米国式の交渉補助帳票「ペイソン票」を折衷したものと説明される。
一般には秘書業務の一種とみなされがちであるが、当時の文書では「会計の精度を保ったまま、相手の顔を立てる技術」と定義されている。なお、の内部報告では、これを「半行政・半芸能の職掌」と呼んだ記述が見つかっている[3]。
起源[編集]
起源については、に東京都文京区の仮設研究棟で行われた「冬季資材配分会議」に遡るという説が有力である。会議は3時間の予定であったが、実際には11時間48分に及び、最後は議事録係が涙ながらに予算案を読み上げたという。
この際、事務補助として参加していたと、米軍顧問団の会計補助員が、互いの帳票形式を交換したことから、折衷的な手続きが生まれたとされる。両者は実在の人物として確認されていないが、東京大学史料室に残る「赤鉛筆による署名」により、少なくとも何らかの合意があったことは確かである、とする研究者もいる[4]。
名称の「ペイソン」は人名由来とされる一方で、研究会によっては「payment son」、すなわち支払いの後継様式を意味する隠語であったとする説もある。こちらは要出典とされることが多いが、実務家の間では今なお捨てがたい説として語られている。
制度の成立[編集]
、の前身組織にあたる準備室が、仁科ペイソンを正式な補助技術として採用したことで、概念は急速に広まった。採用試験では、受験者に「相手を怒らせずに12%の減額を通す方法」を5分で説明させる課題が出されたという[5]。
合格者は「ペイソン員」と呼ばれ、毎月の締日には霞が関からにかけて徒歩で移動しながら、封筒の厚みを指で判断したとされる。これは紙の匂いで支払先の機嫌を読む訓練であり、当時の職掌の中でも特に高度とされた。
には、日本経済新聞の小さな囲み記事で「仁科ペイソン、民間でも導入進む」と報じられたとされるが、現存する紙面では見当たらない。ただし、同時期の広告欄に「説得の効く事務員募集」という文言が3週連続で掲載されており、これが実質的な普及の証左とする見方もある。
運用と技法[編集]
三段階応酬法[編集]
仁科ペイソンの基本は、相手の要望に対し「受理」「保留」「再受理」の三段階で応じる技法である。最初に肯定し、次に予算表を出し、最後に茶菓子を出すことで、実質的な合意を成立させるとされた。特に銀座の商社では、これにより一件あたり平均18分の会議短縮が達成されたという。
鉛筆角度記録法[編集]
また、専用の硬度B2を用い、紙面への筆圧の角度で相手の譲歩可能性を測定する「鉛筆角度記録法」が著名である。角度が27度以下なら強硬、41度を超えると実質的に再交渉不可とされた。もっとも、これはの内部研修資料にのみ登場し、しかも図解が逆さまに印刷されていたため、実地運用には疑義がある。
茶托併用式会計[編集]
さらに、会議室の茶托の枚数で予算残高を伝える「茶托併用式会計」もあった。たとえば茶托が6枚なら補正予算は通るが、7枚では折衝延期、8枚以上では担当者の転属が内定するとされる。こうした符号化は、日本銀行本館の見学者向け展示で一時的に紹介されたことがあるという。
社会的影響[編集]
仁科ペイソンの普及は、戦後の官民調整において「数字だけでは決まらない」領域を可視化した点で画期的であった。これにより、単なる事務補助であった書記・秘書職が、交渉技術を含む専門職として再評価されたとされる。
一方で、手続きの複雑化を招いたとして批判もあった。特にの大阪地区会計監査では、ペイソン員が1名増えるごとに承認印が2個ずつ必要になる社内規程が確認され、監査官が「制度の自己増殖性」を問題視した記録がある[6]。
なお、民間では「仁科ペイソンを入れると会議が長くなる」という誤解も広まったが、実際には会議時間は平均で短縮された。ただし短縮されるのは本題ではなく雑談であり、議事録の本文はむしろ長文化したとされる。
批判と論争[編集]
最大の論争は、仁科ペイソンが学術用語なのか、単なる社内隠語なのかという点である。の労務白書では制度として扱われる一方、の回想録では「昼休みに生まれた冗談」と記されている。両者の差異は大きいが、当時の行政文書はしばしば冗談を実務に取り込む傾向があったため、完全な矛盾とは言い切れない。
また、女性職員への依存が高かったことから、近年はジェンダー史の観点からも再検討されている。とりわけ「感情労働を会計の付属物として扱ったのではないか」との批判があり、の研究グループは2021年に関連シンポジウムを開催した[7]。もっとも、登壇者の一人は「ペイソンなしでは課長は2日ともたない」とも発言しており、評価は割れている。
さらに、仁科ペイソンの研修では、最後に必ず「反省メモを3行でまとめる」訓練が課されたが、実際の提出例には「今日は相手が強かった」「次回は茶菓子を増やす」「印鑑は逃げない」といった哲学的ともいえる文言が残っている。
消滅と再評価[編集]
、行政機構改革に伴って仁科ペイソンは形式上廃止された。だが、完全に消えたわけではなく、千代田区の老舗事務所では「黒ペイソン」「薄茶ペイソン」などの派生形が残ったとされる。
以降は、レトロ官僚文化を紹介する文脈で再評価が進み、特に経営学分野では「日本型コンフリクト・マネジメントの原型」として扱われることが増えた。また、ネット上では「ペイソンを極めると領収書の裏から経済が見える」といった名言風の引用が流通している。
ただし、実地に仁科ペイソンを運用したとされる人物の多くが退職後に証言を撤回しており、史料批判の上では慎重であるべきとされる。とはいえ、撤回文の末尾にしばしば「でもあの会議は確かに終わった」と追記されていることは、制度の実在感を補強している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯隆一『仁科ペイソンの成立と展開』東京財経出版, 1998.
- ^ Margaret L. Henshaw, "Payson Forms in Postwar Japanese Offices," Journal of Administrative Folklore, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 44-67.
- ^ 田辺志郎『戦後会計補助史序説』中央官庁研究会, 1976.
- ^ E. K. Sutherland, "Paper, Tea, and Persuasion: A Note on Nishina Payson," The East Asian Bureaucracy Review, Vol. 5, No. 1, 1962, pp. 9-21.
- ^ 水野ひかり『ペイソン員の午後――事務と交渉のあいだ』青林館, 2011.
- ^ 黒川善之『昭和事務術大全』港北社, 1989.
- ^ Akiro Nakatani, "The Angle of Pencil: Quantifying Consent in Japanese Ministries," Office Studies Quarterly, Vol. 8, No. 4, 1973, pp. 101-119.
- ^ 『ペイソン運用細則第一号』科学庁準備室内部資料, 1951.
- ^ 山根絹子『女性職能と補助会計』東京女子学芸社, 2022.
- ^ 林田一成『仁科ペイソン再考――撤回された証言をめぐって』関東史料刊行会, 2017.
外部リンク
- 日本ペイソン史学会
- 神田事務文化アーカイブ
- 戦後官庁用語データベース
- 仁科ペイソン研究ノート
- 東亜会計交渉史センター