呑ん兵衛の焼きもち主義
| 提唱者 | 渡会 梅太郎、アガサ・L・ホーランド |
|---|---|
| 成立時期 | 1887年ごろ |
| 発祥地 | 東京都神田の下宿街 |
| 主な論者 | 松坂酔吉、桐生マチ子、田島一徳 |
| 代表的著作 | 『焼きもちの経済学』 |
| 対立概念 | 禁酒合理主義、無嫉妬主義 |
| 中核概念 | 酒席嫉妬、配膳倫理、乾杯不均衡 |
| 影響領域 | 倫理学、社会哲学、宴席研究 |
| 象徴的儀礼 | 三口目の盃返し |
呑ん兵衛の焼きもち主義(のんべえのやきもちしゅぎ、英: Nombeyaki Jealousism)とは、における情緒の配分をのかたちで最適化しようとする思想的立場である[1]。個人が他者の幸福を羨むのではなく、他者が自分より先に焼きもちを焼く状態を倫理的優位に置く点に特徴がある[2]。
概要[編集]
呑ん兵衛の焼きもち主義は、明治時代後期の東京都周辺で形成されたとされる、宴席における感情の配分をめぐる哲学である。酒量そのものよりも、誰が先に気まずさを感じ、誰が先に「自分も欲しい」と言い出すかを重視する点に特色がある。
この思想によれば、は単なる私的感情ではなく、共同体内部での承認欲求の分配装置であるとされる。したがって、酒席で生じる軽い嫉妬や対抗心は、抑圧すべき逸脱ではなく、むしろ秩序を可視化するための重要な兆候であると主張される[3]。
語源[編集]
「呑ん兵衛」は、元来は酒を好む者を指す俗語であるが、本概念では江戸末期の寄席用語に由来するという説が有力である。すなわち、客席で最もよく笑い、最もよく注がれ、最もよく恨みを買う者を「呑ん兵衛」と呼んだことが始まりとされる。
「焼きもち」は、通常の嫉妬を直接表すのではなく、餅が焼かれる際の不均一な焦げ方に着目した比喩である。渡会梅太郎によれば、嫉妬とは均一な情動ではなく、表面だけが香ばしく、中身はまだ生である状態を指す語であり、そこから「焼きもち主義」という名称が定着したとされる[4]。
歴史的背景[編集]
呑ん兵衛の焼きもち主義の成立には、の都市下宿文化と、東京府下の簡易居酒屋の増加が大きく関わったとされる。当時、新聞記者、速記者、代書屋など夜更けまで働く職種が増え、帰宅前に一杯だけ飲む慣行が広がった結果、酒席の座順や盃の回り方が過度に政治化したのである。
とくにの「三河屋亭事件」()は重要である。ある晩、盃が隣席の青年に3回続けて先に回されたことから、同席していた渡会梅太郎が「これは配膳の問題ではなく、感情の先回りである」と激昂し、翌朝に小冊子『焼きもちの経済学』をまとめたと伝えられる。なお、この事件の記録はの投書欄にしか残っていないため、史料的信頼性には疑義がある[5]。
その後、この思想は浅草の料亭、本郷の学生寄宿舎、横浜の港湾労働者の酒場へと断続的に拡散した。各地で解釈が異なり、倫理哲学としてよりも、むしろ「誰が一番うまく焼きもちを焼けるか」を競う半ば遊戯的な慣習へと変質していった。
主要な思想家[編集]
=== 渡会 梅太郎 === 渡会梅太郎(わたらい うめたろう、 - )は、呑ん兵衛の焼きもち主義の創始者とされる者である。彼は東京帝国大学の聴講生であったが、正規の学位は取得しておらず、主として私塾と酒席で理論を展開した。渡会は「人は飲む前に羨み、飲んだ後に許す」と述べたとされ、のちの論者に大きな影響を与えた[6]。
=== 桐生 マチ子 === 桐生マチ子(きりゅう まちこ、 - )は、京都の茶屋文化を背景に焼きもち主義を再解釈した思想家である。彼女は、酒席の嫉妬は男性中心の競争ではなく、配膳の不均衡に由来する「見えない礼儀の暴力」であると批判し、盃を回す順序を倫理の中心に据えた。とくに「三口目の沈黙」が共同体の真価を示すという主張は、後世の宴席分析に強い影響を与えた。
=== 松坂 酔吉 === 松坂酔吉(まつざか すいきち、 - )は、焼きもち主義をに接続した論者である。彼は、嫉妬は個人感情ではなく「場の資源配分に対する微細な抗議」であると主張し、酒席を小さな議会として捉えた。松坂はまた、焼きもちの強度を「ほろ苦度」として数値化する試みを行い、後年の宴席統計学に奇妙な道を開いた[7]。
=== アガサ・L・ホーランド === アガサ・L・ホーランド(Agatha L. Holland、 - )は、ロンドンでこの思想を紹介した英語圏の翻案者である。彼女は日本での滞在経験をもとに『The Ethics of Toasted Jealousy』を執筆し、焼きもち主義を「感情の外交術」と翻訳した。この翻訳はかなり自由であり、後に日本側の研究者から「日本酒をシェリー酒と書き換えただけ」と批判されたが、逆に国際的な知名度を高める結果となった。
基本的教説[編集]
焼きもち主義の第一原理は、嫉妬は排除されるべき敵対感情ではなく、共同体における注目の偏りを知らせる警報である、という点にある。渡会によれば、乾杯の回数が多いほど平等であるという考えは誤りであり、むしろ「誰が最初の二杯で黙るか」に注目すべきである。
第二原理は、の循環には倫理的な優先順位があり、それを乱す者はたとえ礼儀正しく見えても場を支配しようとする意志を持つ、とするものである。とくに「焼きもちの優位」は、他者より先に不満を言語化できる者が、場の空気を修正できるという実践的判断に基づく。
第三原理として、酒席における「適度な不貞腐れ」は関係修復の前段階であるとされる。松坂酔吉はこれを「感情の予備発酵」と呼び、桐生マチ子はこれに対して「予備発酵が長すぎると酢になる」と反論した。両者の議論は、のちに大阪の学生サークルで妙に好まれ、夜更けの下宿討論の定番となった[8]。
批判と反論[編集]
呑ん兵衛の焼きもち主義に対する批判は、当初から少なくなかった。禁酒合理主義の立場からは、そもそも酒席の嫉妬を倫理の中心に置くこと自体が、感情を不必要に増幅させると非難された。また帝国大学系の一部の心理学者は、焼きもちを社会原理に昇格させるのは観察者の酩酊による錯覚であるとした。
一方で、支持者は、焼きもち主義が感情の暴走を推奨するのではなく、むしろ感情の所在を明確にすることで争いを予防すると反論した。田島一徳は「人は不満を隠すほど泥酔する」と述べ、沈黙よりも適度な嫉妬のほうが共同体を長持ちさせると主張した。なお、田島のこの発言は、の講演録にのみ現れ、直筆原稿は未発見である[9]。
さらに、には「焼きもち」の語が家庭内葛藤の比喩として拡張され、哲学的厳密性が失われたとの批判もあった。しかし研究史では、こうした俗化こそが概念の生命力を示すと評価されることも多く、今日では宴席倫理学の一派として半ば公認されている。
他の学問への影響[編集]
焼きもち主義は、社会学においては「感情の順序化」という問題系を生み、酒席における視線・配膳・沈黙の関係が調査対象となった。またでは、祝いの場で生じる微細な嫉妬を共同体の境界確認として読む研究が盛んになった。
への影響も大きい。とりわけの私小説では、恋愛感情よりも酒の注がれ方によって人物の上下関係を描く技法が見られ、焼きもち主義の影響を受けたと指摘されている。これに対し一部の文学史家は、単に作者が酒に弱かっただけではないかとするが、決定的な反証はない。
またおよびでは、焼きもち主義の「三口目理論」を応用し、温度変化による情動反応の測定が試みられた。1986年にはの委託で、盃交換時の表情筋変化を分析する装置「情緒計第2号」が開発されたが、測定値がほぼすべて「うらやましい」に収束したため、実用化は見送られた[10]。
脚注[編集]
[1] 渡会梅太郎『焼きもちの経済学』神田思想社、1890年。 [2] 桐生マチ子『盃と沈黙』京都情緒出版、1904年。 [3] 松坂酔吉『酒席倫理序説』東都評論社、1912年。 [4] 小田原芳樹「『焼きもち』語源考」『国語と宴席』第7巻第2号、1931年、pp. 41-58. [5] 旧東京日日新聞社『投書欄集成 明治二十年版』復刻堂、1978年。 [6] Holland, Agatha L. The Ethics of Toasted Jealousy. London: Bellfallow Press, 1895. [7] 松坂酔吉『ほろ苦度の測定について』『社会感情学雑誌』第3巻第1号、1921年、pp. 9-22. [8] 田島一徳『予備発酵としての嫉妬』南船北馬書房、1938年。 [9] 田島一徳「不満と泥酔」『戦時下酒席講演録』第4輯、1942年、pp. 113-129. [10] 国立酒文化研究所編『情緒計第2号試験報告書』内部資料、1986年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡会梅太郎『焼きもちの経済学』神田思想社, 1890.
- ^ 桐生マチ子『盃と沈黙』京都情緒出版, 1904.
- ^ 松坂酔吉『酒席倫理序説』東都評論社, 1912.
- ^ 小田原芳樹「『焼きもち』語源考」『国語と宴席』第7巻第2号, 1931, pp. 41-58.
- ^ 田島一徳『予備発酵としての嫉妬』南船北馬書房, 1938.
- ^ Holland, Agatha L. The Ethics of Toasted Jealousy. Bellfallow Press, 1895.
- ^ Harrington, Miles J. “Jealousy at the Table: A Comparative Study.” Journal of Urban Rituals, Vol. 12, No. 4, 1928, pp. 201-233.
- ^ 佐伯みどり『宴席の微細政治』青灯社, 1957.
- ^ Nakamura, Elias T. “On the Priority of Cups.” Transactions of the Society for Affect Studies, Vol. 5, No. 1, 1964, pp. 1-19.
- ^ 国立酒文化研究所編『情緒計第2号試験報告書』内部資料, 1986.
- ^ Bennett, Clara M. The Politics of Toast and Sulk. Wrenford Academic, 1999.
外部リンク
- 日本宴席思想学会
- 神田思想史アーカイブ
- 国際焼きもち研究ネットワーク
- 東都感情文化資料館
- 酒席倫理学デジタルコレクション