菊地由依
| 氏名 | 菊地 由依 |
|---|---|
| ふりがな | きくち ゆい |
| 生年月日 | 1897年3月14日 |
| 出生地 | 福島県安達郡岳下村 |
| 没年月日 | 1964年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗技芸収集家、装束設計家、記録編集者 |
| 活動期間 | 1919年 - 1963年 |
| 主な業績 | 記憶の織物の体系化、祭礼衣装目録『由依帳』の編纂 |
| 受賞歴 | 日本記録芸術協会賞、東北文化功労章 |
菊地 由依(きくち ゆい、 - )は、日本の民俗技芸収集家、装束設計家、ならびに「記憶の織物」運動の提唱者である。地方祭礼の衣装記録と仮想舞台の演出で広く知られる[1]。
概要[編集]
菊地由依は、大正末期から昭和中期にかけて活動した日本の民俗技芸収集家である。とくに福島県から宮城県にかけての祭礼衣装、仮面、幟、奉納歌の記録を体系化したことで知られる。
彼女は、民間伝承を単なる採集対象ではなく、次代へ再演可能な「記憶の織物」として扱う立場を取り、東京市の編集者や京都の染織家と共同で独自の分類法を作成したとされる[1]。なお、この分類法は後年、の前身資料整理班にも参照されたとする説があるが、一次資料の所在には議論がある[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
菊地由依は、福島県安達郡岳下村の旧家に生まれる。父の菊地善之助は村役場の書記で、母のツルは村の神楽保存会で衣装の繕いを担っていたとされ、由依は幼少期から裂織りの端切れや祭礼の半纏に囲まれて育った。
の夏、安達太良山麓で行われた御神輿の修復作業を見学した際、彼女が「布地は記憶を運ぶ」と口にしたことが、周囲で語り草になったという。もっとも、この逸話は晩年の講演録にしか見えず、後年の編集が加わった可能性も指摘されている。
青年期[編集]
、由依は附属の家政科に入学し、染色学と服飾史を学んだ。卒業後は本郷の貸本屋で働きながら、古社寺の祭具目録を写し取る手伝いを始め、そこで民俗学者のに師事したとされる。
1919年には、折原の紹介で東京帝国大学の周辺研究会に出入りし、祭礼衣装の記録票に「着用者の癖」「雨天時の畳み方」「修繕糸の色番」を必須項目として加えた。これは当時としては異例に細かく、編集者の間では「一人だけの調査票を書いている」と揶揄されたという。
活動期[編集]
、由依は仙台で開催された地方文化資料展において、初めて「記憶の織物」という語を用いた。彼女は祭礼衣装を、単独の美術品ではなく、保管・継承・再演の三段階で変化する可動的資料と定義し、宮城県沿岸部の神社12社を3年かけて巡回した。
には、の臨時職員として、各地の奉納幕や幟の寸法を標準化する計画に参加した。標準化は最終的に8区分でまとめられたが、由依は「濃紺の偏差」を独立項目として扱うべきだと主張し、記録票にだけ色名が17種も増えたと伝えられる。
1941年以降は戦時統制のため調査が中断されたが、彼女は家庭用の裁縫帳を用いて記録を継続し、空襲で焼失した衣装の断片を、村ごとの証言から再構成する試みを行った。この作業はのちに『由依帳』と総称され、現存最古の版はに仙台市内の古書店から見つかったとされる。
人物[編集]
由依は寡黙で几帳面な人物として描かれることが多い。会話よりも記録を優先し、来訪者が茶を飲み終える前に採寸を始める癖があったとされる。
一方で、現地調査では驚くほど社交的で、東北地方の神社総代や踊り手に自ら歌を教わり、採集した文句をその場で書き写したという。とくに雨天の屋外調査を好み、「布は晴れの日より濡れた日のほうが本性を見せる」と語った逸話が残る[3]。
また、服装に関しては極端に実務的で、外出時は必ずポケットが12個ある上着を着用した。これは小物を用途別に分けるためであったが、周囲からは「持ち歩く書庫」と呼ばれていた。
業績・作品[編集]
記憶の織物[編集]
由依の最大の業績は、「記憶の織物」という概念を編み上げたことである。これは祭礼衣装や奉納布を、製作時点の様式だけでなく、修理痕、着用順、貸出記録、保管温度まで含めて一つの文化的実体として捉える考え方であり、後の民俗資料学に影響を与えた。
彼女はこの概念を代前半に東京府の私設講堂で発表し、聴衆に「布を見よ、布の向こうの借用関係を見よ」と説いたという。なお、講演メモには「貸し借りの多い衣装ほど共同体の結束が強い」とあり、社会学者の一部からは過度に美しい一般化だとして批判も受けた。
『由依帳』[編集]
『由依帳』は、由依がから断続的に編纂した祭礼衣装目録で、全14巻・補遺3冊からなるとされる。各巻には、地域名、布種、寸法、補修糸、染料、着用者の所作、保管時の匂いの傾向まで記録され、資料性の高さから後年の研究者に珍重された。
ただし、第9巻の奥付には発行所としてと記されているが、同名組織の実在は確認されていない[4]。このため、出版史研究では「私設研究所を名乗る半ば幻の出版物」として扱われることがある。
後世の評価[編集]
由依の評価は、民俗資料の保存と演出の境界を曖昧にした点にある。研究者の間では、彼女の仕事は厳密な学術記録というより、共同体の記憶を再配置する編集技法として理解されることが多い。
にはの公開講座で『菊地由依と可動文化財』が開催され、以後、祭礼衣装を単なる「所有物」ではなく「運用される文化」と捉える研究が進んだ。もっとも、由依のノートには色名の比喩が多すぎる、という理由で実証性を疑う声もあり、現在でも引用のたびに注記が付く。
に入ると、の特別展で彼女の記録帳の複製が公開され、来場者数は初日だけで4,812人に達したとされる。展示室の一角には「布は嘘をつかないが、記憶は少しだけ盛る」と書かれた由依の言葉が掲げられ、もっとも写真に残っているのは後年の書き足しである可能性が高い。
系譜・家族[編集]
菊地家は福島県内では古くから農村の書記や祭礼世話役を出した家系とされる。父・菊地善之助、母・ツルのほか、弟に菊地信彦、妹に菊地ヨシがいたと伝えられる。
由依は生涯独身であったとされる一方、京都の染織家・村上絹子との長年の往復書簡が残されている。書簡には実務上の議論が多いが、封筒の封蝋色が毎回異なるため、後世の研究者のあいだでは「準家族的関係」と呼ばれることがある。
弟子には、、らがいた。とくに高橋は、由依の死後に『由依帳』補遺の散逸原稿をまとめ、のちの設立に関与したとされる。
脚注[編集]
[1] 菊地由依研究会編『由依帳総説』東北文化社、1978年。
[2] 田島恒雄「戦前期資料整理における私設分類法の系譜」『民俗記録学年報』第12巻第2号、pp. 41-58、1989年。
[3] 村上絹子「雨天調査と布地の可読性」『染織と共同体』Vol. 4, No. 1, pp. 9-17、1966年。
[4] 中島栄一『幻の出版所と日本記録芸術』青灯書房、2002年。
[5] 佐伯ミドリ「菊地由依の色票法再考」『文化資料の編集』第7号、pp. 112-130、1997年。
[6] Harold S. Wetherby, "Mobility of Ritual Cloth in Northern Japan," Journal of Invented Ethnography, Vol. 3, No. 2, pp. 201-219, 1975.
[7] 小野寺良平『裏地の地図――東北衣装再演史』港湾出版、2011年。
[8] Margaret L. Henshaw, "The Kikuchi Method and Its Over-Precise Legends," Studies in Fabric Memory, Vol. 8, No. 4, pp. 77-96, 1994.
[9] 菊地由依「布見本の再番号付けについて」『記録芸術通信』第1巻第3号、pp. 3-11、1956年。
[10] 井上沙羅『記憶の織物入門』新風社、2018年。
脚注
- ^ 菊地由依研究会編『由依帳総説』東北文化社、1978年.
- ^ 田島恒雄「戦前期資料整理における私設分類法の系譜」『民俗記録学年報』第12巻第2号、pp. 41-58、1989年.
- ^ 村上絹子「雨天調査と布地の可読性」『染織と共同体』Vol. 4, No. 1, pp. 9-17、1966年.
- ^ 中島栄一『幻の出版所と日本記録芸術』青灯書房、2002年.
- ^ 佐伯ミドリ「菊地由依の色票法再考」『文化資料の編集』第7号、pp. 112-130、1997年.
- ^ Harold S. Wetherby, "Mobility of Ritual Cloth in Northern Japan," Journal of Invented Ethnography, Vol. 3, No. 2, pp. 201-219, 1975.
- ^ 小野寺良平『裏地の地図――東北衣装再演史』港湾出版、2011年.
- ^ Margaret L. Henshaw, "The Kikuchi Method and Its Over-Precise Legends," Studies in Fabric Memory, Vol. 8, No. 4, pp. 77-96, 1994.
- ^ 菊地由依「布見本の再番号付けについて」『記録芸術通信』第1巻第3号、pp. 3-11、1956年.
- ^ 井上沙羅『記憶の織物入門』新風社、2018年.
外部リンク
- 東北記憶資料アーカイブ
- 由依帳デジタル閲覧室
- 日本装束設計史研究会
- 民俗衣装編集館
- 記憶の織物ミュージアム