逃亡兵おきやま・ひむね
| 氏名 | 逃亡兵おきやま・ひむね |
|---|---|
| ふりがな | にげぼうへい おきやま・ひむね |
| 生年月日 | 9月17日 |
| 出生地 | 酒田市(とされる) |
| 没年月日 | 3月4日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 兵役拒否者・伝承語り手 |
| 活動期間 | 〜1938年(逃亡行と記録整理) |
| 主な業績 | 逃亡路の安全指針『夜露方位記』の編纂(とされる) |
| 受賞歴 | 1934年に「衡平歩兵精神」表彰(民間団体) |
逃亡兵 おきやま・ひむね(よみ、 - )は、日本の軍事逃亡伝説の当事者として知られる[1]。のちに各地の口承資料では「帰還不可能な勇気」を象徴する人物として扱われるようになった[2]。
概要[編集]
逃亡兵おきやま・ひむねは、近代日本の兵役制度における「追跡と更生」の物語を、奇妙な几帳面さで再配列した人物として知られる。彼の名は、酒田市の冬宿で語られたという逸話とともに、のちの民間史料に断続的に登場する[3]。
伝承では、ひむねはに出征直前、隊の行軍簿を「0.5歩の誤差」として改竄し、翌日には所在不明になったとされる。彼の逃亡は軍事事件として扱われた一方で、地域では「夜の道に数字を置く者」として再解釈され、社会へは“制度への距離の取り方”という形で影響したと考えられている[4]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
ひむねは9月17日、海陸の境界に近い酒田市の小さな蔵番家に生まれたとされる[5]。父は米の計量係、母は行商の帳面付けで、幼少期から「重さは嘘をつかない」を口癴として聞かされたという。
伝承上、ひむねは7歳のときに川沿いの石を数えて“潮の遅れ”を予測し、近所の漁師がそれに従って網を畳んだことがあったとされる。ある記録では、この時点で彼が覚えた石の数が「1,348個」であったと細かく記されており、後年の逸話のリアリティを支える材料とされている[6]。
青年期[編集]
、ひむねは酒田の紙問屋へ奉公したが、帳簿の端をなぞる癖がたびたび叱責され、同年末に別の学習塾へ移ったとされる。移転先の塾では、軍隊の行進教練が“数学の反復”として教えられていたといい、ひむねはその授業から「歩幅の整列は思想にも波及する」と学んだと語られた[7]。
、彼は地元の巡回検閲員が持ち込む兵籍書式に異様に関心を示し、誰にも見せない鉛筆箱を作って“紙面の呼吸”を観察していたという。この鉛筆箱がのちの逃亡の道具になったとする伝承もある[8]。
活動期[編集]
、ひむねは徴募で出征する部隊に編入された。だが彼は出発前、隊の行軍簿に「風向補正」という名目で一部の記載を差し替えたとされる。そこに出てくる数値が妙に具体的で、「北西からの偏角を17度、足跡の滲みを2刻」といった擬似天文学の値が残っていると伝えられている[9]。
逃亡の経路は秋田県から北海道へ直接向かったという説と、先に新潟県へ潜み鉄道の“時刻表の空白”を利用した説に分かれる。いずれにせよ、ひむねは「追う者と追われる者が同じ道を通るなら、危険は共有される」との理屈で、旅先で出会った人々に短い指示文を配ったとされる[10]。この指示文が、のちに『夜露方位記』という名でまとめられたとされる。なお、同書の頁数が「87頁」であったとする記述もあり、細部への執着が彼の象徴として語り継がれた[11]。
1938年ごろ、ひむねは逃亡を終えるにあたり、追跡部隊の退役者にだけ会う“条件付きの帰還”を行ったとされる。その場で彼は、謝罪と並んで「制度の文面を読む技術」を渡したといい、双方が互いの手を震えさせながら別れたという。ここは語りが多く、同じ場面でも年が1年ずれた複数の口承がある[12]。
人物[編集]
ひむねは「弱さを隠す強さ」を持つ人物として語られた。本人は戦場経験を誇らず、むしろ“逃げた理由が数字で書けるか”にこだわったとされる[15]。ある逸話では、彼が配った指示文には必ず余白があり、余白の幅を「指の第2関節の長さ」と揃えていたという。細部が守られていることで、指示が“物語”ではなく“実用品”になると彼は考えたのだと説明される[16]。
また、ひむねは他者の恐怖心に寄り添う言い回しを好んだとされる。たとえば、寒村で一晩泊めてもらった夜、彼は「凍るのは足ではなく、決心が遅れるからだ」とだけ言って黙ったという。聞き手は、その言葉が翌朝の行動を変えたと証言したとされる[17]。このように、彼の語りは説教ではなく設計図に近いものだったとまとめられている。
業績・作品[編集]
ひむねの代表作として扱われるのは『夜露方位記』である。これは単なる日記ではなく、雨の降り始めの音、靴底の摩耗、そして追跡者が残す“速さの癖”を分類して、逃亡者が短時間で安全度を見積もるための手引きだったと説明される[18]。
伝承上、同書には章立てがあり、第1章から第5章までが「露点の言い換え」、第6章から第9章までが「夜の地図」、第10章が「罪悪感の保温」といった妙に詩的な題名で構成されていたとされる[19]。このうち、第10章の最後には「罪悪感を熱にしないためには、湯を沸かす回数を数える」という短文があると伝えられるが、出典は口承のみである(口伝では要出典がつきそうな箇所として語られる)[20]。
ほかにも、ひむねが“作り話の形”で残したとされる小冊子『算歩の手紙』がある。これは、追跡を恐れる人へ向けた文章であるとされ、文面に行進速度の換算表が折り込まれていたと記される。換算表の数値は「時速3.2里→歩数4,760歩」というように不自然な精度であり、読む者に「計算できる恐怖」を与えたと評されている[21]。
後世の評価[編集]
後世の評価では、ひむねはしばしば二つの顔を持つとされる。第一の顔は、兵役制度から逸脱した“違反者”としての側面である。第二の顔は、逃亡を単なる不正義ではなく、生活知と観察術の体系として再編集した“語り手”としての側面である[22]。
前後から、地方紙や民間団体が『夜露方位記』の要約を掲載しはじめた。そこでは、逃亡兵という語が次第に“極端な自己保存”という言葉に置き換えられ、若者向けの防災読み物へ転用された。例えば、気象知識の教材に「露点の言い換え」が取り込まれ、教材としては「科学っぽいが、根拠は薄い」扱いになったとする指摘もある[23]。
一方で、彼の物語が“制度の否認”として消費されてしまうことへの批判も起きた。戦後に入っても、彼の数字の美しさだけが注目され、人が逃げた現実の痛みが薄れるという指摘がなされ、評価は一枚岩ではなかったとされる[24]。
系譜・家族[編集]
ひむねの家族については、同時代の公式記録がほとんど残っていないため、口承の系譜が中心となっている。伝承では、ひむねは逃亡中に一度だけ新潟県の織物職人の家で身元を名乗らず、帳面の手伝いをしたとされる[25]。
その家の娘と交流があったとされるが、結婚の時期は説と説に割れる。さらに、子の数も「一男」「一男一女」「子なし」の三説があり、どれも“夜露方位記”の余白に書かれていた痕跡を根拠にしていると説明される[26]。
晩年、ひむねは身寄りについて「名字は帳面の背骨であり、背骨だけなら折れても戻る」と語ったとされる。この言葉は彼の遺族が苗字を変えたことと結び付けて語られることがあり、系譜研究者の関心を集めたとされる[27]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田部井真澄『逃亡兵の数奇なる帳面:夜露方位記註解』潮鳴文庫, 1967.
- ^ マルグレット・A・ソーヤー『The Cartography of Fear in Early Modern Japan』University of Ashikaga Press, 1979.
- ^ 鈴木澄江『制度からの距離:兵籍書式と民間再解釈』東京学芸大学出版局, 1984.
- ^ E. R. Halverson『Fugitive Narratives and Weather Knowledge』Vol.12 No.3, Journal of Comparative Folklore, 1991.
- ^ 小林季人『行進教練は数学である:誤差と倫理の近代史』森瀬書房, 1998.
- ^ 水上延幸『酒田の蔵番と計量文化:1880-1910』山形地方史研究会, 2003.
- ^ 高橋礼子『戦時期の“言い換え”表現と検閲の実務』第6巻第2号, 日本社会言語学研究, 2010.
- ^ Sato, Kenji. 『Rounding Rules for Steps: A Study of 3.2里』International Review of Military Semiotics, pp.44-61, Vol.7, 2016.
- ^ 安倍羅生『衡平歩兵精神の民間表彰史(不完全資料集)』第三版, 書肆ノース, 2021.
- ^ (参考)ハルヴェル『Fugitive Narratives and Weather Knowledge』pp.44-61, Journal of Comparative Folklore, 1991.
外部リンク
- 夜露方位記研究会
- 酒田帳面資料室
- 口承史デジタルアーカイブ
- 歩数換算表コレクション
- 検閲と語り替えの実証研究所