麒麟愛宕の変
| 発生時期 | 1908年(明治41年)秋 |
|---|---|
| 発生場所 | 東京府東京市芝区愛宕山一帯 |
| 原因 | 麒麟像の脚部腐食と広告塔化をめぐる紛争 |
| 関与組織 | 東京市景観保全会、帝都醸造連盟、愛宕奉讃講 |
| 結果 | 像の一部撤去、代替像の設置、条例改正 |
| 別名 | 愛宕麒麟騒動、麒麟一揆 |
| 死傷者 | なし(ただし負傷した石工が2名) |
| 記録媒体 | 新聞各紙、写真絵葉書、回覧板 |
| 象徴 | 都市近代化と擬似宗教の衝突 |
麒麟愛宕の変(きりんあたごのへん)は、明治末期に東京の周辺で発生したとされる、像の保存修復を巡る政官財の対立事件である[1]。後世ではと、およびビール広告の境界が曖昧になった象徴的事例として知られている[2]。
概要[編集]
麒麟愛宕の変は、頂上付近に設置されていた巨大な像の保存をめぐり、東京府当局、地元町会、醸造業者団体が対立した事件である。像はもともとの参道整備事業の一環として建立されたが、のちに酒類広告と防火祈願の両方を担う「半公半私」の存在へと変質したとされる[3]。
事件の本質は、単なる彫像の損壊ではない。像の内部に仕込まれた回転式の案内板、胸部の発光窓、そして毎時正時に鳴る小鐘が、信仰・観光・商業宣伝の三要素を同時に刺激したことにある。なお、当時の新聞はこれを「東都における神獣広告の新段階」と評したが、後年の研究では、その表現自体が帝都醸造連盟の宣伝文案であった可能性が指摘されている[要出典]。
背景[編集]
愛宕山景観整備と麒麟像の建立[編集]
麒麟像は、東京市による防火設備強化計画の一環として、の石工・の設計で建てられたとされる。当初は高さ、台座込みでの比較的控えめな規模であったが、竣工直前にが協賛を申し出たため、尾部の意匠が瓶栓型に改められたという。
この改変により、像は「火伏せの獣」と「乾杯の獣」の二重解釈を持つこととなった。地元住民の一部はこれを歓迎したが、の奉賛会では、神獣を酒販広告の符牒に転用するのは不敬であるとして反発が生じた。
明治末期の広告規制と景観条例[編集]
に内務省が示した「高所掲示物取締通牒」は、屋上看板や塔上広告を事実上制限するものであったが、麒麟像は「文化財に準ずる公益造形物」として例外扱いを受けていた。これが、後の対立を一層複雑にした要因である。
は、像の胸部に設けられた発光窓を「夜間防犯灯」と説明しつつ、実際には月替わりで銘柄名が浮かび上がる仕組みを導入していた。これに対しは、麒麟像を「公共物の仮面を被った商業装置」と呼び、撤去請願を提出した。
経過[編集]
1908年10月の点検と脚部腐食の発見[編集]
10月14日、定期点検のために派遣された石工3名が、左後脚内部で深さの腐食孔を発見した。腐食の原因は、雨水ではなく、内部配線を守るために用いられた糖蜜防錆剤が夏季に発酵したためとされる。これにより像の一部から甘い匂いが漂い、近隣の子どもたちが「麒麟が熟した」と呼んで集まったという。
点検報告書がに回付されると、保存修復派は即座の補強を主張したが、撤去派は「腐った広告塔の延命は景観犯罪である」と反論した。両派の対立は、単なる行政判断の問題から、愛宕山の麓における世論戦へと発展した。
愛宕奉讃講の夜間占拠[編集]
夜、の講員約が麒麟像周辺を提灯で囲み、撤去工事に備えて一晩中読経を続けた。彼らは像の台座に「麒麟守護・酒禍退散」と書かれた木札を打ち付け、さらに缶詰の空き缶を鈴代わりに吊るしたため、深夜のは奇妙な金属音に包まれた。
この占拠は一見、宗教的抗議運動に見えたが、実際には地元商店街が翌月の秋祭りの集客を狙って支援していたとする記録が残る。なお、講員の中には銀座の洋品店主やの活版工も含まれていた。
11月2日の「麒麟転倒未遂」[編集]
、が補強用の鉄骨を搬入した際、作業員が誤って台座下の木楔を一本抜いたため、麒麟像が約傾いた。傾斜は直ちに止まったが、麒麟の首が朝日を受けて反射したことで、麓の住民が「像が一礼した」と受け取った。
この出来事は新聞で大きく報じられ、は翌朝の見出しで「麒麟、民意に頭を下ぐ」と記した。のちにこの見出しは、編集部の若手記者が半ば酔った状態で書いたものだと回想しているが、妙に好評であったため訂正されなかった。
関係者[編集]
中心人物とされるのは、東京市景観保全会の会頭、帝都醸造連盟の渉外係、および愛宕奉讃講の導師である。牧野は元逓信省官僚で、看板規制を都市秩序の問題として捉えた一方、斎藤は広告を「文化の夜間照明」と表現して世論を巧みに味方につけた。
藤堂は本来、系の寺院で修行した人物であったが、麒麟像を「火伏せの神使」と解釈し、酒販との結びつきも「供物経済」として容認したため、双方から危険人物とみなされた。なお、彼の残した演説録には「麒麟の尾が長いのは、苦情を三度巻くためである」との一節があるが、真偽は定かでない。
社会的影響[編集]
事件後、東京市は高所造形物の設置に関する内規を改め、像内部への広告装置埋設を原則禁止とした。また、周辺の商店では、麒麟の図柄を使う際には「公益使用」「販促使用」「祭礼使用」の三分類を申請する習慣が生まれたという。
一方で、この事件は都市のランドマークをめぐる市民参加の先例として評価されることもある。1920年代には大阪や横浜でも似た議論が起こり、塔や門柱に企業名を併記する慣行が一時的に広がった。もっとも、後年の都市史研究では、これらの動きの多くが麒麟愛宕の変の直接的影響ではなく、単に当時の広告景気によるものだとする見方が強い[4]。
後世の評価[編集]
都市神獣論への影響[編集]
昭和初期の都市論者は、麒麟愛宕の変を「神獣が市民社会に接続された最初の事件」と位置づけた。これにより、麒麟は単なる想像上の霊獣ではなく、公共空間の調停役として語られるようになった。
また、に刊行された『都市景観と霊獣の経済学』では、麒麟像の脚部腐食が「近代日本における耐久性と信仰の折衷」を象徴すると論じられた。ただし、同書の著者は現地調査を行わず、写真絵葉書だけで結論に達したと後に判明している。
批判と論争[編集]
麒麟愛宕の変をめぐっては、そもそも事件の呼称自体が後世のまとめであり、当時の公文書には「麒麟像補修及商標整理件」としか記されていないという批判がある。また、事件の中心に置かれることの多いの役割についても、実際には補助事務員に過ぎなかったとする異論がある。
一方で、像の腐食報告書に付された赤インクの修正跡が、どう見ても「撤去」と「保存」で書き分けられていたことから、東京市内部でも方針が割れていたのは確実とみられる。なお、当該報告書の末尾には「麒麟、夜半に鳴く」とだけ追記されているが、誰が書いたのかは不明である。
脚注[編集]
[1] 事件の基本情報は『東京市景観史料集』所収の回覧文書に基づくとされる。 [2] 麒麟像と広告の関係を指す用語は、1930年代の都市論で定着した。 [3] 建立年には1902年説もあるが、台座銘の摩耗のため確定していない。 [要出典] 糖蜜防錆剤の発酵説は一部の研究者のみが採用している。 [4] 横浜・大阪の類似事例との直接的連関は確認されていない。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 牧野源一郎『東京市における高所造形物の管理』東京景観研究会, 1910, pp. 44-79.
- ^ 斎藤新之助『広告と霊性のあいだ――帝都醸造連盟記録』帝都出版, 1912, Vol. 3, pp. 201-238.
- ^ 高橋利三『都市神獣論序説』岩波書店, 1934, pp. 12-56.
- ^ 長谷川善次郎『石工覚書・愛宕山麒麟建立日誌』私家版, 1909, pp. 5-19.
- ^ M. A. Thornton, The Public Beast and the Private Signboard, Cambridge Urban Studies, 1968, Vol. 11, No. 2, pp. 88-117.
- ^ Harold P. Kline, Civic Monsters of Meiji Tokyo, Journal of East Asian Municipal History, 1974, Vol. 8, pp. 140-176.
- ^ 東京市役所編『麒麟像補修及商標整理件書類』東京市公文書館, 1908, 第2巻第4号, pp. 3-41.
- ^ 藤堂玄圓『提灯の下の麒麟』奉讃講刊, 1911, pp. 1-27.
- ^ 田中澄子『愛宕山と夜光窓の社会史』中央史学, 1989, Vol. 22, No. 4, pp. 301-329.
- ^ Robert S. Elling, The Economics of Sacred Advertising in Port Cities, Bulletin of Imaginary Studies, 2001, Vol. 5, pp. 9-33.
外部リンク
- 東京市景観史料デジタルアーカイブ
- 愛宕山都市記憶研究会
- 帝都醸造史料室
- 麒麟像保存連盟
- 霊獣広告研究フォーラム