おしっこマンズ・チェスト
| 名称 | おしっこマンズ・チェスト |
|---|---|
| 別名 | 封尿箱、尿量帳、Mans Chest |
| 初出 | 1897年頃 |
| 考案地 | 神奈川県横浜市本牧地区 |
| 用途 | 尿の一時保管、航海記録、健康判定 |
| 材質 | 檜、真鍮、蝋引き布 |
| 運用組織 | 横浜港衛生調整会 |
| 流行期 | 1904年-1932年 |
| 代表的保管数 | 1箱あたり12〜18回分 |
| 現存確認数 | 国内外で27点 |
おしっこマンズ・チェストは、末の横浜で考案されたとされる、封尿式のである。主にの健康管理と、航海中のを兼ねた装置として知られている[1]。
概要[編集]
おしっこマンズ・チェストは、明治後期から昭和初期にかけて、日本の港湾都市を中心に用いられたとされる封尿式の箱状器具である。内部に小瓶を格納し、記録札とともに封印することで、排泄の回数・色調・塩気を一括管理したという。
一般には衛生器具として理解されることが多いが、実際にはの簡易航海観測具として発展した、という説と、の密輸監視補助具として拡張された、という説が並立している。なお、名称に含まれる「マンズ」は、現場で尿量を報告する際の符丁「mans, chest, next」の頭文字に由来するという説明がしばしば見られるが、この解釈は後年の研究者による再構成であるとされる[2]。
歴史[編集]
成立[編集]
創案者として最もよく挙げられるのは、横浜の衛生技師・である。西川は、居留地の倉庫で働く労働者が夏季に脱水で倒れる事例を受け、尿を捨てずに観察することで塩分不足を早期に察知できると考えたとされる。最初期の試作箱は、の材木問屋が提供した廃材を再利用したもので、蓋の裏に「三回目より注意」と墨書されていたという。
この装置が注目された背景には、当時のとの奇妙な接近がある。労働者一人ひとりの体調を把握するため、尿量を「朝・昼・夜」の三区分で集計する方式が採られ、箱の外側には配達伝票のような欄が設けられた。これにより、現場監督は紙面上で体調の変化を追えるようになったが、実際には数字だけが先行し、誰も中の小瓶を確認しないまま箱ごと積み上がる事例が多発したという。
普及と改良[編集]
の日露戦争期には、に伴う長期乗船者の健康保持のため、簡略型の「二段式チェスト」が採用された。上段には記録帳、下段にはガラス瓶が収められ、潮風でラベルが剥がれないよう、瓶口に蜜蝋を厚く塗る方式が標準化されたとされる。これがのちに「蝋塗り過剰問題」と呼ばれ、東京の衛生雑誌で小論争になった[3]。
また、大正期には大阪の商社が木製からブリキ製への量産化を試みた。これにより軽量化は進んだが、夏場に内部のアンモニア臭が増幅し、検査官が中身を確認する前に記録だけ受理する慣行が広がった。ある報告では、の試験導入で「箱の存在が健康よりも威圧感を与えた」と記されており、労務管理の道具としてはむしろ成功したと評価されている。
衰退[編集]
衰退の契機は1932年の港湾衛生規程改正である。尿検査が紙片式の簡易試薬に置き換えられ、重い箱を持ち回る必要が薄れたことから、現場からは急速に姿を消した。ただし、の一部倉庫では、箱を弁当入れに転用した例があり、昭和中期まで「チェスト持参で来ると仕事が早い」という俗信が残った。
一方で、民間療法の分野では完全には消滅せず、戦後も地方の巡業医が「一晩寝かせた尿で体質を見る」際の収納具として細々と使用したとされる。これらの用法は、医学的にはほぼ意味がないにもかかわらず、箱そのものの神秘性が支持され、骨董市では中身のない箱だけが高値で取引されたという。
構造と機能[編集]
おしっこマンズ・チェストの標準型は、高さ約28センチメートル、幅19センチメートル、奥行き16センチメートルで、内部に4本または6本の小瓶を収める桟が切られていた。蓋の内側には通風孔があり、開閉時に「乾いた紙鳴り」がすることが重視されたという。
箱の側面には、を模した透かし彫りが入る場合があり、これは単なる意匠ではなく、尿の振動を和らげるための「気流整流模様」と説明された。しかし、実際に整流効果があったかは不明であり、要出典の注記が付くことが多い。なお、一部の高級品にはの取っ手が付けられ、船医や港務監督が自ら運ぶ際の地位表示になっていた[4]。
社会的影響[編集]
この器具は、衛生と管理の境界を曖昧にした点で当時の社会に大きな影響を与えたとされる。労働者は自分の体調を「箱に入る量」で語るようになり、港湾では「今朝は満杯だ」「今日は半箱で済む」といった表現が一般化したという。
また、女性労働者の採用が増えると、従来のチェストが男性向け設計であることが問題視され、にはで「小判形瓶の導入」をめぐる討議が行われた。議事録によれば、ある委員が「尿に性別はないが、箱にはある」と発言し、これが後年、民俗工学史の有名な一節として引用されている[5]。
批判と論争[編集]
批判の多くは、衛生と検査を装いながら実際には監視を強める制度であった、という点に集中している。特にのでは、チェスト運用が「体内の事情を箱の事情に変換する装置」であると批判され、読者投稿欄でも「木箱で人をはかるのは近代の恥である」とする意見が掲載された。
一方で、擁護派は「当時の医療水準では合理的な妥協だった」と主張し、箱の普及が脱水症の減少に寄与したとする統計を提示した。ただし、その統計は配布枚数と回収枚数を取り違えていた可能性があり、研究者の間では信頼性が低いと見なされている。なお、所蔵の原票には、なぜか全員の尿色が「琥珀色」と一括記載されており、この点は現在も説明されていない。
現存資料[編集]
現存が確認される実物は、、、などに分散している。中でも最も有名なのは、の関東大震災後に焼け残ったとされる「第7号箱」で、蓋裏に「本日より塩湯を増すべし」と記された札が貼られている。
また、ロンドンの私設コレクションには、英訳ラベル付きの「Oshikkomanzu Chest, No. 3」が存在するとされるが、実際には後世の土産物屋が作った復刻品ではないかという指摘もある。もっとも、この種の混乱は当該分野では珍しくなく、真贋の境界自体が文化史の一部として扱われている。
脚注[編集]
[1] 西川半次郎『港湾衛生と封尿箱の研究』横浜衛生学会、1902年。 [2] 斎藤篤『マンズ語源考』私家版、1938年。 [3] 山口里枝「蜜蝋過剰塗布症候群について」『港湾衛生雑誌』Vol. 4, No. 2, 1911年, pp. 11-29. [4] Edward J. Wilkins, “On the Ventilation Patterns of Small Hygienic Chests,” Journal of Maritime Sanitation, Vol. 8, No. 1, 1924, pp. 3-18. [5] 横浜商工会議所議事録編纂室『大正七年労務衛生討議録』1920年。 [6] 田代清子『尿量帳の民俗史』岩波地方文化選書、1967年。 [7] Margaret L. Henshaw, “Boxes, Bodies, and Ports: A Comparative Study,” The East Asian Hygienic Review, Vol. 12, No. 4, 1959, pp. 201-233. [8] 小川辰夫「封尿式器具の材質と臭気保持」『日本民具研究』第15巻第3号, 1978年, pp. 44-60. [9] Herman V. Klint, “Notes on the So-Called Mans Chest,” Bulletin of Applied Folklore, Vol. 2, No. 3, 1931, pp. 77-81. [10] 里見佳奈『海風と小瓶――近代港湾の生活技術』港文社、2004年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 西川半次郎『港湾衛生と封尿箱の研究』横浜衛生学会, 1902.
- ^ 斎藤篤『マンズ語源考』私家版, 1938.
- ^ 山口里枝「蜜蝋過剰塗布症候群について」『港湾衛生雑誌』Vol. 4, No. 2, 1911, pp. 11-29.
- ^ Edward J. Wilkins, “On the Ventilation Patterns of Small Hygienic Chests,” Journal of Maritime Sanitation, Vol. 8, No. 1, 1924, pp. 3-18.
- ^ 横浜商工会議所議事録編纂室『大正七年労務衛生討議録』1920.
- ^ 田代清子『尿量帳の民俗史』岩波地方文化選書, 1967.
- ^ Margaret L. Henshaw, “Boxes, Bodies, and Ports: A Comparative Study,” The East Asian Hygienic Review, Vol. 12, No. 4, 1959, pp. 201-233.
- ^ 小川辰夫「封尿式器具の材質と臭気保持」『日本民具研究』第15巻第3号, 1978, pp. 44-60.
- ^ Herman V. Klint, “Notes on the So-Called Mans Chest,” Bulletin of Applied Folklore, Vol. 2, No. 3, 1931, pp. 77-81.
- ^ 里見佳奈『海風と小瓶――近代港湾の生活技術』港文社, 2004.
外部リンク
- 横浜港衛生史アーカイブ
- 日本民具図像データベース
- 港湾労働文化研究所
- 封尿箱保存会
- 近代衛生器具蒐集協会