がにまた子
| 氏名 | 蟹股子 |
|---|---|
| ふりがな | かにまたこ |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 出生地 | 静岡県浜名郡舘山寺村 |
| 没年月日 | 1987年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗姿勢研究家、舞踊構成家、随筆家 |
| 活動期間 | 1934年 - 1984年 |
| 主な業績 | がにまた歩法の体系化、地方巡業劇の動作監修、姿勢学講座の創設 |
| 受賞歴 | 日本民俗身体文化賞、浜松文化功労章 |
蟹股子(かにまたこ、 - )は、日本の民俗姿勢研究家、舞踊構成家である。いわゆる「がにまた歩法」の理論化と普及により広く知られる[1]。
概要[編集]
蟹股子は、昭和期に活動した日本の民俗姿勢研究家である。地方芸能に見られる独特の脚運びを「がにまた歩法」と命名し、東京帝国大学の外郭研究会で注目を集めた人物として知られる[1]。
彼女は、歩行時に膝が外へ開く所作を単なる癖ではなく、海浜地帯の労働文化に由来する準儀礼的な動作であると主張した。また、その理論を実演と講義で組み合わせたことで、から大阪府にかけての演芸界に影響を与えたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
蟹股子は、のに生まれる。家は旅籠兼網元で、幼少期から干潮時の浜辺を横歩きで往来する漁師たちを見て育ったという[3]。
本人の回想によれば、のときに父の船が浅瀬で座礁し、乗組員全員が砂州を避けるため膝を開いたまま移動した場面に強く感銘を受けたとされる。この体験が後年の「がにまた起源説」の原点になったとされるが、同時代の記録はきわめて少ない。
青年期[編集]
、に相当する私立講習所へ進み、とを並行して学んだ。ここで彼女は、演目の足さばきが地方ごとに異なることに気づき、動作比較のために計枚のスケッチを作成したという[4]。
1934年にはの補助調査員となり、京都市で行われた公開実験で「がにまたの方が畳上での安定性が14%高い」と報告した。この数値は後年もしばしば引用されたが、測定条件がかなり恣意的であったとの指摘がある。
活動期[編集]
1941年、蟹股子は『』を自費出版し、神奈川県の漁村で見られる「外旋歩行」を、湿地の多い土地に適応した生活技法として整理した。これにより、学術界では半ば異端、半ば実用の研究者として扱われるようになった[5]。
には東京都のに「姿勢文化研究所」を設立し、のべの受講生に対して歩法講義を行った。受講生にはなどが含まれ、特に巡査向けの「威圧せずに前進するがにまた訓練」が一部で話題になったとされる[6]。
晩年と死去[編集]
に入ると、蟹股子はの温泉地で療養生活を送りながら、口述筆記による『歩行の余白』を執筆した。ここでは自身の理論を「人は直立しているのではなく、地面と交渉している」と要約しており、哲学的な文体で再評価された[7]。
、74歳で死去した。死因は心不全とされるが、最期まで「足幅は思想である」と繰り返していたという逸話が残る。葬儀では参列者の半数以上が通常より少しだけ足を開いて焼香したと伝えられる。
人物[編集]
蟹股子は、厳格な調査態度と奇矯な身振りが同居した人物として語られる。講義中に机の下へ紙製の小舟を置き、受講者に「これが水平だと思うか」と問うた逸話が有名である[8]。
性格は温厚であったが、歩幅に関する議論になると急に口調が早くなったという。また、大阪の寄席で自説を講演した際、聴衆の笑いを「理解の前段階」と呼んで全く動じなかったとされる。
一方で、彼女は身内に対してはかなり几帳面であり、家族の靴の並べ方まで研究対象にしていた。晩年の日記には「靴先の向きは、その家の未来予報である」と書かれているが、出典の真偽は定かでない。
業績・作品[編集]
著作[編集]
代表作は『』『』『』の三部作である。とくに『脚線と民俗』は、1940年代の地方雑誌ににわたって要約転載され、農村青年の間で奇妙な読まれ方をした[9]。
また、『歩行の余白』には「膝は内省の器官ではなく、社会的な角度である」という一節があり、後の姿勢論者に引用された。なお、彼女の本は脚の図版だけ妙に精密で、本文より図の方が学術的であると評された。
舞台・講座[編集]
、大阪市ので行われた舞踊監修『外へ開く人々』では、登場人物全員の足運びを統一し、観客動員を記録した。舞台の終盤で主要人物が一斉に横向きで退場する演出は、当時「不自然だが忘れがたい」と評された[10]。
さらに、NHK系の教養番組「身体の作法」にも出演し、の放送時間中に実際の歩行を修正したとされる。この出演を機に、家庭での姿勢教育ブームが一時的に起きた。
理論[編集]
蟹股子の理論の核心は、がにまたを「外圧に対する柔らかな防御姿勢」と定義した点にある。彼女はこれをの三要素から説明し、独自の「三角安定説」を提唱した[11]。
また、研究所では脚幅をの三段階に分類し、最適値を年齢と職業で変える方式を採用した。もっとも、晩年になるほど「最適値はその日の機嫌で変わる」と語っており、理論的厳密性はあまり重視されなかったようである。
後世の評価[編集]
蟹股子の評価は、民俗学・身体文化史・舞台芸術の三領域で分かれている。民俗学者の一部は彼女を疑似科学的とみなしたが、演劇関係者は「演者の重心感覚を言語化した稀有な人物」として再評価した[12]。
以降は、東京都立大学の身体文化研究ゼミで断続的に引用され、特に「がにまた歩法」はスポーツ科学の姿勢論と雑に接続されることが増えた。なお、2014年に公開された再検証論文では、彼女の計測装置の一部がとで代用されていた可能性が示されている。
浜松市では今なお小規模な顕彰が行われ、毎年に「外脚の日」講習会が開かれる。ただし参加者の多くは健康教室目当てであり、蟹股子の原典に触れる者は少ない。
系譜・家族[編集]
蟹股子の父は網元の、母は裁縫師のとされる。兄に、妹にがいたというが、家系図は戦災で失われたとされ、のちに本人が半ば想像で補完した形跡がある[13]。
1938年にの郡役所勤務だったと結婚し、子は二女一男である。長女のは教師、次女のは看護師、長男のは港湾作業員となったとされる。
また、蟹股子の親族には「歩幅が広い家系」として知られる者が多かったとされるが、本人はこれを遺伝ではなく「浜風による生活習慣」と説明していた。この説は一家の宴席で毎回議論になったという。
脚注[編集]
[1] もっとも基本的な人物紹介は『日本民俗姿勢研究人名録』に基づくとされる。
[2] 活動地域と受容の広がりについては、当時の講演録に散見される。
[3] 出生地は本人の口述筆記によるが、村史には同名の世帯が複数記録される。
[4] スケッチ枚数は『脚線と民俗』増補版の付録による。
[5] 研究会記録には「脚部の回転」という表現があり、後年の解釈と一致しない部分がある。
[6] 受講者数は研究所台帳の集計値であるが、欠席者の重複除外方法が不明である。
[7] 口述筆記版は一部が遺族保管のため確認が難しい。
[8] この逸話は弟子の回想録にのみ見える。
[9] 転載の実態は不明であるが、地方雑誌の索引に題名の痕跡がある。
[10] 舞台評は各紙でおおむね好意的であったが、動線設計への批判もあった。
[11] 三角安定説は、後年の図解でやや単純化されたとされる。
[12] 再評価の契機は、身体文化研究の流行によるものとされる。
[13] 戦災による史料焼失は本人の説明であり、裏づけは薄い。
脚注
- ^ 蟹股子『脚線と民俗』姿勢文化社, 1941年.
- ^ 田端三郎「外旋歩行の社会的意味」『民俗身体学紀要』Vol. 8, No. 2, pp. 41-66, 1953年.
- ^ Margaret L. Henshaw, "Kanimata and the Rural Posture Question," Journal of Comparative Folklore, Vol. 14, No. 1, pp. 112-139, 1961.
- ^ 高橋いづみ『昭和身体文化史』青潮書房, 1978年.
- ^ 藤森健一「蟹股子研究所台帳の再検討」『近代芸能史研究』第12巻第4号, pp. 203-221, 1989年.
- ^ Eleanor P. Briggs, Posture as Performance, Kettleford Press, 1997.
- ^ 渡辺精一郎「がにまた歩法の地域差に関する一考察」『浜名湖文化論集』第5号, pp. 77-94, 2004年.
- ^ 佐久間葉子『歩行の余白とその周辺』海鳴社, 2011年.
- ^ Ian R. Coleman, "The Triangular Stability Theory and Its Misreadings," Asian Body Studies Review, Vol. 22, No. 3, pp. 5-28, 2015.
- ^ 蟹股子『浜辺の直立』姿勢文化社, 1958年.
- ^ 河原田真「『外へ開く人々』上演資料の検証」『舞台史研究』第19巻第1号, pp. 88-103, 2020年.
外部リンク
- 日本姿勢文化アーカイブ
- 浜松身体民俗資料室
- 神田旧姿勢研究所記念会
- 外脚の日実行委員会
- 昭和歩法データベース