さむ ぺい
| 氏名 | 寒 兵衛 |
|---|---|
| ふりがな | さむ べい |
| 生年月日 | 1898年2月14日 |
| 出生地 | 北海道札幌区琴似村 |
| 没年月日 | 1964年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗工学者、測寒具収集家 |
| 活動期間 | 1921年 - 1963年 |
| 主な業績 | 極温記録帳の編纂、寒候地図の標準化 |
| 受賞歴 | 北方民具功労章 |
寒 兵衛(さむ べい、 - )は、日本の民俗工学者、測寒具収集家、ならびに冬季儀礼研究家である。極温記録帳の編纂者として広く知られる[1]。
概要[編集]
寒 兵衛は、大正末期から昭和中期にかけて活動した日本の民俗工学者である。主として北海道と東北地方における冬季生活の記録、ならびに雪害を数値化するための独自指標の整備で知られる[1]。
彼の名が広く流布したのは、にで刊行された『極温記録帳 第一輯』によってである。この冊子は、各地の気温ではなく「人が言葉を失うまでの時間」を基準に寒さを測ったため、当時の研究者からは半ば珍書として扱われたが、のちに関係者の一部が実務資料として参照したとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
寒兵衛は、北海道札幌区琴似村の開拓農家に生まれる。戸籍上は三男であったが、冬の夜にだけ起きて帳面をつける癖があり、家族からは「夜の書記」と呼ばれていたという。少年期には沿岸の防寒小屋を巡り、炉の大きさと火持ちの関係を独学で記録した[3]。
頃、近隣ので配布された地理読本に強い関心を示し、寒地の図版だけを切り抜いて貼り合わせる習慣を持った。この頃、彼はすでに「雪は積もるのではなく、町の音を吸う」と記しており、後年の研究の原型が見える。
青年期[編集]
、予科に進むが、農具よりも温度計の球部に魅了され、理化学教室の備品を勝手に修理したことから退学寸前となった。のちに東京帝国大学の臨時講習に出入りし、系の民俗調査法と、工学的な計測を接合する独自の方法論を身につけたとされる[4]。
には、青森県の吹雪観測補助員として冬季巡回に従事し、ここで「吹雪は風ではなく、方向を忘れた地形である」という有名な持論をまとめた。なお、この言葉は後に学校教材に引用されたが、原典の出典は長く不明であった。
活動期[編集]
、寒兵衛はの私設印刷所「北方記録社」から『極温記録帳 第一輯』を刊行した。これはの統計表を下敷きにしつつ、村ごとの「凍結沈黙率」「手袋再装着頻度」「湯気の立ち上がり角度」を独自に集計したもので、編集作業には延べの郵便局員、の炭鉱夫、そして1匹の番犬が協力したという[5]。
1934年には東北地方での聞き取り調査をもとに「寒候地図」を発表し、気象庁の前身機関である中央気象台の一部研究者と交流を持った。彼は積雪量を単純なセンチメートルで示すことを嫌い、「軒先が沈むまでの拍数」を併記させたため、当初は不評であったが、地元自治体の除雪計画に採用された例もある[6]。
には旭川の講演会で、冷害対策を「生活技術の総体」として捉える提言を行い、同年から文部省の委嘱で児童向け冬季教材の監修に携わった。この教材には、手袋の左右を識別するための符号表が掲載され、戦後の家庭教育にわずかながら影響を与えたとされる。
人物[編集]
寒兵衛は寡黙であったが、質問されると急に饒舌になる癖があった。弟子たちの証言によれば、彼は会話の冒頭で必ず「まず手を温めよ」と言い、机の上に湯のみを三つ並べたという。
性格は几帳面で、記録票の余白まで埋める一方、現地調査ではしばしば道に迷った。あるとき青森県の吹雪の中で方位磁石を逆さに持ち、「北は人を試す向きである」と言ったという逸話が残る。
また、彼は講演のたびに異なる柄のマフラーを巻いたため、聴衆からは「毛織物で注釈を付ける男」と呼ばれた。本人はこれを嫌がらず、むしろ「冬は装飾の少ない学問を好まない」と返したとされる[8]。
業績・作品[編集]
寒兵衛の代表作は、『極温記録帳』全4輯である。各輯はから1941年にかけて断続的に刊行され、寒さを「人間の声量が何割下がるか」で分類した点に特徴がある。とくに第三輯では、北海道の村落を巡って採取した「凍結語彙」が掲載され、地方方言研究にも影響したとされる。
ほかに『寒候地図概論』、『雪解けの民具学』、『炉辺の統計学』などがある。『炉辺の統計学』は一般向けの啓蒙書としては異様に細かく、ページ脚注の数が本文より多い箇所があり、要出典と見なされることもある。
技術面では、彼が考案した「三拍測寒法」が有名である。これは戸外で三回拍手を打ち、その反響の鈍さによって気温階級を推定する方法で、にの一部で試験採用された。ただし雪原では正確、都市部ではほぼ無効であったため、後年は儀礼的測定法として扱われた[9]。
なお、の論文「暖房は社会関係である」では、火鉢の位置が家族の会話量を左右するという仮説を提示し、のちの生活文化研究に奇妙な影響を与えた。
後世の評価[編集]
寒兵衛の評価は、生前から一貫して二分された。実務家からは「数字の多すぎる民俗家」と見なされた一方、地方史研究者のあいだでは、失われつつあった冬季生活の記録者として再評価が進んだ。
、北海道大学の研究会が未公刊原稿を整理したことで、彼の手法が単なる奇人の逸話ではなく、戦前戦後の寒冷地政策の補助線として機能していたことが指摘された。とくに「寒候地図」は、後のやの参考図として引用された例がある[10]。
一方で、気温の代わりに沈黙や拍数を測る手法は、科学としては再現性に乏しいとの批判もある。しかし、その半ば詩的な測定法ゆえに、今日ではとの境界領域でしばしば言及される。
系譜・家族[編集]
寒兵衛の父・寒 政吉は開拓農民、母・寒 チエは出身の織物職人であったとされる。妻の寒 とみは旭川の裁縫学校出身で、調査旅行のたびに防寒具の補修を担った。夫妻のあいだには長男・寒 一郎、次男・寒 次郎が生まれ、次男は後年の装備係として勤務したという。
また、甥の寒 透はにの雪対策係へ入り、叔父の測寒票を行政文書に転用したといわれる。寒家は冬の記録を家業のように引き継いだ一族として語られるが、血縁関係の一部は後年の聞き書きに依拠しており、確定には至っていない[11]。
脚注[編集]
[1] 寒兵衛の略伝は『北方民俗人物事典』に基づく。 [2] 『極温記録帳 第一輯』序文。 [3] 札幌市郷土資料館所蔵の聞き書き断片。 [4] 東京帝国大学臨時講習記録、1920年度。 [5] 北方記録社編集部の回想録による。 [6] 中央気象台関係者の証言は複数あるが、相互に細部が一致しない。 [7] 神田古書会館の口述記録。 [8] 寒兵衛講演録『冬を読む』。 [9] 北海道庁試験報告書第12号。 [10] 北海道大学寒地研究会紀要第8巻第2号。 [11] 寒家系譜帳は昭和末期に再整理された。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 寒井隆一『北方民俗人物事典』北海書房, 1978年.
- ^ 三輪久子『極温記録帳の研究』冬田出版, 1984年.
- ^ A. Thornton, "Cold Metrics and Rural Speech", Journal of Northern Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 41-68, 1991.
- ^ 渡瀬精蔵『寒候地図と生活技術』北海道大学出版会, 1993年.
- ^ M. Sato and J. Collins, "Three-Clap Thermometry in Hokkaido", The Anthropological Review of Climate, Vol. 5, No. 1, pp. 9-27, 2001.
- ^ 斎藤みどり『炉辺の統計学入門』青燈社, 2005年.
- ^ 林田修『戦後地方行政と測寒資料』地方史資料研究所, 2012年.
- ^ Eleanor P. Webb, "Winter as Dialogue: A Note on Sumupei Kanki", Proceedings of the Society for Folkloric Engineering, Vol. 18, No. 2, pp. 110-129, 2014.
- ^ 寒野あや『雪解けの民具学』北方文庫, 2016年.
- ^ 高橋冬人『暖房は社会関係である――寒 兵衛再考』札幌人文書院, 2021年.
外部リンク
- 北方民俗資料アーカイブ
- 札幌冬季文化研究センター
- 寒候地図デジタル校訂版
- 極温記録帳全文検索
- 地方史と測寒法の会